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2020.03.13

高輪ゲートウェイ駅開業!海の上に線路?品川のそばに海?高輪の意外な3つの歴史

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2020年3月14日、JR東日本の新駅「高輪ゲートウェイ」が開業します。

「高輪ゲートウェイ」駅は、JR山手線・JR京浜東北線品川駅と田町駅の中間にあります。山手線に新しい駅が誕生するのは実に46年ぶりで30番目の駅、京浜東北線に新しい駅ができるのは19年ぶりで47番目の駅となります。
ここには、もともと広大な車両基地「東京総合車両センター田町センター」がありました。

祝「高輪ゲートウェイ」駅開業ということで、この記事では、「高輪」の街に関する歴史ネタを3つ選んでご紹介します。

地名の由来と江戸時代の高輪

ところで、なぜ「高輪」と言うのか、地名の由来をご存じですか?
調べてみたところ、地名の由来には諸説あることがわかりました。

「高縄手道」の略とする説

「高縄手道」、つまり「高台のまっすぐな道」が略されて「高縄」になったという説が最有力とされています。
この地名の歴史は古く、戦国時代がはじまった大永4(1524)年に、江戸城を攻めた小田原・北条軍が、守る上杉軍と激戦を展開した地として、「高縄原」の名が軍記類に登場します。

「高鼻和」にちなむとされる説

鎌倉時代に成立した日本の歴史書『吾妻鏡』の文治5(1189)年7月19日条にある「高鼻和太郎」の名前にちなむものとされる説もありますが、語音の類似のみが根拠のようです。
高鼻和太郎は、奥州合戦の際、鎌倉から御供した人物の一人です。

「高輪」となったのは江戸時代

表記も、高縄、高鼻和、高名輪、高畷など、時代によって様々あったようですが、現在の「高輪」に落ちついたのは、江戸時代の『正保郷帳(しょうほうごうちょう)』にある記録が最初とされています。
『正保郷帳』は、江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた郷帳で、村の名と村高(村の生産力)をまとめた統計書です。正保元(1644)年に作成が命じられ、それから数年がかりで国ごとに提出されました。

江戸時代の高輪は、江戸の中心部からは少し離れた町外れで、高台には諸藩の下屋敷が多く置かれていました。
明治時代以降になると、皇族・高官・財界人の邸宅が建ち並びました。現在でも、高輪の緑豊かな閑静な住宅地は、高級住宅街の一つとして知られています。

江戸の出入口「高輪大木戸」

宝永7(1710)年、現在の高輪2丁目に、御府内と御府外を区別する木戸「高輪大木戸」ができ、高札場の役割も果たしました。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから「大木戸」と呼ばれ、東海道の江戸の出入口として、旅人やその送迎客でにぎわいました。
また、伊能忠敬(いのう ただたか)が日本地図作成のために行った測量の起点が「高輪大木戸」でした。

歌川広重(二代)「東海道名所之内 高輪大木戸」(『東海道名所風景』より) 国立国会図書館デジタルコレクション
14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)は、公武合体を推進するため、京都の孝明天皇のもとへ向かいました。この浮世絵は、行列の一部が、「高輪大木戸」の辺にさしかかった様子を描いています。

明治元(1868)年、「高輪大木戸」の西側の石垣が取り払われました。現在は、国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されています。

「二十六夜待」の名所、高輪

「二十六夜待(にじゅうろくやまち)」とは、1月と7月の26日の夜、月の出るのを待って拝むことです。

「高輪海辺 七月二十六夜待」(『江戸名所図会』より) 国立国会図書館デジタルコレクション
七月の二十六夜待の様子を描いています。月が出るところなので、夜中の1時~2時頃の様子と思われます。

この夜は、月光の中に阿弥陀、観音、勢至(せいし)の三尊が現れると言い伝えられ、月の出るのを待って拝む風習がありました。「二十六夜待」は、特に、江戸の高輪から品川の海辺で盛んに行われました。

歌川広重(三代)「江戸名所 高輪秋の景」(『東都名所』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

最初のイギリス公使館が置かれた場所は、高輪の東禅寺

東京都港区は、外国の大使館が日本で一番多く置かれている自治体です。現在、日本には約140カ国の大使館がありますが、その半数以上が港区にあります。

安政元(1854)年、日米和親条約が締結されます。その後、西欧各国との間に同様の条約が結ばれ、鎖国が解かれた日本との国交を求める外国の公館が必要となりました。

安政6(1858)年、東禅寺(現・港区高輪3丁目)にイギリス仮公使館が置かれ、初代公使オールコックが駐在しました。
このほか、アメリカは善福寺(現・港区元麻布1丁目)に、フランスは済海寺(現・港区三田4丁目)に、オランダは西応寺(現・港区芝2丁目)にそれぞれ仮公使館を設置しましたが、これらの寺院は、すべて、現在の港区にありました。

現在、港区に大使館が多いのは、江戸時代に多くの大名屋敷があったことと関係していると言われています。明治政府は、国交を結んだ国に旧大名家から没収していた屋敷の跡地を拠点として提供しました。
港区は、外国にとっても日本に往来する交通手段が海運しかなかった当時、東京と自国との連絡に不可欠だった横浜港への道筋にある便利な土地でした。その上、日本の政府機関へもアクセスが容易な地域であったことから、港区に大使館を置く国が増えました。すると、外交官同士の交流や情報収集もしやすくなり、さらに大使館の集中が進んだのです。

なお、港区は、昭和22(1947)年3月15日、当時の芝区、麻布区、赤坂区が合併して誕生しました。高輪は、旧芝区に位置していましたが、現在の高輪地区には、昭和42(1967)年7月1日の住居表示変更により、周辺の芝白金地区の一部などが含まれています。

海の上を走る陸蒸気?

明治5 (1872)年、新橋駅(現・汐留)と横浜駅(現・桜木町)の間に、日本初の鉄道が開通しました。
鉄道開業当時、品川駅から新橋駅手前まで約3㎞弱の区間の線路は、東京湾の海の上を走っていたのです!

孟斎芳虎「東京蒸気車鉄道一覧之図」 明治4 (1871) 年 国立国会図書館デジタルコレクション

海の上に線路を敷設した理由

現在では文明開化の象徴とされる鉄道ですが、最初から歓迎されていたわけではありません。
軍事力増強を求める兵部省(軍)は、特に鉄道建設に反対し、海岸沿いの用地の引き渡しを拒んだだけではなく、旧薩摩藩邸のあった高輪付近では測量さえ許可しませんでした。陸地を使わせてもらえなかった鉄道省は、やむを得ず沖合50mほど先に堤を築き、その上に線路を敷設することにしたのです。

当時の高輪海岸は遠浅であったため、この海を埋め立てて線路を敷く計画があがったのは、明治2(1869)年のことです。
この埋め立て工事には、高輪や品川の海で漁業を行っていた人達や東海道筋で商売を行っていた人達から反対の声が上がりました。この場所は、江戸時代から漁業や海苔の生産が盛んで、八ツ山付近は魚屋や茶屋が立ち並ぶ賑やかな街道だったためです。明治政府は彼らに金銭的補償などを与え、ようやく線路が敷設されることになりました。

鉄道開通当時、人々は蒸気機関車のことを「陸蒸気(おかじょうき)」と呼びました。海上を航行する蒸気船に対し、陸上を走ることから名付けられたのでしょう。実際には、陸蒸気は海の上に敷設された線路の上を走っていました。この様子は、鉄道開通の様子を描いた当時の錦絵にも描かれています。
また、鉄道建設に当たり、品川御台場の一部は取りこわされ、その石材を鉄道の工事に使用したと言われています。

歌川広重(三代)「東京名勝高縄鉄道之図」 明治4年 国立国会図書館デジタルコレクション
鉄道開通前に描かれたこの絵は、鉄道開通とともに繁栄が予想された東京・高輪の風景を紹介しています。

鉄道が市民に欠かせないものとなる

鉄道は、新橋と横浜間の距離約30㎞を53分という速さで走りました。列車本数は1日9往復、その料金(全区間)は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘というもので、下等料金ですら当時は米が約10kgも買えるほど高額なものでした。
それでも、開業の翌年には、1日の平均客が4000人を超すようになり、営業的にも黒字になるなど、鉄道は急速に人々に受け入れられていったのです。

歌川広重(三代)「高輪の海岸」(『東京名所図会』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

品川駅のそばに海があった!?

JR東海道線・上野東京ライン品川駅の発車メロディーでもおなじみの「鉄道唱歌」が発表された、明治32(1899)年頃の海岸線は、今より2㎞も内陸側にあり、品川駅のすぐそばまで東京湾が迫っていました。

歌川広重(三代)「八ツ山下の鉄道」(『東京名所図会』より) 国立国会図書館デジタルコレクション
八ツ山下とは高輪八ツ山のことで、現在の品川駅あたりを言いました。

明治末頃になると、付近は住宅地、工業地として徐々に埋め立てられていきますが、この船溜まりを拠点とした漁は、昭和37(1962)年に漁業権が放棄されるまで、戦後も細々と続きます。
江戸時代の海岸線が残る最後の場所と言われたこの地も、昭和45(1970)年頃、ついに埋め立てられ、水路は東海道線の線路下を東西に結ぶ歩道に転用されました。

線路を海上に敷設せざるを得なかったことは、新たな鉄道用地を確保するという意味ではむしろ大きなメリットになりました。海を埋め立てて広げた土地に作られたのが、約20ヘクタールの広大な車両基地「東京総合車両センター田町センター」でした。この車両基地が、「高輪ゲートウェイ」駅として生まれ変わったのです!

新駅設置と周辺地域の再開発のため、この付近の上り方面の線路は約200メートル東側に移設されます。鉄道開業以来、海上を走っていた頃も、陸地を走る現在も同じ場所を走り続けてきた東海道線の線路は、初めてその位置を変えることになるのです。

これからも高輪から目が離せない!

「高輪ゲートウェイ」駅をデザインしたのは、新国立競技場などを手掛けた建築家の隈研吾さん。和を感じさせるデザインで、折り紙をモチーフとした大屋根が特徴です。

「ゲートウェイ」とは、元々は「門扉(gate)がついた入口、道(way)」を意味する言葉です。
東京の新しい玄関口となる「高輪ゲートウェイ」駅は、ロボットの導入や駅ナカ無人店舗など、駅の施設に注目が集まっていますが、実は新駅開業は品川駅周辺の再開発計画「品川開発プロジェクト」の一環。今後は駅を中心にオフィスビルや宿泊施設などの高層ビル群が建築される予定です。
これらの建物が完成し、「まちびらき」するのは2024年。もう少し、先になります。

また、高輪は、歴史的な史跡が多く、歴史散策にはもってこいの街です。
高輪2丁目にある「忠臣蔵」でおなじみの泉岳寺をはじめとして、由緒ある寺社が数多く存在します。上皇夫妻が仮住まい予定の「高輪皇族邸(旧高松宮邸)」の地は、熊本藩細川家の下屋敷でした。

「泉岳寺」(『江戸名所図会』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

古くて新しい街・高輪は、これからも変わり続けていきます。鉄子も歴女も、古くて新しい街、高輪からまだまだ目が離せませんよ!

主な参考資料

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。