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日本の縁起物である招き猫。今では「ラッキーキャット」として海外でも注目のアイテムです。今回は有名な2つの招き猫伝承と、招き猫人形の発祥についてご紹介します。
招き猫伝承で広く知られているのが、東京世田谷の豪徳寺に伝わる話。江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎の孫といわれている直孝が、豪徳寺の門前で手招きをする猫に誘われ、豪徳寺で休息したところ落雷の難を逃れた、というものです。
当時は荒れ寺でしたが、和尚は突然の来客にも精いっぱいのもてなしをし、因果説法などをしたといいます。貴重な法話を聞くことができたうえ、落雷にあわず生命の危機を逃れた直孝はこれぞ仏の因縁と感嘆。この寺を井伊家の菩提寺に決め、田畑などの寺領や堂宇を寄進したのだとか。こうして傾いていた寺は隆盛のきっかけをつかみます。
江戸の新吉原には、大の猫好きだった「三浦屋」の薄雲大夫が。花魁道中にも愛猫タマを抱いて歩き、寝床や厠まで一緒とまさに猫かわいがり。「薄雲は魔性の猫に魅入られた」との町の噂を案じた三浦屋の主人は、厠(トイレ)に入ろうとする薄雲の足元にいたタマの首を打ち落とします。ところがはねられたタマの首は宙を舞い、厠に潜む大蛇をかみ殺して薄雲を助けました。タマの死を嘆き、悲しみに暮れる薄雲のため、贔屓客が高価な香木の伽羅で猫の姿を彫らせて贈ったとか。その猫人形の類似品が浅草あたりで売られ、招き猫人形となったとする説もあります。
いっぽうの招き猫人形発祥は、浅草今戸の今戸焼から、というのが定説です。安土桃山時代の初頭、天正年間(1573~1592年)。隅田川西岸の今戸地域で焼物に適した粘土が採取されたため、付近の家々は瓦や生活雑器をつくるようになりました。
江戸時代になって徳川氏の江戸入府にともない、三河(愛知県)から陶工が移住してきたことや、江戸のにぎわいによって今戸焼も繁栄。元禄のころには、土人形も盛んにつくられたとか。ちょうど新吉原の薄雲大夫の話と同時代で、浅草で人気になったのは木製の猫ではなく、この今戸焼の招き猫だったというのが有力です。