Culture
2020.10.15

日本最古のマジシャン?鬼を弟子にした天狗?謎多き修験道の開祖・役小角とは

この記事を書いた人

7世紀に生きた役小角(えんのおづぬ)という人物は日本独自の山岳信仰である修験道(※)の開祖とされる。葛(くず)の衣を纏い、松の葉を食し、大和国の葛城(木)山を中心に活動した日本最古の呪術者だ。空を飛ぶことから天狗に喩えられたり、鬼を弟子に持っていたり、不老不死になったなどという数々の信じられない伝説を持っていたりする。

これだけみると、俗世と離れた仙人のようにも見えるが、実際はそうでもない。当時は律令政治により民に対する規制が厳しく困窮する人々が多かった。山で修行する中で得た薬草の知識で人々に教えたり、心のあり方を説いたりもしたのだ。まずは語り継がれる不思議なエピソードを紹介していこう。

※山に篭って修行を行うことにより悟りを開くという日本古来の山岳信仰と、外来の仏教などが結びついたもの。

一体何者?役小角の不思議なエピソード

生まれる前に夢に出てきた!?

役小角は、「役行者(えんのぎょうしゃ)」とも呼ばれる。生まれは葛木の茅原、現在の奈良県御所市茅原である。母の白専女(しらとうめ)は小角を身ごもった際に、天から黄金色の仏具が降りてきて自分の口に入るという夢を見る。生まれた小角は可愛いと言うより不気味で、白専女はその赤子を林の中に捨ててしまう。しかし、雨にも梅雨にも濡れず、獣や鳥が見守っていたため、衰弱することがない。白専女は家に連れ帰り、再び養育を始める。それが小角の山や自然に愛された人生の始まりだった。

幼少から梵字が書けた!?

小角は幼い頃から人と違っていた。まずは誰にも教わっていない梵字を書きはじめた。梵字といえば仏教発祥の地であるインドの文字。日本の文字を書くならまだしも、梵字を書けるというのは想像しただけで異能を感じる。

22歳で悟りを開いた!

一方で、葛木の山々に繰り出し、目をぎらつかせて、ボロボロな服で山中を駆け、滝に打たれたという。子供の単なる遊びではなく、すでに修行の域に達しているように思える。そのような生活を通して、小角は山に対する想いを強めていった。

飛鳥の元興寺の僧・慧灌(えかん)は小角の才能を見抜き「孔雀の呪法」を授けた。これは空海が唐から密教を伝える以前の、雑密における呪法。山に入って怪異に出くわした時に用いるもので、恐ろしい毒蛇などから身を守るおまじないのようなものだ。小角は山中での修行を通じてこの呪法を体得した。ある意味、山中における生活の知恵を身につけたようにも思える。

22歳の春に、とある滝で2世紀にインドで生まれた高僧・竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の浄土に遭遇して、密教の奥義である灌頂(かんじょう)を授かる。その風景はなかなか想像しがたいが、灌頂とは悟りを開いて仏になったことを示す。山岳信仰である修験道を開く第一歩を踏み出したというわけだ。

鬼の夫婦を弟子にした!

北斎漫画10編に出てくる役小角と前鬼・後鬼。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

その後、小角は山林に潜む修行者たちを統合して、教えを広めた。同時に、薬草や呪術的医療、鉱山探しなどの知識を広く身に付けた。その過程で、山に精通する者の存在は不可欠。そこで、小角は悪いことをした者を改心させて味方に加えていった。それが冒頭で触れた鬼を弟子にしたというエピソードだ。

あるとき、摂津国の箕面山というところに、人々を食す鬼の夫婦がいた。殺した人の数はしれず。小角は悔い改めさせるべく、その鬼の子を呪文で隠してしまう。驚いた両鬼は、あちこち探し回ったが、どうしても見つからない。そこで小角は、鬼に人殺しを止めることを迫り、人の代わりに粟を食べることを教えた。そして、両鬼を人間に戻し、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)と名前を改め仕えさせたという。

神々との対立で島流しに遭う

また、山林を舞台に活動を展開する小角にとって、日本古来の神々が潜む神域との対立は不可避なことだった。一言主神(※)とのエピソードはそれを集約したものと言える。

小角は吉野の金峰山と葛城山の間に橋をかけようとした。そこで、小角は鬼神を集めて昼夜通しの工事に取り掛からせたのだが、一言主神だけ「昼間は自分の醜い姿が見えてしまう」と働くことを嫌がる。怒った小角は命令に従わない一言主神に対して呪術をかけ、谷底に突き落としてしまう。

これを恨んだ一言主神は里人に「役小角が朝廷に対して謀反の疑いあり」と言いふらす。朝廷は捕らえようとするが、空に飛ぶなどしてなかなか捕まらない。そこで、人質として小角の母を捕らえた。それを聞いた小角は止む無く自ら捕縛され、そして伊豆大島に流された。小角の恐ろしさと優しさが際立つエピソードであるが、朝廷が小角を捕らえるための作り話のようにも思える。狙いは鉱物資源か、それとも何だったのか。

※一言主神(ひとことぬし)は大和の葛城山の神で、日本の神話に出てくる素戔嗚命(スサノオノミコト)の子。

小角の影響で各地に異常気象!?

小角が伊豆大島に流されてからというもの、各地に異常気象が起こった。時の文武天皇はこれを憂いていたところ、夢に北極星の童子が現れ「聖人を罪に陥れたからこんなことになったのだ」という。天皇はすぐに小角の故郷への帰還を許す。

故郷に戻った小角は、ほどなく仙人になると言い残して、母とともに天に昇った。一説には、大陸に渡ったというが、真偽は定かではない。

山岳信仰は仏教と結びつき、密教に繋がる

役小角が広めた山岳信仰は、後世に非常に大きな影響を及ぼした。奈良時代には、世俗化した仏教に反発する仏教の一派・密教と結びつく。密教といえば、唐で修行を積んだ空海や最澄が8〜9世紀に広めたもので、生活の様々な局面での現世利益や病魔の退散などを目的とする。その密教が山岳信仰と結びつくことで、修験道がより組織化され、全国に山伏が現れ、信仰は急速に拡大した。日本は国土に占める山林の面積の割合が大きいので、山を舞台にした信仰が広まったのも頷ける。

歴史の裏側に常に存在する山伏

Kani Yamabushi, from the series “Pictures of No Performances (Nogaku Zue)。出典:シカゴ美術館

日本全国に広がった山岳信仰のネットワークと山伏たちによって、歴史の表舞台には出てこない「もう1つの国家」ができた。彼らは山に籠る呪術的な宗教集団であり、自然資源を活用する高度な科学技術集団として、歴史の表舞台を揺さぶることとなる。

例えば、源義経は山伏と縁の深いリーダーだったという説がある。鞍馬山での修行や、仲間の弁慶の存在、安宅の関で山伏の格好をしたことなどのエピソードから、山岳集団との関与が考えられるのだ。義経は源頼朝から逃げ延びるために奥州平泉にたどり着く。これは、中尊寺金色堂を中心として東北に国家を築こうとした奥州藤原氏と、山岳集団の義経が手を結んだという捉え方もできるのだ。鎌倉政権の安定を図る頼朝は、これを警戒して奥州征伐を決行。結果的に、義経も藤原氏も滅亡した。

また、徳川家康も山伏との結びつきが強い。家康は真言宗と繋がっており、天正元(1573)年には「山令五十三ヶ条」を制定し、慶長18(1613)年には「山伏法度」を発した。これにより、全国の鉱山労働者や修験者の集中支配を強化でき、安定的な江戸幕府という政権を築くことにも繋がった。ほかにも山伏の修験者を脅威と捉えた権力者が、それを制圧する、あるいは味方につけるという政策を実行した例は数え切れないほどある。

ここまで考えてみると現在、石油の集積地である中東で、世界規模の戦争が起こっていることも頷ける。争いは資源の取り合いが発端で起こり、それが歴史を作ってきたとも言えるのだ。

岩手県で知った山伏の現在

ところで私は、2020年7月に岩手県で山伏の神楽を取材した。この地方に伝わる神楽は、関西を始め遥か西の方から山伏が伝えたとのこと。山伏のネットワークの広さを実感するとともに、素朴に山と向き合う人々の暮らしが印象的だった。今でも「お山かけ」といって修験道を歩く習慣があるし、お寺が修験者を募集しているところもある。

今から約1300年前に生きた役小角とはどのような人物だったのか、その一端を見た気がした。数々の伝説的なエピソードを持ち、後世へ多大な影響をもたらした修験道の開祖とも言われる存在だ。しかし一方で、山を想う純粋な一人の人間だったのかもしれない。謎が多いからこそ、想像をめぐらすことができる。それが役小角という人物の魅力である。

参考文献
『七人の役小角』 夢枕獏 小学館文庫 2007年10月
『古代金属国家論』 内藤正敏・松岡正剛著 立東舎 2016年11月

トップ画像出典:シカゴ美術館

書いた人

千葉県在住。国内外問わず旅に出て、その土地の伝統文化にまつわる記事などを書いている。得意分野は「獅子舞」と「古民家」。獅子舞の鼻を撮影しまくって記事を書いたり、写真集を作ったりしている。古民家鑑定士の資格を取得し全国の古民家を100軒取材、論文を書いた経験がある。長距離徒歩を好み、エネルギーを注入するために1食3合の玄米を食べていた事もあった。