これまで、何度か書いているけれど書くことが尽きないのが和歌山県の新宮市。新宮市に限らず、南紀は「これはいったいどういうことなんだ」と興味が尽きない土地である。にも拘わらず、なぜか話題になることは少ない。今はコロナ禍で止まっているけれども、遭遇する観光客は、いつもだいたいが外国人。知らない言葉を話す人たちが作務衣を着て傘をかぶって杖を手にして旅しているのだ。宗旨は違うけど巡礼ということなのか。
インドア派の藤原定家もやってきた熊野詣
そうした巡礼者に比べると、ボクはあくまで手を抜いているのだが、熊野詣をするくらいには信仰心がある。平安時代、末法の世に一大ブームとなった熊野詣。この時代の大都会である京の都から見れば紀伊山地の険しい山道を越えた先に、聖地があるという。
そんな聖地を目指して、大勢の人が訪れたのだ。時の天皇も熊野詣には熱心で708(延喜7年)の宇多天皇に始まる熊野御幸は院政期にはより活発となった。後白河天皇なんて上皇・法皇となってから33回も出かけている。
そんな熊野詣の記録を残しているのは、藤原定家。いわずと知れた歌人で能筆家。今でも、定家の残した文書は多いのだが、その中にあるのが『熊野御幸記』だ。『後鳥羽院熊野御幸記』の別名もある、この文書は定家の直筆のものが国宝となり三井記念美術館に所蔵されている。定家は、同じく国宝になっている日記『明月記』も知られているが、こっちはちょっと趣きが違う。その内容は後鳥羽上皇にお供して熊野詣に出かけた1201(建仁元年)の記録なのだ。やっぱり信仰心が篤く30回も熊野詣に出かけた後鳥羽上皇は、この時22歳。対して、定家は40歳。当時としては高齢だけど熊野詣は初めてである。京の都じゃ大ブーム。貴人はもちろん、庶民もわれもわれもと出かけて「蟻の熊野詣」と呼ばれる大賑わい。なのに、定家は一度も出かけたことがなかったのだ。ようは、外に出るより歌でも詠んでるほうが好きなインドア派だったということだろうか。
辛い旅路はまた修業……とは思えぬ
今じゃ定家といえば『新古今和歌集』だとか、多くの写本で当代随一の文人として評価されていたイメージがある。でも、実際の定家はけっこう違う。最後は正二位までなったけれども『明月記』を読むと、なかなか出世できない恨み辛みが籠もっている。得意の歌も、一種自分が出世するためにはこれしかない……と賭けていた部分もなくはない。ただ、いかに歌が評価されても官位は上がらない。現代社会でも、いくら仕事は優秀でも飲み会とか人付き合いを避けていたらなかなか出世できないのと同じである。
そんな定家が、それまで避けていた熊野詣に同行したのは、やはり出世のためである。院政実力者だった内大臣・源通親が熊野御幸にお供するので、自分もついていって覚えをめでたくして出世させてもらおうと考えたのだ。より具体的には権少将から中将に官位をあげてくれというもの。
でも、お供といっても単に後ろからついていくわけではない。与えられたのは一行の先回りして準備する役である。船を準備し、宿を整え。かと思えば途中の王子社での御経供養や奉幣も命じられる。へろへろになって休もうと思えば後鳥羽院に歌会を命ぜられて休む暇もない。おまけに自分の宿所は「三間の萱葺屋で板敷無し」だし、内大臣の家人にも舐められたり。ついには難所である大雲取・小雲取越えで豪雨に遭って輿に乗ったまま失神するのだ。山道を輿で運ばれるなんて、一種の拷問。今の自動車なんかと違ってサスペンションもないから揺られているだけで、前身が筋肉痛になりそうだ。しかし、失神しているほうはいいけど、輿を担がされている家来のほうはどんな気持ちだったのか。
ロマンがあるのは補陀落渡海
そうやってたどり着いた熊野の地。通例なら苦労を乗り越えてたどり着いた伽藍に感動もひとしおなんだろう。でも、あまりに苦労が多すぎたのか「感涙禁じ難し」と文章を書く気力すら尽きているのである。
下級貴族とはいっても、貴人である。そんな人でも苦労して出かける熊野の地。そこに一生に一度でも出かけられるのは幸運な人。江戸時代になって伊勢参りは一生に一度というくらいだったのだから、平安の頃はもっと大変なものだ。
熊野にはいきたけれど熊野は遠しという人にもちゃんと便利な仕組みがあった。それが熊野比丘尼である。諸国を回りながら熊野の御利益を広める人々。小脇に抱えた文箱から取り出した絵図を使って絵解をして、ありがたい熊野のお札……熊野牛王符を配るのである。
この絵解に使われるのが「熊野観心十界曼荼羅」や「那智参詣曼荼羅」である。前者はいわゆる地獄極楽の絵図。人の一生と共に、六道と地獄極楽が描かれている。悪事を働けばとんでもない地獄に堕ちることが一目瞭然な図解である。後者は熊野三山のひとつである那智山を描いたもの。これ、那智大社の資料館に展示されているので、じっくり解説してもらったことがあるのだが、実に興味深い。老夫婦が先達に案内されて那智の浜から那智山へ登る。今はバスだが歩きである。橋の向こうは清浄な場所だから「今のうちに食べておこう」と弁当を食べている人がいたり。あるいは、浜辺には補陀落渡海に旅立つ船がいる。
補陀落渡海は特別な船で沖に運んでもらい、そのまま流されるままに南方浄土を目指すという修行。一度船出したら帰っては来られない旅路である。みんな海の藻屑となって終わったかと思えば、浄土かどうかはわからぬが南方に流れ着いた人もいる。なので、沖縄にも熊野信仰がある。なんともロマンのある旅路なので、ボクもいつかは旅立ちたいと願っている。
そんな那智参詣の最後は那智山の奥にある妙法山阿弥陀寺。そこでは、それまで描かれていた老夫婦が姿を消して先達が一人だけ。なるほど亡者の熊野詣だったのかというオチがつく構成なのである(なお、資料館で複写されたものを解説本と一緒に売っている)。
そして今は楽な旅路に
今じゃそんな苦労もせずに電車とバスに乗ってたどり着くことのできる熊野詣。より、その有り難さを知ったのは今年のことである。新型コロナウイルスが蔓延し始めた春、熊野三山のひとつである熊野速玉大社大社がアマビエステッカーの頒布を始めたのだ。
いまではみんなが知るところになっているが、アマビエはもともとは熊本県に伝わる伝説。熊野とはいったいどういう関係が……?
なんて、難しく考える必要はない。これも、神道の独特のノリなんだ。災害や疫病が流行した時に、いつもの神様でも治まらないようなら、よそから神様を呼んできてお願いすることは古来から行われてきた。
福岡県北九州市八幡東区に天疫神社という神社がある。この神社、祭神が稲田媛命・須佐之男命・大穴牟遅命(大国主命)・事代主命と、どれも出雲の神様なんだ。神社の始まりは醍醐天皇の時代に疫病が流行ったので、これらの神様を祀ったら治まったというもの。その御利益を聞いて、我も我もと祀ったのか、北九州市あたりには天疫神社という神社がいくつもある。
いざとなったら「どこそこの神様に来ていただこう」ということでお祀りして、色々と混じっていった神社というのは多いものだ。
そう、諏訪にも熊野神社があるんだが、熊野神社なのに諏訪信仰の名物である御柱が立っているんだ。こういう信仰が臨機応変に変化していく様子が神社の興味深いところだ。
京都の八坂神社なんて、感染を防ぐために鉦を鳴らす紐を取り外して、手をかざすとセンサーで「ガランガラン」と音が出るようにしている。
この速玉大社のアマビエステッカー。その美麗なイラストに御利益を感じて、すぐに欲しくなった。今広まっているアマビエは元ネタに倣ってコミカルに描いたものが多いのだが、ここのはソデフリウオという深海魚をモチーフにした写実的なもの。
このイラストを描いた平野薫禮さんという女性には以前の取材で会ったことがあるのだが、この人がまた面白い。今住んでいるのは、新宮市の熊野川町。それも人口12人の嶋津という集落である。そんな集落の名物は日本一の絶景と呼ばれる北山川の大蛇行が生み出した風景。山から見下ろすと円形の川に囲まれた対岸の三重県熊野市紀和町木津呂が見える。そこにたどり着くには、道なき道を進まなくてはならぬ。それでも見たいという人のために平野さんはツアーも行っている。そのために立ち上げたのが嶋津観光協会。会長は平野さんの家の犬である。
このツアーのおかげで集落には防犯灯がついたりと、とても役立っているというわけ。ボクは前に取材に出かけた時にゲストハウスの人に「面白い人がいる」と紹介して貰ったんだ。芸術家である平野さん、頒布のトートバックなんかも作っていて会う前にボクは知らずにそれを買っていた。デザインも優れているが、なによりも丈夫である。買ってからもう4年くらいになるが、資料の本とか重いものを運ぶ時に絶対に信頼できるものだ。
有り難いステッカーでコロナを乗り切る
そんな人のデザインするアマビエステッカーだから、御利益がないはずがないだろう。さっそく、速玉大社に「欲しいんですが」と電話したところ……2日後には郵便で送られてきた。なんだろう、この親切さは。最近の言葉でいえば、ホスピタリティ。それが、この土地の魅力なんだ。住めば当然、いいとこ悪いところも見えてくるんだけど、ここいらは現世における浄土の一種じゃないかとボクは思っている。
今や定家とは違って、失神もせずに出かけられる熊野詣。先日、土地の人に「いま、訪れたらマズいですかね」と聞いてみたら「いいんじゃない」とはいう。でも、まだしばしは我慢しておきたい。アマビエステッカーの御利益でコロナが治まったら、堂々といけるのだから。
と、書いていたら平野さんが今度は『願いが叶う神さまポイント』をつくったという。これまた、速玉大社で頒布されているそうで、御利益がありそう。また電話しなきゃ……。