Culture
2020.10.23

禰豆子の着物で再注目!「麻の葉模様」は、江戸の女子にも大人気だったこと、知ってた?

この記事を書いた人

人気のマンガ『鬼滅の刃』の登場人物の衣裳には、日本の伝統文様が使われていることをご存じですか?
例えば、主人公・竈門炭治郎(かまど たんじろう)の羽織は色違いの正方形が連続する「市松文様」で、霰(あられ)、石畳(いしだたみ)とも呼ばれます。「市松文様」は柄が途切れることなく続いていくことから、繁栄を意味すると言われています。我妻善逸(あがつま ぜんいつ)の羽織は、正三角形や二等辺三角形を交互に並べた連続文様「鱗(うろこ)文様」で、魔除けの力を持つと言われ、武具や戦陣の衣装に用いられました。

炭治郎の妹・禰豆子(ねずこ)はピンクの地色の「麻の葉文様」の着物に、帯は炭治郎の羽織と同じ市松文様ですが、赤と白の組み合わせで、女の子らしい色合いのコーディネートとなっています。

「麻の葉文様」は、古くから装飾などに使われてきた文様で、江戸時代の錦絵にも「麻の葉文様」を使った様々なコーディネートが描かれています。現在も人気の伝統柄で、どこかモダンな印象もある「麻の葉文様」。この記事では、長く愛され続ける「麻の葉文様」に込められた意味などを探っていきたいと思います。

「麻の葉文様」は植物文様ではない!?

「麻の葉文様」は、正六角形を基本とする「割付(わりつけ)文様」の一つです。三角形、菱形、方形、多角形、円形などの同じ文様を上下左右に連続させ、規則的に繰り返して一定面積の中に割り付けたものを「割付文様」、あるいは「幾何文様」「幾何学文様」と呼びます。
「麻の葉文様」は、正六角形の対角線によってできる六つの正三角形の重心と各頂点を結ぶことによってできる星形文で、形が麻の葉に似ていることから、この名がつけられたと言われています。「麻の葉文様」は、植物をモチーフにした植物文様ではありません。

「麻の葉文様」そのものは古くからあります。
平安時代の仏像には、金箔や銀箔を糸のように細く直線状に切ったものを膠(にかわ)などで貼りつけて文様を表現する「截金(きりかね)技法」による「麻の葉文様」の装飾が見られます。鎌倉時代の刺繡で仏像や仏教的な主題等を表現した「繍仏(しゅうぶつ)」にも「麻の葉文様」が見られます。室町時代には、建築、彫刻、染織、漆工などに広く「麻の葉文様」が用いられるようになりました。

また、「麻の葉」は家紋にも使われ、「丸に麻の葉文」「三つ割り麻の葉文」「麻の葉桔梗文」など多くのバリエーションが生まれました。

「麻の葉文様」に込められた願い

「麻の葉文様」は、江戸の女子たちの間で流行し、やがて、子どもの着物や下着、産着にも用いられるようになります。
子どもの死亡率が高かった時代、子どもが生まれると、女の子には赤、男の子には黄色か浅葱(あさぎ)色の「麻の葉文様」の着物を着せました。これは、麻は生命力がとても高く、まっすぐに育つことにあやかったもの。何よりも、麻の葉の模様そのものに邪気をはらう力があるとされていました。「麻の葉文様」の産着の習慣には、大人たちの「すくすく健康に大きく育って欲しい!」という子どもの健やかな成長と厄除け、魔除けの祈りが込めてられていたのです!
また、安産祈願のお守りにも「麻の葉文様」が見られます。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 溜いけ」 国立国会図書館デジタルコレクション

冬の朝、裸の赤ちゃんを自分の着物の中に抱えている女性を描いた画像の右側には、火鉢の上に軍鶏籠(しゃもかご)という闘鶏用の鶏を飼う竹籠を被せ、その上に赤ちゃんの着物を載せて温めています。赤ちゃんの着物の背には「背守り(せまもり)」というお守りが付いています。「背守り」は、赤ちゃんの死亡率が高かった時代、無防備な赤ちゃんの背中から魔物が忍び寄ってこないように付けられたものです。

江戸の女子に人気の「麻の葉鹿の子」

「麻の葉文様」は、現代でも、着物や帯、長襦袢(ながじゅばん)などに使われる伝統文様の一つです。正六角形の「麻の葉文様」、麻の葉を前後左右に複数連続させた「麻の葉繋(つな)ぎ文様」、正六角形の一部を変形させ連続させた「麻の葉崩し文様」、連続文様の所々で形をぼかして破れ目のようにした「麻の葉破れ文様」など、様々な文様のパターンと呼び名があります。

三代目歌川豊国「忠臣蔵絵兄弟 九段目」 国立国会図書館デジタルコレクション

画像右側の少女のコーディネートは、「麻の葉文様」でまとめています。着物、帯、ちらりと見える襦袢が、様々なパターンの「麻の葉文様」であることがわかりますか?

また、「麻の葉文様」を絞りで紅色に染めた「麻の葉鹿の子」は、艶やかな女らしさを際立たせる文様として江戸の女子に人気でした。
鹿の子絞りは糸で絞った部分が染まらず白く抜かれる染織技法で、やや大きめの四角形に近い「疋田(ひった)鹿の子」や、小さな丸の中に、人の目のように点の入った「人目(ひとめ)鹿の子」などがあり、道具の種類やその使い方によって様々な形が作り出されます。
「麻の葉鹿の子」に代表される鹿の子文様は、文様を線ではなく鹿の子という点であらわしたもの。鹿の背の白斑から名付けられた鹿の子文様の名産地が京都であることから、「京鹿子」と呼ばれることもあります。歌舞伎の名作舞踊『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』はここから取られた題名です。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 湯島天神」 国立国会図書館デジタルコレクション

錦絵に描かれた少女は、文机(ふづくえ)に向かって習字のおさらいをしていたはずが、途中でラブレターを書き始めていたようです。誰かに声をかけられたのか、慌ててラブレターを袖で隠していますが……。
ちらりと見える少女の帯の裏側が「麻の葉鹿の子」であることがわかりますか?

歌舞伎から生まれた「麻の葉文様」のバリエーション

歌舞伎の中でも麻の葉文様は、娘役の襦袢や帯に使われる柄としておなじみです。
通常は、紅色で染め上げられる「麻の葉鹿の子」ですが、文化6(1809)年に革命的な出来事が起こります。

美貌の女形の衣裳で人気となった「半四郎鹿の子」

文化6年3月、天性の美貌で眼に魅力があり、「眼千両」と称された歌舞伎の女形・五代目岩井半四郎が江戸・森田座で八百屋お七の追善興行を行いました。岩井半四郎は、『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「火の見櫓(ひのみやぐら)の場」でお七を演じた際、浅葱色(あさぎいろ)の「麻の葉鹿の子」の着物で舞台に登場します。
舞台は大成功を納め、岩井半四郎の舞台姿は錦絵で広まり、浅葱色の「麻の葉鹿の子」は「半四郎鹿の子」と呼ばれるようになったとか。

三代歌川豊国「火の見櫓の八百屋お七」 国立国会図書館デジタルコレクション

「火の見櫓の場」でのお七を描いた錦絵は様々あります。この錦絵のお七の着物は「半四郎鹿の子」ではありませんが、お七が櫓に上ろうとして着物の片袖を脱ぎ、浅葱色と紅色の麻の葉の段鹿子の長襦袢が現れた場面を描いています。

錦絵は、当時の人々に最先端の文化を伝えるタブロイド、ファッション誌であるとともに、アイドルブロマイドのようなものでもありました。浅葱色の「麻の葉文様」の着物は、江戸の女子たちの間で大流行! さらには、半衿、襦袢、裾廻しなどにも「麻の葉模様」を使うのが流行したそうです。

京阪では「お染形」と呼ばれた「麻の葉文様」

同じ頃、大坂では、文政年間(1818~1830年)に嵐璃寛(あらし りかん)が『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』でお染を演じた際に「麻の葉文様」の着物を着て、大当たり! 京坂の女子たちの間で「麻の葉文様」が流行し、「お染形」と呼ばれて親しまれました。

「麻の葉文様」は町娘役の定番!

そして、「麻の葉鹿の子」と黒綸子を表裏に組み合わせた昼夜帯が、あどけなさと可憐さを持つ歌舞伎の町娘役に欠かせない文様の一つになりました。

『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の「御殿の場」で、杉酒屋の娘・お三輪が身につけている帯は、黒繻子(くろしゅす)と鹿の子絞りの「麻の葉文様」を組み合わせたものです。
お三輪は隣に越してきた烏帽子折(えぼしおり、烏帽子を作る職人)の求女(もとめ)という美しい男に恋をします。実は、求女は藤原鎌足の息子・淡海で、天智天皇を守るため、烏帽子折(えぼしおり、烏帽子を作る職人)に身をやつしていました。恋焦がれる求女(もとめ)を追って、蘇我入鹿(そがのいるか)の屋敷に来たお三輪。入鹿の屋敷の大勢の官女たちになぶられ、狂乱状態となったお三輪が、藤原鎌足の家来・鱶七(ふかしち)に殺されてしまう場面で着ているのが「麻の葉段鹿の子」の振袖仕立ての長襦袢です。
「麻の葉段鹿の子」は紅色と浅葱色を斜めに段違いにした文様で、お三輪は片袖を脱いだ格好でその衣裳を見せることで、町娘が恋に狂った様子を表しているのです!

香蝶楼豊国「妹背山女庭訓 ゑほし折求女・杉酒屋娘おみわ」(『俳優似顔東錦絵』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

文様に込められた女子たちの生きざま

「麻の葉文様」は、歌舞伎では、女性の登場人物が身につける鮮やかな衣裳でおなじみの文様です。この記事で紹介した、お七、お染、お三輪といった町娘の着物のほか、様々な演目の登場人物の衣裳や小物として使われています。

一見か弱そうに見えて、実は芯が強く、数奇な運命に遭いながらも、麻のようにたくましく生きていく……。
もしかしたら、「麻の葉文様」の着物の禰豆子も、歌舞伎の町娘役の流れを汲んだ女の子なのかもしれません。

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。