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2020.04.16

日本で最も新しい城「尼崎城」潜入レポート!見どころや歴史を徹底紹介

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元号が令和に変わろうとする直前の2019年3月にオープンした、日本で最も新しい城が、阪神電車本線尼崎駅のほど近くにあります。

まぶしい白亜の天守が印象的な城の名は、尼崎城。江戸時代初期に築城され、明治時代に廃城となった城の天守部分を復活させたものです。

今回は、兵庫県下では姫路城に次いで2つ目の天守となる、新・尼崎城を紹介しましょう。

甲子園球場の3.5倍の広さを誇った江戸時代の尼崎城

現在の尼崎城の直接の「始祖」は、江戸時代に入って間もなくの1620年頃に築かれた尼崎城です。

それ以前の応仁の乱の頃より尼崎城は存在し、徳川家康が大坂冬の陣(1614年)に備えて池田重利を駐留させた様子を伝える史料には、「尼崎天守これなく、櫓ばかり。四方の堀これあり、五十間四方」と、中世の尼崎城には天守がなかったことがわかります。

翌年の大坂夏の陣で大坂城が落城し、豊臣家が滅んで数年後、譜代大名の戸田氏鉄(うじてつ)が膳所(ぜぜ)から尼崎に転封。大坂の防備の要として、この地に新たに城を築くことを命じられます。

完成した尼崎城は、3重の堀、4層の天守を持ち、その敷地の広さは甲子園球場の3.5倍。ようやく平和な時代が到来し、一国一城令により城の数を減らすなか、例外的にこのような大規模な城をもうけたのは、幕府が尼崎を戦略的な要地とみなしていたからです。城下町の整備もなされ、8つの町に2万人近い人々が住むほどになりました。

尼崎城本丸復元模型

名君に恵まれた尼崎城

江戸時代の約250年にわたる長い間、尼崎城を居城として藩主を務めたのは12名。中でも特筆すべきは、初代藩主の戸田氏鉄、3代目の青山幸利(よしとし)、最後の藩主となった櫻井忠興(ただおき)です。

氏鉄は、十代の時分から徳川家康の近習として仕え、関ヶ原の戦いにも従軍。家康の信任篤く、近江膳所(現在の滋賀県大津市)藩主であったのを、戦略拠点としてより重要な尼崎藩に転封。後に美濃大垣藩に移るまで、藩政に力を尽くしました。

今も大阪府と兵庫県の境を流れる左門殿川(さもんどがわ)の名称の由来は、氏鉄の通称である「戸田左門」にちなんだものです。治水に造詣の深い氏鉄は、神崎川の分流であったこの川の改修工事を行い、水害を予防したことで、領民から愛されていたのです。

戸田氏鉄

青山(東京都港区)の地名の由来ともなった青山氏の1人、幸利は、尼崎藩のいわば中興の祖。新田開発・商業発展をはかる一方、質素倹約を旨とし、着任の年は本丸に入るのはもったいないと、二の丸に住んでいました。ただ、有能な家臣や(近隣諸国の動向を探る)忍目付(忍者)に対しては、潤沢な手当・経費をあてがいました。

幸利は、尼崎城天守を愛するあまり、「毎朝眺めては、時折感動の涙をこぼした」というエピソードが伝わっています。

18世紀はじめの宝永年間より明治維新に至る長きにわたり、歴代藩主となったのは、徳川家の分家の1つ、櫻井松平氏でした。最後の藩主・忠興は、日本赤十字社の前身となる博愛社の設立の発起人となりました。そのきっかけとなったのは、1877年に勃発した西南戦争。博愛社は、西南戦争による傷病者を敵味方の区別なく救護する、博愛精神の発露として作られた団体ですが、忠興は東京の櫻井家屋敷を仮事務所として提供し、多額の資金を寄付するなど尽力。長崎の陸軍病院での治療活動にも携わり、「御大名がはるばる治療に来てくれた」と感涙する患者もいたそうです。

櫻井忠興

21世紀によみがえった尼崎城

震災などあったものの、おおむね太平の世を謳歌した尼崎城も、ついに終焉を迎えます。明治維新を迎えて間もなくの、いわゆる廃城令により、百を超える城が取り壊しとなりますが、その中に尼崎城も含まれていました。建造物は解体処分され、城址には学校などが建てられ、往時の面影をしのぶものは消え去っていきます。

今は小学校がある本丸跡の片隅に立つ尼崎城址の石碑

それから幾星霜の年月が過ぎ、2015年になって、尼崎城天守再興の話が持ち上がりました。近畿の大手家電量販店ミドリ電化の創業者である安保詮(あぼあきら)氏が、「創業の地である尼崎市において、子どもからお年寄りまで歴史を学べ楽しめる場所を提供したい」と、尼崎城天守を建築し、市に寄贈する意向を示されたのです。

安保氏はその費用として私費約12億円を投じ、また、尼崎市民を中心に「一口城主」や「一枚瓦」などで約2億円の寄付が集まりました

建設計画は順調に進み、2018年11月、再建された尼崎城天守は尼崎市に寄贈され、翌年3月に一般公開され、現在に至っています。

新たな尼崎城天守の雄姿

各階とも見どころたくさんの天守内部

連日多くの観光客や城愛好家が訪れる尼崎城の人気の秘密は、その建物のみならず、知育を兼ねた多様な施設の充実ぶりにあります。その幾つかを見ていきましょう。

●1階:まちあるきゾーン
この階は入城料無料となっており、 ショップやポスト(城をデザインした消印が押される)があります。

圧巻なのは展示室で、床一面にプロジェクションマッピングの映像が映し出されています。そこでは、縄文時代から現代までの尼崎の地理的変遷を見ることができます。奥には、江戸時代に実際に使われ、見事に修復した駕籠が鎮座しています。

床のプロジェクションマッピングの奥に見えるのは修復された駕篭

●2階:尼崎城ゾーン
このフロアでは入口付近からその奥の壁まで、尼崎藩の各藩主の列伝を含む歴史的な解説が記されたパネルが展示されています。

そのパネルの先には、「侍道場」というコーナーがあり、画面内で移動する竹やワラを斬る剣術体験や、的を撃つ鉄砲体験を楽しめます。さらに隣のコーナーでは、再現した槍・刀・弓矢・鉄砲を持って、その重さを体験できます。

奥に進むと、画面幅が約10mもある VRシアターがあり、近松門左衛門に扮した落語家の桂米團治さんの語りとともに、江戸時代の城下町の様子がどのようなものであったか、映像で知ることができます。

尼崎城の歴史が学べるパネル

剣術体験や鉄砲体験が楽しめる特設コーナー

重量を再現した槍や鉄砲などを持つことができる

●3階:なりきり体験ゾーン
このゾーンは、往時の尼崎城の「金の間」をイメージした大広間になっています。ここでは、当時の衣装をかなり忠実に再現したコスチュームが置かれ、お姫様や忍者などになりきるコスプレ体験を堪能できます。

さまざまなコスチュームを着ることができるなりきり体験ゾーン

●4階:ギャラリーゾーン
このフロアでは、尼崎生まれの城郭画家、荻原一青(いっせい)の「名城手拭百城」を常設展示しています。「名城手拭百城」は、画家自らがデザインを描き、注染(ちゅうせん)と呼ばれる伝統技法で手拭を染め上げた、非常に貴重な作品群です。

「名城手拭百城」の作品が展示された4階のギャラリーゾーン

●5階:わがまち展望ゾーン
最上階となる5階は、3方に窓があり尼崎の市街を一望できます。また、窓際の数か所にタブレット端末が設置されており、その窓から見た場合の江戸時代の城下町が映し出され、今と昔の風景の違いを見比べることができます。

5階の窓からは市街を見渡せる

タブレットでは江戸時代の光景を確認可能

オープンからまだ1年にもかかわらず、有料入場者数は14万人を超えた尼崎城ですが、これほど多くの人を引き寄せるのは、美しい天守のみならず建物内の施設の面白さにもあるでしょう。家族連れでも楽しめると思いますので、ゴールデンウイークなどで阪神地方を行楽される際は、こちらも旅程に加えてみてはいかがでしょうか。

基本情報

住所:尼崎市北城内27
電話:06-6480-5646(尼崎城址公園管理事務所)
時間:9:00~17:00(入城は16:30まで)
休城日:月曜日(月曜日が祝日の場合、翌日火曜が休城)及び12月29日~1月2日
観覧料(一般):500円
公式サイト:https://amagasaki-castle.jp/
※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から、当面の間休城しています。

参考・引用図書
・『尼崎城研究資料集成』(尼崎市教育委員会)
・尼崎城公式サイト

書いた人

フリーライター。北国に生まれるも、日本の古くからの文化への関心が抑えきれず、2019年に京都へ移転。趣味は絶景名所探訪と美術館・博物館めぐり。仕事の合間に、おうちにいながら神社仏閣の散策ができるYouTube動画を制作・配信中→Mystical Places in Japan