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2020.07.27

クイズ!「わび」と「サビ」の違いって何?逸翁美術館館長に聞いてみた

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日本文化の代名詞としても、時々耳にする「わびとサビ」という言葉。でも、一体「わびとサビ」って何でしょう?「わび」とは?「サビ」とは?「わびとサビ」の違い、説明できますか?

「なんとなーく、イメージはできるけど…」「わびとサビは似たようなものなんじゃないの?」そんな方も多いのでは。

実は「わび」と「サビ」は、それぞれ異なる概念なのです。今回は、日本人ならぜひとも知っておきたい「わびとサビ」の違いについて、展覧会『わびとサビとはどう違う?』開催中の逸翁美術館(大阪府)の館長・仙海義之(せんかいよしゆき)さんに、実際に展示している美術工芸品を例にとって、分かりやすくご解説いただきました!

「わび」も「サビ」もネガティブなものをポジティブに楽しむ心の動き

「わび」=incomplete(不完全なものを面白がる)

──よく「わびサビ」という言葉を聞きますが、「わび」と「サビ」は違うんですね。まず、「わび」とはどんな概念なのでしょうか?

仙海館長:例えば、余白の多い絵画とか、歪んだりひびが入っちゃったお茶碗。西洋人が見ると「これは不完全だな」とか、「不十分だな」とか思われる姿に対して、かえって他にないような面白さを感じる。それが「わび」だと思います。
「わび」という言葉よりももうちょっと私たちにとって身近な言葉として、「侘しい」という言葉があります。「侘しい」ってどういうことかというと、「これがあるといいなぁというものがない」ということなんですよ。

例えば、「今日お腹空いたから、夕ご飯のおかずいっぱいあるといいなぁ」と思って帰ってきたら、おかずが少なかった。「もう一品あればいいなぁ。侘しいなぁ……」と思う気持ち。

あるいは、ポツンと一軒家があるところに行ってみたら、電気もガスもなくて不便。こういった様子を「侘しい山奥の暮らし」と言ったりする。お客さんをおもてなしする時でも、本来ならウェッジウッドのティーカップなんかがあればいいのかもしれないんですけど、こんな土の塊みたいなお茶碗しかなくて、「こんなものしかないですけども、どうぞ……」とか言って出したりする。でも、そういうものをよく見てみると、「なんか一個一個面白い形してるなぁ」ということに気が付いたりする。

そういう「本来あるべき立派な物がない」とか「物の数が不十分だ」という状態が「侘しい」という状態です。ただそこで、「侘しい侘しい」と言って悲観的に思っているだけではなくて、今でいうところの「ロハス」や「断捨離」と結構通じるんじゃないかと思うんですけど、あんまり物を持たずに少ないもので心豊かに暮らしていく、というスタイルが生まれた。ある物を楽しく見ていこうっていう。

本阿弥光甫「赤筒茶碗 銘「こがらし」」(江戸時代前期)

そうすることによって、かえって身の回りの色々なものに、それまで気が付かなかった美を見出していったんだと思います。こうして、「侘しい」から「わび」という美意識へ繋がっていったのではないでしょうか。

明治時代に、岡倉天心(おかくらてんしん)が『茶の本』で「わび」を「imperfect」と見事に訳していてるのですが、今回は「サビ」と並べたいと思って、「incomplete」と訳してみました。

*岡倉天心『茶の本』……1906年(明治39年)刊行。当時ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた岡倉天心が、日本の茶道を欧米に紹介することを目的としてニューヨークの出版社から刊行した。原文は英語。


逸翁美術館 館長 仙海義之さん

「サビ」=impermanent(移ろいでいく様を愛でる)

──それでは、もう一方の「サビ」とはどんな概念なのでしょうか?

仙海館長:例えば、いぶし銀とか煤竹とか、そういうものは時を経ることによって、色味や肌合いや材質が変化していきます。ものというのは、大抵みんなピカピカの状態が喜ばれますけど、時間を経てこそ落ち着いた味わいを獲得しているものもあります。それを楽しむのが「サビ」ではないでしょうか。今回は、「impermanent」と訳してみました。

西洋では「永遠の美」を求める傾向があると思うんですけど、それに対して日本人は永遠ではない、移ろいでいくさまざまなものに美意識を見出しているんじゃないかと思います。

「サビ」の方には、「寂しい」という言葉があります。「寂しい」というのを一番分かりやすく言うと、愛する人を急に失ってしまったとか。これは「寂しい」ですね。

あるいは、給料をもらった時はお金持ちなんだけど、月末になると「懐が寂しい」などと言ったりします。あとは、「寂びれた商店街」とか。十年前は賑わっていたんだけれど、今は人通りがなくシャッターだらけの商店街になってしまった……。

時間の経過に伴って人や物がなくなってしまい、空しい静かな状態になってしまうことが「寂しい」だと思うんですね。

一方で、そういう状態に、「あはれ」みたいな思いを感じて心惹かれていくということがあると思います。例えば、古いお寺を思い浮かべてみてください。街中のピカピカのビルになっているお寺と山の中のお堂の剥げかけた感じのお寺と、どっちが真実味があるかなと。


「細長春日卓」(鎌倉時代)

これはお寺とかで香炉や花を飾ったりする台なんですけど、最初は漆塗りでピカピカで、四隅に付いた金具もキラキラ輝いていたと思います。その状態はその状態でいいんですけど、漆が剥げて、金具の色もくすんできた。こういう状態のものもしみじみとして、真実味があるなぁと思えませんか?

では、「わび」と「サビ」の視点で美術工芸品を鑑賞してみましょう!

「わび」を見出す

見方1:「粗い」は「素朴」


「備前切溜花入」(江戸時代前期)

まずは、焼き物を見てみましょう。信楽、備前、伊賀など、日本ではこういう土の塊みたいなものを焼き物として認めています。でも、世界中の焼き物を見てみると、中国でもヨーロッパでも大体幾何学的にキッチリとした形をしていて、つるっとした釉がかかり、きれいな絵付けが付いています。


(左)中国(16世紀半ば) (右)フランス(17世紀後半) メトロポリタン美術館蔵

それに対して、日本人はこういう粗いものに対しても「素朴だなぁ」と感じ、愛着をもって扱うことができると思います。


「伊賀丸水指 庸軒銘「雪の朝」」(桃山時代)

これは伊賀なんですけど、窯の中で薪で焚くと灰がどんどん降りかぶってきて、それが土の上で溶けて自然の釉になるんですよね。作家が意図して作った模様ではなくて、窯の中で自然に出てくる模様なので、窯出しするまでは分からないです。出してみたらこれはちょうど肩のところに白い色とその下に黒い色がある。藤村庸軒(ふじむらようけん)がその偶然の模様を見て「雪の朝」と銘を付けて楽しんだわけです。初雪かなんかで、庭の刈り込んだ前栽のちょうど上のあたりに雪がかかっている、そんな風な姿を見ていたんじゃないかと思います。

偶然の産物も日本人はよしとして認められるような見方があるわけですね。

*藤村庸軒……千宗旦の弟子。庸軒流茶道の開祖。


田能村竹田「蟹詩画賛」(江戸時代後期)

書画もひとつ見てみましょう。こちらは江戸時代の文人画家、田能村竹田(たのむらちくでん)の画です。全く余白だけの無背景のところに、カニのひと群れが簡単に描かれています。これは、上海蟹の親戚で日本の川にいるモクズガニっていう食べられるカニなんですよ。西洋だと背景に川を描くとかするところだと思うんですけど、そういうのもない。

西洋の人は、こんな画を描かなくても、もっときれいな花やきれいな風景を描けばいいんじゃないかって思うかもしれませんが、日本人は余白にしろ、身近なカニの画にしろ、こういうものも親しみをもって見られる感覚があるんじゃないでしょうか。素朴なものをそのまま愛すという。カニというモチーフ自体もそうだし、描き方も。

小さい生き物を見つめる竹田の優しい眼差しが感じられますよね。

見方2:「歪み」は「愉快」


「古備前ラッキョウ型へこみ徳利」(桃山時代)

こちらは備前のラッキョウ型の徳利です。膨らんでいる形を作ろうとしたはずなんですけど、へこんじゃっています。窯に入れるまではちゃんと丸い形をしていて、丸いまま焼き上げるつもりだったんですけど、肩のところと胴のところに窯の中で何かがぶつかったんですよね。

備前焼というのは割と土の耐火温度が低くて、焼けて熱が生まれると柔らかくなっちゃう。ぎゅーっと何かに押されたまま焼かれてしまって、かつその状態で灰が降りかぶっています。もし、窯に入れる前にわざと形を歪ませていたら、歪んでいるところまで灰がかぶってるはずなんですけど、物が当たっている状態で灰がかぶったから、灰がそこをよけているわけです。作家さんが「失敗作だ……」と割ってしまってもいいはずなんですけど、現存しているということは、なぜかとっておいたわけですよね。規格から外れたことの自由さや楽しさを愉快だと思って見ているんでしょうね。そういうことを面白がれる心が日本にはあったんです。

見方3:「壊れ」は「個性」


「信楽大やぶれ手鉢」(桃山時代)

こちらを見てください! これは信楽です。土が真っ赤になるほどよく焼けていて、その時に大きくひびが入ったんだと思います。ヘラでシュッと繋がっている線が描かれてますから、焼く前はここで割れるっていう意識はなかったと思うんですね。

出してきたらこんな風になっていた。「これも失敗作だ……」って割ればよかったんだけど、逆にギョッとして、「これはすごいなぁ」って思ったんでしょう。焼き物っていうよりも生き物みたいな、何かが宿っているみたいな生命感がありますよね。この作品は「割れた」ことによって、世界でたった一つのオンリーワンになって、私だけが持っている、いわゆる「珍品」みたいになったわけです。


「粉引雨漏茶碗 遠州歌銘「時雨」」(朝鮮王朝16世紀)

こちらは朝鮮のお茶碗なんですけど、粉引といって、本来は白粉の粉みたいな真っ白いのが全部にかかっているお茶碗なんですよ。その粉引がちょっと時代が経って、茶色っぽい染みがいっぱい浮き出してきてしまってるんですね。それがまた割れてしまって、金継ぎで直しています。

小堀遠州(こぼりえんしゅう)がこのお茶碗に「時雨」という銘を付けています。遠州は文化人だから銘を付ける時に和歌を連想したんですよね。新古今和歌集に入っている「まきの屋に時雨の音のかはるかな 紅葉や深く散り積るらむ」という和歌です。板屋の粗末な小屋に行ったら時雨が降ってきた。あれ、ちょっと前に聞いた時雨の音と違うな、そういえば秋だから屋根の上にモミジが降り積もっているんだろうな……っていう奥ゆかしい歌です。

この「時雨」という銘を知って、このお茶碗を見ると、染みがまるで今にもわーっと空を覆ってきた雨雲のように見えますし、この金継ぎがその雨雲の中の稲光のように見えたりして、景色になって見えてきます。壊れた古いお茶碗に対して、日本人はこんな鑑賞の仕方をする。これ、ヨーロッパの方が見たら、「こんな汚いの捨てちゃいなさいよ」って言うんじゃないでしょうか(笑)

つまり、「わび」とは、姿や形が整っていないものでも、それぞれ独自の魅力があるじゃないですか、ということです。壊れた器があるだけだと、それは壊れた器なんですよ。それを「楽しいな」と思う大らかな自由な心の動きがあるからこそ、それが「わび」という美意識になるんです。

「サビ」を見出す

見方1:「荒れ」は「渋い」


(左)辻与次郎「面取筒釜」(桃山時代) (右)「四方雲龍釜」(江戸時代前期)

「荒れた様子」の代表として挙げられるのは、茶の湯の釜です。これは鉄、鋳物なんですよね。溶けた鉄を型に入れて作っている。固まった鋳物を取り出したときの様子って、中華鍋のような銀色みたいな色をしています。それを茶の湯の釜の場合、最初に真っ赤に焼けた炭の中に入れるんです。そうすると黒錆が付いて、それ自体が後から赤錆を寄せ付けないコーティング材料になります。さらにその黒錆の上に漆を焼き付けます。その時に、茶色だったらべんがらとか黒だったらお歯黒の黒だとか、そういった色を混ぜて、まるで鉄が自然に錆びてぼろぼろになっていった状態というのを再現するんですね。

もともと普通の鉄の塊で作っていた鍋や釜が自然の中で赤錆にどんどん侵されて荒れて朽ちていく様子を当時の人は見ていたんだと思います。茶の湯の人たちは、なぜかその様子をいいと思ったんですね。

金属製品、鉄製品というのはかたや大人気の刀剣というのがあります。鉄や金属はつるっとしていて、ピカッとしていて、シャープなフォルムを作れることがひとつの持ち味だと思うんですけど、ところが茶の湯では逆を楽しむんです。わざわざ荒れた様子にして、鋳型の内側に砂粒を付けたりして、表面がデコボコになるようにわざとこういうテクスチャーを付けた風に鋳上げるわけですね。朽ちていった鉄の「渋さ」っていうのを楽しんでいるんだと思いますね。

見方2:「剥げ」は「穏和」


「菊桐文秋草蒔絵大棗」(桃山時代)

次は、ちょっと大ぶりのお抹茶入れです。蓋の上に菊と桐の紋章が並んでいて、それを赤い漆で取り囲み、最初はゴージャスなものだったと想像されます。でも、時代が経って菊や桐の蒔絵も薄れて、金色が落ち着いて、赤い漆も剥げてしまっている。そうした時に、逆にこの側面にある秋草の風情とマッチして、ぐっと落ち着いた穏やかな味わいになってくる。

私たちは剥げて傷が付いちゃったりすると、すぐに「これ捨てちゃおう」となっちゃいますけど、逆に剥げたりすることによって穏和な雰囲気を獲得しているものもあるんだということなんです。


「青貝入桜蒔絵香合」(江戸時代初期)

見方3:「褪せ」は「枯淡」


松平不昧「竹一重切花入 歌銘「岩橋」」(江戸時代後期)

こちらは、竹ですね。竹製品って青竹を切っただけでもちょっとおちょこにしたりして、竹の香りがするってお酒飲んだりするんですけど、それを記念に持って帰ってしまっておいて、一年経って開けたら、もう青い色はなくなっちゃってるんです。

青竹は切ったままだと割れるんです、乾燥してないから。工芸品に使うような竹っていうのは、竹屋さんでしっかり乾燥させて油を抜いたりして、きれいに仕上げてあります。

そういうきれいな竹も使えるんですけど、これは松平不昧(まつだいらふまい)の作です。こういうわざと色味が付いたものを使って、斑模様になったところの非対称を楽しんで、造形に生かしているようなものもたくさんありますね。さらに、これは最初のまっさらな状態からちょっと全体があめ色を帯びていることによって、枯れた風情が感じられるわけですね。


「時代手付籠」(江戸時代後期)

 

こんな風に、古びたものというのは落ち着いた趣がありますよね。だけど、単に古くなってるものというだけじゃなくて、その古びた姿も「なかなかいいな」と思う優しい心の動きがあるからこそ、それが「サビ」だと捉えられるんじゃないでしょうか。

ダメージジーンズも「わびサビ」!?

──「わび」も「サビ」もそのもの自体の性質ではなくて、そのものを見ている私たちの心の動きということですね。なるほど……

仙海館長:身近なもので言ってみると、穴が開いているジーンズってありますよね。あれは衣服として見ると壊れてますよね。本来ジーンズってリーバイスの501とかでも全部同じなんですよ。誰が履いても同じ。全部同じだとつまらないわけで、そこで穴を開けるわけです。穴が開いてるからこそ、自分だけの個性的なジーンズファッションが楽しめる。穴が開いて壊れている状態を楽しんでいるわけですよね。ですから、これは「わび」だと思います。

一方でデニムが色落ちするというのは、これは経年変化です。どんどん洗っていって色落ちする、もちろん最初からウォッシュアウトしているものもありますけれど、やっぱり最初の濃い状態からずーっと履いていって自分の体に合った通りに色落ちしているのは、自分の一番履きやすい楽なジーンズになるんですよね。それは、経年変化によってデニムという素材が変質しているので、「サビ」と言えるんじゃないでしょうか。なので、ジーンズの上には、「わび」と「サビ」が同居しているんですね。

──えー!ジーンズも「わびサビ」ですか……。

これまで、美術工芸品の「わびとサビ」を見てきましたが、実は「わびとサビ」というのは、これはもう人間そのものにも通用する美意識だと思います。人間の不完全な様子、顔かたちも全部違うし、美男美女ばかりではないし、でも「それもまたそれぞれの人間じゃないか」って思えるのが「わび」の状態。

一方、若いピチピチしている人もいいけれど、年を重ねても魅力をもっていたいなと。女性のグレーヘアーなんかも若い人にはできない大人の魅力ですよね。だから、それは「サビ」。こういった風に「わびとサビ」を人間自身のこととなぞらえてみたら、より身近に感じることができるのではないでしょうか。

目で見て、心で感じる「わびとサビ」

展覧会「わびとサビはどう違う?」では、全125点(展示替えあり)の所蔵品を「わび」と「サビ」に分類して展示されています。今年はオリンピックイヤーだったということもあり、海外に日本文化を紹介する際の切り口のひとつとして「わび」と「サビ」の違いを美術工芸品でどういう風に示せるかという観点から本展を企画されたそうです。

長年丁寧に使い込まれた漆器や竹製品、ひびが入ったところに金継ぎがほどこされたお茶碗。実際に展示室に並べられた作品一点一点と「わびとサビ」の視点で向き合ってみると、不完全なものや古くなったものを面白がったり、愛着をもったりする豊かな気持ちが自分の内側にムクムクと湧き起こってきました。あぁ……これが「わびサビ」かぁ……。

皆さまもぜひ、会場で「わびとサビ」を通して見る、ユーモラスで優しい世界を体感されてみてはいかがでしょうか?


展覧会風景(「わび」の展示スペース)


展覧会風景(「サビ」の展示スペース)

逸翁美術館概要

阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三(こばやしいちぞう)の雅号「逸翁」を冠した美術館。逸翁が収集した5,500点に及ぶ美術工芸品を所蔵している。コレクションは、古筆、古経、絵巻、中近世の絵画、日本・中国・朝鮮・オリエント・西洋を含む陶磁器、日本・中国の漆芸品など多岐に渡る。年3~5回所蔵品を中心とした企画展を開催。

住所:池田市栄本町12-27
開館時間:10:00-17:00(最終入館は16:30)
休館日:月曜日、展示替え期間、年末年始
アクセス:阪急電鉄宝塚本線「池田駅」から北へ徒歩10分
公式webサイト:http://www.hankyu-bunka.or.jp/itsuo-museum/
公式facebook:https://www.facebook.com/hankyu.culture.foundation/
公式Twitter:https://twitter.com/hankyu_culture_

2020展示Ⅱ わびとサビとはどう違う?(会期終了)

開催期間:2020年5月30日(土)~9月6日(日)※7月13日~7月22日展示替え休館
休館日;月曜日(ただし8月10日開館、11日休館、7月13日~7月22日は展示替えのため休館)
開館時間:10:00-17:00(最終入館は16:30)
料金:一般 700円、大・高生 500円、中・小学生以下無料、シニア(65歳以上)500円

書いた人

大阪府出身。学生時代は京都で過ごし、大学卒業後東京へ。分冊百科や旅行誌の編集に携わったのち、故郷の関西に出戻る。好きなものは温泉、旅行、茶道。好きな言葉は「思い立ったが吉日」。和樂webでは魅力的な関西の文化を発信します。