たなびく雲の間から領巾(ひれ)をまとった天人が楽器を奏しながら見守っている。僧侶の読経(どきょう)が本堂にこだまし、唱和する信者たちの声がひとつになって渦を巻く。
聞きなれた西洋音楽の音階とは似ても似つかないけれど、独特の節回しとうなるような長音の連続は、どこか日本古来の伝統音楽に通じるものがあるようだ。
紀元前5世紀にインドで起こった仏教はシルクロードを経て中国に渡り、朝鮮半島を経由して6世紀に日本に伝来したとされる。8世紀には中国から「声明」がもたらされた。声明とは経文に旋律や抑揚をつけて唱えるもので、僧侶の日々の勤行(ごんぎょう)や葬儀や法事など仏事で行われる読経もそのひとつだ。
声明は本来、古代インドのインテリたちが教養として学んだ「五明(ごみょう)」と呼ばれる5種類の学問のうちのひとつだったが、後に仏教儀式に取り入れられ、重要な音楽的要素を担うようになった。
1万人のアカペラとジャパニーズダンスのコラボに大仏様もビックリ!!
日本最古の声明の記録は天平勝宝4(752)年に執り行われた東大寺の大仏開眼供養である。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によれば1万人もの僧侶が参列し、五節舞(ごせちのまい)や久米舞(くめまい)など日本古来の舞楽も行われ、ほかに類を見ないほど盛大な式典になったという。
声明は調声(ちょうしょう)をあげる導師の声を頼りにアカペラで歌う。孝謙女帝や大仏建立の発願者(ほつがんしゃ)である聖武太上天皇(孝謙女帝の父)らを前に行われた1万人のアカペラと日本古来のダンスのコラボに、大仏さまも目を丸くしたのではなかろうか。平安時代初期には天台・真言の声明が中国から伝来し、二大潮流になっていく。
声明で無我の境地に聴衆と一体化した音楽ライブ
声明を唱えることで僧侶は無我の境地となり、法楽を得る。ブッダが悟りを開いたときに法(真理)を回想して楽しんだというが、それと同じ喜びが味わえるのが声明の醍醐味だ。あらゆる束縛から解き放たれ、自然と交わり、湧き上がる喜びに身を委ねて法悦の境地に達する。声明を聴く信者も同様に魂を揺さぶられ、一種のトランス状態に陥ることで唱える者と聴く者が一体化した場が生まれる。
これこそまさに現代の音楽ライブに通じるのではないだろうか。
法然が説いた専修念仏に南都北嶺が大反発
ところがこの声明が仇となり、命を落とした気の毒な青年僧侶たちがいる。
平安時代後期、比叡山のエリート学僧であった法然(ほうねん)は天台宗の教学を究めた後、衆生(しゅじょう)救済について深く考え、ひたすら阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えることでだれもが等しく極楽浄土に往生できるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えにたどりつく。
承安5(1175)年、法然は東山の吉水の地に移り住み、教えを広めるようになる。それまでの仏教は南都北嶺(なんとほくれい:奈良や比叡山の寺社)を中心とした貴族仏教で、広く民衆の救済を目的としたものではなかった。
専修念仏の教えはとてもシンプルでわかりやすく、これまでにない斬新なものとして幅広い階層に受け入れられ、吉水には法然を慕って多くの信者が集まった。その中には後に浄土真宗の開祖となる親鸞(しんらん)の姿もあった。
一方止まるところを知らない専修念仏の勢いに腹の虫がおさまらないのは南都北嶺の衆徒たちだ。法然のシンパには貴族も多かった。法然たちは阿弥陀仏しか信じようとせず、われら他宗派を軽んじてけしからん。 ぜひ、専修念仏を停止(ちょうじ)してほしいと、朝廷に訴えを起こしたのである。
しかし朝廷内にも法然の信者は多く、停止までには至らなかった。
美男僧侶の奏でる美しい声明が人々に安寧をもたらす
法然の弟子に住蓮(じゅうれん)、安楽(あんらく)という二人の僧がいた。ともに美声の持ち主で声明に長け、おまけに美男子であったようだ。
声良し、顔良しの二人はあまた存在する法然の弟子の中でも絶大な人気を誇り、ともに「別時念仏会」(べつじねんぶつえ:場所や時間を定めてひたすら称名念仏に励むこと)を開き、「六時礼賛(ろくじらいさん)」を唱え、専修念仏の布教に貢献した。六時礼賛とは1日を6時に分けて阿弥陀仏の功徳を褒めたたえ、極楽浄土に往生することを願いながら礼拝をすることである。二人は美声を自在に操り、抑揚をつけ、時に哀切に満ちた声で声明を唱えた。それは大変珍しく、聴聞の人々を大いに喜ばせ、ファンは増える一方だった。
折しも末法思想が流行し、打ち続く戦乱と不安定な社会情勢におびえながら暮らす人々は、二人の奏でる声明に阿弥陀仏の救いを見たのだろう。
後鳥羽上皇寵愛の女官たちが不在中に出家し、上皇は大激怒!
さて、ここに後鳥羽上皇に仕える二人の女官がいた。その名は鈴虫、松虫と伝えられている。二人は姉妹で美女の誉れ高く、上皇の寵愛も深かった。
承元(建永)元(1206)年12月、後鳥羽上皇は熊野参詣に出かけ、京を留守にした。上皇の不在中に二人の女官は東山鹿ケ谷で住蓮、安楽が催した六時礼賛念仏会に出席。こともあろうに上皇の許しもなく、出家して尼になってしまう。鈴虫17歳、松虫19歳という若さだった。
二人は今出川左大臣の娘であったが、後鳥羽上皇の寵愛ぶりに周囲から嫉妬の目を向けられることも少なくなかったらしい。お局さまからイジメにもあっただろうし、何より愛憎渦巻く宮中で生活することは年若い二人にとってさぞ辛かっただろうと推察する。そんな時に専修念仏の教えに出合い、心底救われたと思ったのだろう。
当初二人の僧侶は上皇に無断で二人が出家することに反対したという。しかし、鈴虫、松虫の本気を知り、やむなく緑の黒髪にかみそりを入れた。
二人の青年僧は斬首 事件は専修念仏停止に発展
何も知らず、京に帰ってきた後鳥羽上皇はビックリ仰天! かわいがっていた姫たちが自分に断りもなく、そろいもそろって尼になってしまった。上皇のプライドは丸つぶれだ。しかも、僧侶たちとの不倫を疑う声もある。
この時まで後鳥羽上皇は専修念仏に対して鷹揚だった。しかし、この事件で情勢は一変。激怒した上皇は翌建永2(1207)年2月、専修念仏停止の決定を下したのである。姫たちを出家させた住蓮、安楽はほかの二人の僧とともに死刑。法然、親鸞は僧籍をはく奪され、ほかの5名とともに流罪となった。これを承元(建永)の法難という。
不思議な縁で二人の菩提を弔う近江八幡市の易行寺
住蓮は近江国馬淵村(現・滋賀県近江八幡市)で、安楽は京都の六条河原で斬首されたという。
現在、二人は近江八幡市千僧供(せんぞく)の御僧塚で仲良く眠っている。この辺りは古墳時代中期から後期にかけて造られた古墳が点在し、二人の墓は「住蓮房古墳」と呼ばれる塚の上にある。国道8号からほど近い田んぼのまん中で、近江平野を一望できる高台だ。
当時罪人は見せしめのためか故郷で処刑されるのが常であったらしく、安楽は故郷の京の都で処刑された。住蓮は伊勢国(三重県)出身だったが京を出て伊勢に向かう途中、やむなく近江で処刑されたという。理由については諸説あるが、定かではない。生前、安楽は住蓮とともに葬られることを願っており、その希望を叶える形となった。
二人の菩提を弔っている寺が近くにあると聞き、寄ってみた。供養山易行寺(くようざんいぎょうじ)。塚の西方にある浄土真宗本願寺派の寺院である。運よく前住職の赤松正之さんがご在宅で訪問の理由を告げたところ、アポなしで行ったにもかかわらず、ニコニコしながらお話を聞かせてくださり、貴重な資料を拝見することができた。
易行寺では平成20(2008)年に「住蓮房安楽房八百回忌記念法要」を勤め、毎年2月9日の二人の祥月命日には法要が営まれている。かつては墓がある御僧塚でも法要があり、露店も出るなどおおいににぎわったというが、現在は行われていない。
内陣に向かって左側の西余間には住蓮・安楽の木像が収められた厨子が安置されている。黒ずんではいるが、二人の端正な顔が見て取れる。これらは元々中山道近くのお堂に安置されていたが、明治29(1896)年の秋、大水が出てお堂が流されてしまったため、易行寺で預かることになったのだという。
昭和30(1955)年の住蓮、安楽750回忌の際には法難を絵で表した「住蓮房安楽房御絵伝(じゅうれんぼうあんらくぼうごえでん)」が制作され、60年以上を経た今も色彩は鮮やかで保存状態は良好だ。鈴虫、松虫の出家の様子から住蓮、安楽の処刑の様子までが描かれており、詞書はない。赤松さんが絵解きをしてくださった。「どこかに元絵があってそれを写したのではないかと思いますが、よくわかりません」とおっしゃる。「親鸞聖人御絵伝」や「蓮如上人御絵伝」、「法然上人絵伝」などは各宗派の各寺院に存在するが、住蓮と安楽のみの御絵伝というのはたいへん珍しく、元の絵伝がないとしたら易行寺だけかもしれない。いずれにしても貴重なものだ。
本堂でのライブやコンサートはちっとも不思議じゃない
二人の辞世の句
「極楽へまいらんことの嬉しさに 身をば仏にまかせぬるかな」安楽
「このほどのかくし念仏あらはれて 弥陀に引かれて西へこそゆけ」住蓮
阿弥陀如来にすべてを任せて旅立とうとする二人の覚悟がよく表れている。
専修念仏はいったん弾圧されたが、その教えは深く民衆の中に根を下ろしていった。法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗の開祖として歴史に名を残している。住連、安楽が命を賭して伝えようとした声明は、平曲や謡曲、浄瑠璃など語り物のルーツとなった。最近では声明のコンサートやお寺ライブも各地で行われているようだ。本堂は音響設備のなかった昔から声明がよく聞こえるように計算して造られている。いわばプチコンサートホールのようなものだ
ちなみに二人の僧によって救われ、出家した鈴虫、松虫の姉妹はそれぞれ妙貞法尼、妙智法尼と名乗り、現在の広島県尾道市瀬戸田町にある光明坊で念仏三昧の余生を送ったとされる。
京都東山には住蓮、安楽の二人を開基とする住蓮山安楽寺がある。
参照
WEB版新纂浄土宗大辞典
湖国浪漫風土記
住連御房安楽御房縁起(供養山易行寺)
平成二十年六月七日勤修 住連房安楽房八百回忌記念法要 ご法話記録(供養山易行寺)
供養山易行寺
住所:滋賀県近江八幡市千僧供町385
電話・FAX:0748-37-0809