日本文化の入り口マガジン和樂web
10月29日(金)
年も若くあるうちに思い残すな明日の花(十九の春)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
10月28日(木)

年も若くあるうちに思い残すな明日の花(十九の春)

読み物
Culture
2020.08.16

絶体絶命のピンチに駆けつけたのは…白馬に乗った嫁⁉︎「関ヶ原の戦い」前哨戦の驚きの結末とは

この記事を書いた人

ファンタジーの金字塔である、J・R・R・トールキン作の『指輪物語』。この実写版である『ロード・オブ・ザ・リング』に熱狂したのは、もう、何年前のことだろうか。

個人的には、3部作のうちの2番目『二つの塔』がたまらなく好き。全編通してのあの壮大な戦いのシーンはさることながら。何度、絶望に追い込まれても立ち上がる強さ。ラストは、もうこれ以上は耐え切れないところで、白馬に乗った魔法使いが登場。

絶体絶命の救出劇に、涙やら鼻水やらよう分からんものまで、ミックスの洪水状態。何がそこまで感動させるのか。自分でも考えてみたのだが、分からない。タイミングか。はたまた、白馬で颯爽と登場する展開が良かったのか。

さて、そんな物語に似たクライマックスが、じつは、日本の戦国時代にも。

天下分け目の戦いといわれる「関ヶ原の戦い」の前哨戦。
そのうちの1つ「安濃津城(あのつじょう)の戦い」である。

今回は、この戦いの怒涛のクライマックスをご紹介しよう。是非とも、白馬に乗って登場する方にご注目頂きたい。

冒頭の画像は、月岡芳年「敎導立志基 三十一 富田信高と妻」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)です

「関ヶ原の戦い」って1つじゃないの?

今回ご紹介する「安濃津城(あのつじょう)の戦い」に触れる前に。

天下分け目の戦いといえば、思い浮かぶのが慶長5(1600)年9月15日の「関ヶ原の戦い」。豊臣秀吉の死後、次の天下人を巡って、徳川家康らの東軍と、総大将を毛利輝元(もうりてるもと)に石田三成らの西軍とが激突した戦いである。しかし、この東軍と西軍の戦いは、これだけではない。じつは、全国各地で前後して行われていたのである。

まず、有名なのが山城伏見城(京都市)。
こちらでは、居留守役の鳥居元忠(とりいもとただ)が、決死の覚悟で耐え忍んでいた。その兵力差は鳥居ら東軍が2,000弱に対して、西軍らは4万(諸説あり)。戦いの結果は、既に明らかであった。それでも、彼らは躊躇せずに真正面から挑んだのである。

全ては、主君、徳川家康のため。少しでも西軍の兵を長く引き付ける。つまり「関ヶ原の戦い」に参戦する西軍の兵力を削ぐことが目的だった。敗戦を見越しながらも、1人でも多く討ち取る。そんな無謀な戦いとなったのである。結果、13日間の攻防戦の末、同年8月1日落城。鳥居元忠の最期は自刃であった。

京都の養源院には、このときの伏見城の廊下が「血天井」として残されている。そこには、幾つもの血の手形が。戦いの壮絶な最期がうかがえる。

一方、自刃せずにうまくコトを運んだ武将も。
丹後田辺城(京都府舞鶴市)にて、わずか500の兵で籠城した細川幽斎(ほそかわゆうさい)である。西軍は1万5,000の兵(諸説あり)で田辺城を包囲。こちらは、息子の細川忠興(ただおき)を徳川家康に付き従わせて出陣させていた。そのため、幽斎は自らを犠牲に、少しでも長く兵を田辺城に留め置く戦術を練る。

同年7月19日から籠城。最後まで戦う意思を見せつつ。うまい具合に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を巻き込み、結果、天皇の勅命で開城。じつに、「関ヶ原の戦い」が始まる直前の9月13日まで、戦いを引き延ばしたのである。まさに驚異的。2か月もの間、西軍1万5,000の兵は田辺城にて戦っていたのである。

関ヶ原古戦場

そして、今回、ご紹介する「伊勢安濃津(あのつ)城(三重県津市)」。

こちらも、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となった場所である。別名、津城(つじょう)とも呼ばれた平城(ひらじろ)だ。城主は、富田信高(とみたのぶたか)。もともとは豊臣秀吉に仕えた武将で、石高は5万石。

秀吉の死後。富田信高は、徳川家康が次の天下人と推察。当時、家康は会津の上杉景勝(かげかつ)討伐に出陣中であった。この家康に従って、信高も東軍に与し、下野(しもつけ、現在の栃木県)国に滞陣していたのである。

細川幽斎のいる田辺城もそうだったが、最大限まで兵を出陣させ、残ったわずかな者で城を守る。安濃津城も同様。妹婿の富田主殿(とみたとのも)が留守居役として残ってはいたが、残りは少数の兵と老人や女子どものみ。

そんな状況の中、事態は動き出す。
徳川家康不在の隙を狙って、石田三成が畿内で挙兵。

安濃津城は、絶体絶命のピンチに陥るのである。

誰だっ?誰だっ?誰だアァ~?

畿内で石田三成が挙兵。

この知らせを受け、徳川家康は瞬時に判断。敵の進路に城を持つ武将らを、帰国させたのである。もちろん、伊勢の安濃津城も真っ先に該当する。こうして、富田信高は慌てて引き返すことになるのである。

ただ、三方を敵に囲まれた立地の安濃津城。そのまま入ることは困難である。そこで、富田信高は三河(愛知県)から船で伊勢を目指すことに。敵方の水軍にも、味方と偽って無事に通過。なんとか、西軍の総攻撃の前に、城内に入ることができたのであった。

一方、西軍の士気はというと。
「関ヶ原の戦い」の前哨戦ということもあり、モチベーション高め。ここでサクッと時間をかけずに勝って、勢いあるまま徳川家康ら東軍と激突したい。そんな思いが強かったようだ。

慶長5(1600)年8月23日。
毛利秀元(ひでもと)ら西軍3万の兵が安濃津城を包囲。片や、富田信高は客将の分部光嘉(わけべみつよし)の兵を合わせても1,700ほど(1,000弱、2,500との説もあり)。圧倒的な兵力差であった。

この不利な状況に加え、安濃津城はもともと平城で籠城には向かない城ときた。石垣も低く、城自体が小さい。周囲が湿地帯で、唯一、城へ通じる道が1本のみだったのがせめてもの救い。

しかし、これも残念なことに。
応援部隊の兵が秘密ルートを通って入城したため、城に通じる別の道があることが西軍に発覚。容赦なく鉄砲を撃ち込まれ、激しい城攻めが展開される。

対して、富田信高は。
西軍の兵らを城に引きつけておき、タイミングを見計らって一気に城外へ出撃。ある程度兵を倒せば、城内へ引き返す戦法を取っていた。何度も繰り返して果敢に攻めていたのだが。やはり、多勢にはかなわない。

西軍の力攻めに、同年8月24日には三の丸、二の丸が陥落。ついには、本丸が落ちるのも時間の問題というところまで追いつめられる。

ここで覚悟を決めたのが、城主の富田信高。

月岡芳年「敎導立志基 三十一 富田信高と妻」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

こうなれば、華々しく討死覚悟で出撃するしかない。そんな思いの中、信高は本丸から出撃。寄せては引きを繰り返すも煙に遮られ、とうとう孤立。城へも戻ることができず、西軍の伏兵に襲われてしまう。

絶体絶命。信高は、最大の危機に陥るのである。

もはや、これまで。
そう思った矢先、城から颯爽と登場したのが、1人の若武者。
緋縅(ひおどし)の具足に、半月を打った兜の緒をしめた容姿端麗な武人である。

『武功雑記』には、このように記されている。

「城中より容顔美麗なる若武者―(中略)-片鎌の手槍をおっ取り富田が前に進み出て、槍を合わせ五、六人手負わせ、猶(なお)進んで戦う」

あっという間に、信高の周りにいた5、6人の敵兵を槍でなぎ倒して救出。これに城兵らも奮い立ち、富田信高は、奇跡的に城内へと戻ることができたのである。

なお、片鎌の手槍とは、槍の穂先の片側に鎌状の枝があるものだとか。なんとも勇ましい武具を手に、単騎で駆けてくるとは。どれほどの若武者かと思いきや。

城内に入って信高は兜を覗くと。

化粧にお歯黒?
まさか。

いや、そのまさかである。
聞き覚えのある声に、信高は驚愕。

「ご無事でうれしゅうございます。討死なされようと出陣されたと聞き、同じ場所で死のうと追ってまいりました」
(加来耕三著『山内一豊の妻と戦国女性の謎』より一部抜粋)

なんと、声の主は。
愛する我が嫁。

月岡芳年「敎導立志基 三十一 富田信高と妻」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

どうやら、夫を救出するために、自ら槍を持ち城外へと出てきたのであった。この富田信高の正室の名は明らかではないが。宇喜多秀家(うきたひでいえ)の弟、宇喜多忠家(ただいえ)の娘だといわれている。

確かに武家の娘ならば、武芸もある程度はできたはず。敵兵が城内へ侵入した際に、生け捕りにならぬよう、我が身を守るためである。しかし、これほどの腕前とは。富田信高は、この時まで、我が嫁の隠れたる真の姿を知らなかっという。

それにしても、複数の資料に見目麗しいと記されていることから、よほど綺麗な人だったのだろう。そんな女性に、敵兵5、6人をなぎ倒すほどの武芸達者な一面があるとは。信高も露知らず。驚くばかりであった。

結果的に、富田信高は危機を脱出したものの。救援もなく、このまま籠城するか討死するかというところで。西軍より和睦の提案の矢文(やぶみ)が届く。

同年8月26日。安濃津城は開城。
富田信高は出家して、高野山へ向かうのであった。

最後に。
富田信高夫妻のその後をご紹介しよう。

さて、ハッピーエンドか、アンハッピーエンドか。

「関ヶ原の戦い」では、徳川家康ら東軍の勝利。信高は開城したものの、東軍側で奮戦したことが認められ、旧領は安堵。加えて、2万石の加増となる。

いいねえ。
やはり、二人は幸せに暮らしたのだろう。

さらに、慶長12(1607)年には、伊予宇和島(愛媛県)12万石に移封。領地を移ることになるが、加増である。

いいねえ。
これはもう、このまま幸せに暮らしたに決まってる……のか?

否。
このままハッピーエンドに終わりそうで、終わらないのが。もちろん、私の記事。

慶長18(1613)年。ある事件が起こる。
富田信高が1人の男を匿うのが、事の発端。津和野藩(島根県)で刃傷沙汰を起こした坂崎左衛門(さかざきさえもん、左門とも)である。じつは、この男。嫁の甥なのだ。

この左衛門の引き渡しを再三求めてきたのが、津和野藩主「坂崎(宇喜多)直盛(なおもり)」。この直盛という人物は、信高の嫁の異母弟の間柄。信高は、直盛に匿っていないことを伝えると。直盛は、なんと。江戸幕府に対して、信高が罪人を隠匿していると訴え出たのである。

ここで、江戸幕府の判断は?
予想外にもキビシー処分。富田信高を改易(かいえき)に処したのである。

改易とは、武士の身分を剝奪し、領地・家屋敷などを没収する重い刑である。残念ながら、「関ヶ原の戦い」の功績は配慮されず。信高は陸奥国磐城(いわき、福島県)にて蟄居(ちっきょ、一定の場所で謹慎すること)となる。

その後。
寛永10(1633)年、信高死去。
二人の生活がどのようなものだったのかは、定かでない。

さて、もう一度。
富田信高夫妻は、ハッピーエンドか、アンハッピーエンドか。

正直、難しいところである。
今回は、「終わりよければ全てよし」とはならないラスト。

ただ、命をかけて。嫁が、危険を顧みず助けに来てくれた。それだけで、もう、十分な気がしないでもない。ましてや、もともと失う命だったことを思えば。なんでも許すことができそうだと思うのは甘いのだろうか。

そう考えれば。
賛否両論あるだろうが。

「助けに来てくれれば全てよし」
案外、二人の結末は、ハッピーエンドなのかもしれない。

参考文献
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『日本の城の謎』 井上宗和著 祥伝社 2019年10月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。