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2020.11.13

身近にあるちょっとした山、もしかして「富士塚」かも!富士山に登れなくてもリモート参拝できるってホント?

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いつか山頂登頂してみたい。標高3776m、言わずと知れた日本一を誇る富士山は、日本の多くの山々がそうであるように「山そのものが御神体」であり、信仰の対象でもある。

ただ、簡単には登れないことも事実。天候は不安定、必ずしも期待通りの景色を拝めるとは限らず、当然、軽装では入山できないし、開山期も限られる。特に2020年はコロナ禍ということもあり、入山禁止となっている。

しかし、四国88ケ所巡礼と同様の御利益があるとされる全国各地の霊場のように、富士山頂は無理でも「ミニ富士登山巡礼」ができる「富士塚」が、江戸時代後期から昭和初期まで造られ続けてきた。その数は関東だけで、およそ300を超えるそう。

今回は、埼玉県志木市の敷島神社境内にあり、2020年3月に国の重要有形民俗文化財に指定された「田子山富士塚(たごやまふじづか)」にて、ミニ富士登拝を体験してみた。

単なるお山とは違う ー 富士塚とは

宝永の大噴火(1707年)以来、沈黙する富士山。とは言え、静かに見えて富士山は活火山。どうか鎮まるようにという人々の願いはやがて祈り、信仰となる。

富士山と世の中が安定した江戸後期、富士登拝の代わりとして隆盛を極めた富士塚。頂上から富士山を眺めることができるよう、富士山を模して作られた人工塚で、言わば富士山に見立てた「見立て富士」である。実際に富士山から溶岩を運んで築山されたものもあれば、丘や古墳などを転用して造られたものなどさまざまだが、現在は高層ビルなどに遮られ、富士山を臨めない富士塚が多い。

ちょっとしたお山かと思っていたら実は古墳だった、という話があるように、富士塚も無意識のうちに登っている可能性がある。もし、公園などで不自然な場所に小高い山があったりしたら、登って確かめてみたい。

江戸時代のリモート参拝 富士山の代わりに富士塚へ

江戸時代、富士登拝のため、各地に結成された「富士講」。講の人々は少しずつお金を出し合い、巡礼へと旅立った。

巡礼といえば伊勢神宮が思い浮かぶが、「御師」の活躍もあって江戸時代はお伊勢参りがブームとなった(御師についてはこちらの記事参照)。当時結成された「伊勢講」と同じように、富士講は、富士巡礼を目的としたコミュニティであり、簡単に言えば富士山が好きな人たちのサークル。伊勢講同様、富士講にも御師がいて、富士登山の際の宿泊や食料の提供など、さまざまな世話をしていた。

伊勢講では、伊勢神宮までは行けない講員のために代参者が持ち帰った神札に、参拝と変わらぬ御加護があるとされた。富士講においても、実際には富士山までそう簡単に行けない人々にとって、富士塚が富士登拝と同じ御利益が得られる依りしろであり、拠りどころだった。

目黒新富士(富士塚)の頂上から富士山を仰ぎ見て遥拝する姿
歌川広重筆『名所江戸百景・目黒新冨士』(東京国立博物館所蔵) 国立国会図書館デジタルコレクション

ところで「御利益ーごりやく」とは、仏の教えによって得られる恵みのことであって、金銭的・物質的な利益(りえき)とは別もの。真理に触れることで自己を知り、それを他人にシェアするのが、御利益であり、利益(りえき)となると真逆の意味になるので、参拝の際は心しておきたい。

富士講の一員による富士塚築造の決意

田子山富士塚は明治5(1872)年に完成。引又(ひきまた)宿(現在の志木市本町)に住む高須庄吉という人物が、もともと古墳と言われていた田子山の山頂で、富士信仰に関わる「逆修板碑」を発見したことがきっかけとされている。

「逆修(ぎゃくしゅ)」とは、自分が生きている内にあらかじめ自分のための法事を修め、冥福を祈ること。これを行うことにより、死後、初七日以降の法事が免除されるという。

逆修板碑は田子山富士塚の麓の「浅間下社」に御神体として祀られている

逆修板碑には、「これから富士山に行って成仏する」という主旨の言葉が書かれている。富士信仰に篤く、富士講の一員でもあった高須氏はこれを見て感動し、富士塚を造ることを決意した。

田子山富士塚の特徴

各地に点在する富士塚だが、多くの富士塚が、少し盛り上がったところや、斜面に造られてきたため、富士山同様のコニーデ型(成層火山)を模した富士塚は実は少ない。平地にいちから築山するには大変な労力が必要だが、田子山富士塚は元からあった円墳を土台にして、つまり古墳を転用して造られており、美しいコニーデ型が特徴でもある。また、富士山に似せていれば富士塚と呼べるというものでもなく、富士塚を名乗るにはいくつかの構成要素がある。そして、田子山富士塚は「6要件」と呼ばれる条件を全て満たしているのが見どころ。

1「山頂に祠」がある
2「烏帽子磐」がある
3「小御岳神社」がある
4「黒ぼく」(富士山の溶岩)がある
5「御胎内」(地下洞穴)がある
6「霊峰富士を遥拝」できる

田子山富士塚で、ミニ富士登拝を体験

田子山富士塚山頂の祠に祀られているのはもちろん、木花咲耶姫命

御胎内といえば富士山麓にある胎内樹型。木花咲耶姫命が炎の中出産したという伝承で知られる。富士山信仰では、富士登山前に「御胎内巡り」を済ませて「生まれ変わって(身を清めて)」から、登山へ向かう習わしがある。なお、田子山富士塚に御胎内はあるものの、中に入ることはできない。

さっそく田子山に入山すると、猿の石像が目に入る。神社の入り口ではたいてい、狛犬や獅子が門番をしているが、富士山の神獣と言えば猿。「勝る」「魔去る」に通じることから、「神猿」と書いて「まさる」と呼ぶ。富士山が孝安天皇92年の6月、雲霧の間から忽然と出現したという伝説がもとで、その年が庚申の年だったからというのが、猿が富士山の神使となった由来である。

田子山富士塚に足を踏み入れてすぐ左手に親子猿

一合目の印 実際の富士登山のよう

小御岳神社 小御岳は富士山よりもずっと前に生まれたとされる山

明治初期における明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の煽りを受け、日本国内の多くの仏像や仏殿は破却されてしまった。富士山や富士塚に残されている石像も例外ではなく、手や足が破損しているものが多い。

鼻と腕のない天狗の石像

田子山富士塚への入山は、大安、友引、特別入山日に限られる。私が訪れた日は大安吉日晴天に恵まれ、富士塚頂上からしっかりと富士山を遥拝することができた。左の茶色い建物が邪魔だな、などと思ってはいけない。この建物は市民会館なので大目に見ていただきたい……。

富士山遥拝

高さ約10メートル、富士山を模すことに徹底的にこだわって造られたであろう田子山富士塚は、まさにミニチュア富士山。そして富士山同様の、意外と険しい「つづら折り」の山道が続くので、登山の際はくれぐれも足元にご注意を。登山はよく「登るよりも、下山のほうが難しい」と聞くが、田子山富士塚もなかなかの難所である。

埼玉県には田子山富士塚の他にも、雀ノ森富士(川越)、仙波富士(川越)、広瀬富士(狭山)、西宝珠花富士(春日部)など、歴史ある富士塚が遺されている。これらを巡ってみるのはもちろん、有名どころではなくても、ひっそりと佇む名もなき富士塚を探してみるのも一興である。

意外と近くにあるかも知れない富士塚

我が家の近くの公園内に小高い丘がある。単に子どもの遊び場として登り下りしていたが、どうやらかつては富士塚だったらしい。現在は高架橋などに遮られ、頂上から富士山を拝むことはできないが、麓には小御岳神社と思しき石碑がある。

麓にある小御岳の石碑

山頂から富士山を拝むことはできないが、かつてはここから遥拝する人々がいたのだろう

意外にも身近にある富士山信仰の片鱗、富士塚。遥か彼方にありながら、しかしはっきりと姿を捉えることのできる富士山を慕い、畏れ敬う気持ちがあれば、ミニ富士登拝も霊峰富士の巡礼と変わらぬ祈りであることに違いない。

<参考サイト>
田子山富士保存会
<参考書籍>
古くて新しいお江戸パワースポット 富士塚ゆる散歩/有坂蓉子/講談社/2012年
気になる仏教語辞典 麻田弘潤/誠文堂新光社/2018年

書いた人

埼玉生まれ。未だ迷いながら生きてる不惑の世代。迷走しつつ、音楽好きだけは貫いています。人生前半は仕事育児と突っ走って来たので現在、長期息切れ中。これからはゆるく伝統文化を堪能したりしながら、のんびり過ごしたい。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。