昭和の中頃までは、夏の時期に蚊帳を吊る風景がよく見かけられました。私も幼い頃、萌黄色の蚊帳(かや)の中で眠った記憶があります。蚊から身を守ってくれる空間は、どこか非日常の特別感があって、浮き浮きした気持になったものです。アニメ『となりのトトロ』の中でも、蚊帳が印象的なシーンとして登場しているので、覚えている人も多いことでしょう。
庶民には手が届かなかった蚊帳の歴史
蚊帳は古くは古代まで遡り、クレオパトラが愛用していたとも言われています。日本には「日本書紀」の記述から中国から伝来したと伝えられ、絹製品の蚊帳は、奈良時代の貴族だけが使用できる特別な物でした。
室町時代になると貴族や武士の間での贈答品として使われましたが、まだまだ庶民には手が届かない夢の商品だったようです。
狂言『清水(しみず)』の中で、鬼に化けた太郎冠者は主人に対して「夏、太郎冠者に蚊帳を吊らさぬげな。おのれ、夏、蚊帳を吊らいで何となるものじゃ。吊らさぬならば、頭から一口に、ガリガリじゃぞ」と責め立てます。人使いの荒い主人に腹を立てた太郎冠者が、不満をぶちまけるユーモラスな場面ですが、使用人は蚊帳を吊ってもらえなかったのでしょうね。
美声の蚊帳売りが大人気!?
慶長年間(1596年~1614年)になると、近江商人の2代目西川甚五郎が、麻生地に萌黄色の染めを施して縁(へり)に紅布を付けた萌黄蚊帳を創案。このデザインが人気を呼んで、ヒット商品となります。
3代将軍家光の時代になると、江戸の町に蚊帳売りが登場します。三度笠をかぶって「蚊帳、萌黄の蚊帳」と節を付けた呼び声で町中を売り歩きました。蚊帳売りは縦長の大きな木箱を棒の前後に吊り下げた1人と、大きな風呂敷包みを背負った行商スタイルの1人との2人1組だったそうです。
棒手売りは臨時に雇われたアルバイトで、美声が必須条件だったとか。採用決定の後は呼び声の大特訓を経て、めでたく蚊帳売りデビューとなったそうです。太く大きな縦縞の入ったおしゃれな半纏を羽織って、美しい声で売り歩く姿は当時の江戸の風物詩と言われました。令和の現代では声優ブームが続いていますが、いつの時代も美声に心惹かれるのは同じなんですね。
一説には、※説経節(せっきょうぶし)の名手だった大坂の天満君太夫(てんまきみたゆう)が、喧嘩をして相手にけがをさせたことから江戸へ逃亡。蚊帳担ぎに雇われたところ、美声で売り上げが驚くほど上昇したそうです。以来、蚊帳売りは美声がお決まりとなり、初夏に入ると呼び声が響き渡ったそうです。
浮世絵にも描かれた蚊帳の風景
庶民の生活に根付いたことから、蚊帳は浮世絵の題材としてもよく使われました。美人画で人気を博した鈴木春信は、親子の微笑ましい秀作も多く残していることで知られています。『蚊帳を吊る母子』は、蚊帳を吊っている母親にかまってほしくて、着物を引っ張る幼子の様子が描かれています。優しく見つめる母親の表情から愛情が感じられて、心和む作品です。
喜多川歌麿の『夕立に蚊帳』では、夕立が降る中、慌ただしく雨戸を閉める男。急いで吊られた蚊帳の中では、耳をふさぐ女性の姿が見られます。当時は蚊帳が雷除けと考えられていて、蚊帳の中なら雷に当たらないと信じられていたようです。家族一緒に蚊帳の中にいたら、恐怖心も和らぎそうですね。
こちらも喜多川歌麿の『蚊帳の中の文読み美人』。蚊に刺されないようにと文を持つ手だけを蚊帳から出して、行灯の灯りで熱心に読む姿に、惹きつけられます。集中して読んでいる雰囲気から、中身は恋文でしょうか?恋人から届いたラインの文面を、スマホで凝視する現代っ子の姿とも重なります。
現代のニーズに合わせた蚊帳
昭和後期に入るとアルミサッシ網戸が急速に普及したことから、蚊帳の需要は急激に減少していきます。夏の暑い時期はエアコンを使う家庭も多く、生活の中から蚊帳は消滅してしまったかのようでした。
ところが、最近ではかつての蚊帳を知らない若い世代が蚊帳に注目して、便利グッズとして重宝していると知りました。簡単に設営できる自立型の蚊帳は、種類や大きさが様々なことから、ベビーベッド用やお昼寝用に使う人も多いそう。屋外で使用できる簡易型の蚊帳もあり、夏のキャンプに欠かせない人気商品となっています。ベッド用の天蓋カーテンタイプの蚊帳は、お姫様気分が味わえると若い女性に好評のようです。
エコロジーで安眠を促す蚊帳が再注目
地球の温暖化対策が問題視されている現代、冷房に頼らない蚊帳のある暮らしは環境に優しいエコロジーと言えそうです。蚊帳の中で眠ると安眠できるという声もあり、安眠対策の寝具と共に並べているお店もあります。暑い夏の夜、涼やかな蚊帳の中で、心地良い眠りに入るのもいいかもしれませんね。