新選組副長・土方歳三。出身は多摩(現・東京都日野市)の農家であり、いわば農民の出です。「バラガキ」と呼ばれた子ども時代から、剣術を身に着け京の都に上がり、幕末の狂乱を生き抜き、果ては蝦夷の地で指揮官となり戦場で死にゆく……と、新幹線もない時代に日本を駆け回りました。その人気は今も凄まじく、ゲームやアニメ、漫画といったフィクションの世界では現役で活躍中です。『ゴールデンカムイ』『Fate Grand Order』『ドリフターズ』ほか、モデルになったキャラクター(『銀魂』など)を入れると作品を挙げきれないほど。土方人気の火付け役となった『燃えよ剣』も、延期となりましたが、映画公開を控えています。
なぜこんなにも、私達はトシさんのことが好きなのでしょうか。土方歳三の生家でもある「土方歳三資料館」にお邪魔し、その魅力について改めて考えてきました。
遺品は全て蔵に隠されていた……「土方歳三資料館」ができるまで
京王線高幡不動駅から徒歩15分ほど。多摩モノレール万願寺駅からすぐそばの、住宅街に土方歳三資料館はあります。今回お話を伺ったのは土方家の子孫であり、館長を務められる土方愛さん。土方歳三と同じ家で育った最後の世代だそうです。
庭には銅像があり、門には土方の愛刀「和泉守兼定」と資料館の説明が。
歳三(以下、苗字がかぶるのでこのように表記)が手ずから植えたという竹もすくすくと伸びています。資料館の入り口には歳三が相撲の稽古をしたという太い大黒柱が。梁として横に飾られていたので最初は気づかず……。立派なものでした!
―開館前にお話を聞かせていただき、ありがとうございます。早速ですが、11月に土方歳三の愛刀「和泉守兼定」の刀身を公開されるそうですね。いつもは命日の時期、5月にも公開されるとのことでしたが。
土方愛さん(以下、土方):いつもは拵え(こしらえ)のみを展示していますが、年に一、二度は刀身を限定で公開しています。兼定は日野市の市指定有形文化財になっていますし、毎年たくさんの方にいらして頂いています。
―資料館を拝見して、兼定はもとより、鎖帷子や書状、愛用の木刀など、こうも遺品が残っていることに驚きました。あくまで戊辰戦争では新政府軍に対立した立場でしたよね?
土方:はい、土方歳三は敗戦者となって一生を終えました。当時新政府軍の締め付けは大変厳しかったそうです。遺品はおろか、死んだ様子を記した手紙や日記などを持つことも許されないと言うか、はばかられていたそうです。歳三の戦死の様子を伝えてくれた手紙が我が家に残っていまして。今も展示しておりますけれども、一緒に戦った方が“こより”のように細くして着物の襟元に縫込み、命がけで届けてくれたものでした。
―もともと、遺品は土方家で保管されていた?
土方:長い間、蔵に保管していました。昔はやはりおおっぴらに所蔵できなかったみたいです。戦後、時代が目まぐるしく変わる中、さまざまな面で歳三が見直されて……。1994(平成6)年、命日の5月11日に資料館を開設しました。と言っても、最初は仏間として使っていた8畳間だけ。本当に小規模だったんですよ。その後生家の改築をきっかけに、今の資料館となりました
―平成の時代は、三谷幸喜作大河ドラマ『新選組!』、そして漫画やゲーム、アニメなど、土方歳三の次世代ファンとも言うべき若い世代が増えたと思います。それに伴って、規模も大きくなられたのでしょうか。
土方:影響はありましたね。特に最近は、アニメや漫画を見て、海外の方もわざわざ訪れてくれます。アジア、ヨーロッパ、ロシア……そうそう、日本語を『銀魂』で覚えたんだ!なんておっしゃる方もいましたよ(笑)
―小学館的には学習まんが『日本の歴史』などをおすすめしたいところですが……。それはさておき、老若男女が訪れると考えて良いのでしょうか。
土方:歴史好きの年配の方だったり、お母様とお子さんだったり、年齢層は幅広いですよ。原田左之助が好き! なんていう新選組ファンの女性が来たこともありましたね。みなさん本当によくご存知で。
―斎藤一なども、『るろうに剣心』に登場していますしね。こちらも近年映画がヒットしていますし、我々はほかの歴史に比べて、新選組に触れる機会が多いのでしょうね。
土方:新選組の記録って、実はほとんどが私文書で残されているんですよ。
―そうなんですか?
土方:もちろん戦いに参加したときどこに配置されたかなどは残っていますけど、どんな生活をしていたかは、日記や自分たちの記録でしか見られないんです。
―裏を返せば、当人たちの言葉で残っているということですね。そのあたりも身近に感じられる理由のひとつかもしれません。
徐々に見直された「幕末」
―それにしても、よくこんなに記録が残っていたものだと思います。土方家でも、歳三が参加した句会の記録まで保存されていたんですね。
土方:歴史上の人物だからというより、ご先祖様のものだったから、というのも大きかったと思います。展示しているものは個人蔵がほとんどで、まれに新選組のご縁でお借り展示させていただくものもあります。昔は本当に、敗北した側はほとんど相手にされなかったので……。歳三も、全然知られていませんでした。
―やはり転機は『燃えよ剣』ですか?
土方:影響は大きいです。1968年は明治から100年とされて、「明治百年祭式典」という記念式典が行われました。その結果”幕末ブーム”と呼ばれた、歴史の掘り起こしが起こって……。時代が変わって、当事者たちは徐々にいなくなっていて、私怨よりはフラットな感じと言えば良いのかな、幕末を改めて見直す風潮が出てきたそうです。だから昭和40年代に建てられた幕末に関する石碑って多いですよ。
中管理職だったから? 土方歳三が愛されるワケとは
―『燃えよ剣』は1964年刊行、つまり東京オリンピックと同じ年に出版されました。敗戦国であった日本が、経済力をつけ、国力の復活を世界に知らしめた年でもあります。我々にはこれから未来がある。たとえ「敗北者」でも美学はあるのだ、土方歳三のある意味負け続けたけれども折れなかった人生が、日本人の心を強く掴んだのでは、とお話を伺って思いました。
土方:私は歳三が『中間管理職』だったのかな、と思っていました(笑)
―中間管理職!?
土方:新選組のNo.2だったわけでしょう。上からせっつかれ、下からつきあげられて、そういう部分も共感を呼んだのかな。戊辰戦争のころには同郷だったメンバーはほとんどいなくなって、歳三は徐々に指導者となっていきますけど……会津(福島県)から自分直属にして蝦夷に連れて行った少年兵たちが何人もいまして、最後まで面倒を見て慕われていたようです。
―亡くなった様子を報告した手紙が残っているというのは、部下に愛されていた証拠とも言えますね。
土方:最後まで戦ったのも、戦死した仲間たちの『冤(えん)をすすぐ』、無辜(むこ)の死に報いたかったのではと思います。あの時代って、生き方も決められていたでしょう。土方家は土方家は中世の頃は地侍、江戸時代は帰農して農業が生業でしたが副業で薬を作っていた家です。
―「石田散薬」ですね。資料館では薬を作る道具なども展示されていました。
土方:歳三も、そのままだったら日野で一生を終えていました。そんな、今よりずっと縛られていた時代に、ブレず、思い通りに最期まで生きた。馬鹿かもしれないけれど、そこに惹かれるんだと思います。
私たちは、フィクションを通して土方歳三に遭遇することが多いです。今回、その描かれ方を子孫の方に伺うのは失礼に当たらないか、と、実は気にしながらお邪魔しました。資料館では歴史をそのまま展示するように心がけ、「来館者の皆さんの中の土方像」を大切にしてほしいと微笑んでいらした土方愛さん。柔らかな雰囲気の女性ですが、きっぱりとしたその姿勢に「誠」の一文字を感じました。
今でも、新選組隊士の子孫だったという方が訪れることもあるのだそうです。不器用さを持ちながら、最期まで仲間と生きた幕末の男・土方歳三。150年経っても、人々に慕われ続けています。
▼映画の原作
燃えよ剣 (文春e-book)