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2021.10.18

度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは——幕末維新クロニクル1846年8月

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。今回は度重なる外国船来航がついに孝明天皇の耳に入ります。時の天皇はどのような勅(みことのり)を下したのでしょうか——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。


オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月
琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——1846年4月
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊——1846年6月

サムネイル画像は五雲亭貞秀「蒸気船全図」(国立国会図書館デジタルコレクションより。分割された作品を合成)

弘化3年

 今回も水戸の御老公様は御活発でいらっしゃいます。そして、招かざる客ばかり押し掛けてくる琉球王国。急遽帰国した薩摩藩の世継ぎ島津斉彬はどうしているか、さあ、今回も目を離せませんぞ。

7月(大の月)

朔日(1846年8月22日)

田中藩主本多正寛「豊前守」・今治藩主久松定保「若狭守」・加納藩主永井尚典「肥前守」 就封ニ依リ、新谷藩主加藤泰理「大蔵少輔」 参府ニ依リ、各登営ス。

2日

幕府、高鍋藩主秋月種殷「佐渡守」ニ勅使接伴役ヲ命ズ。

 接伴は現在の「接待」という意味で、はるばる京都から下向した勅使を、おもてなしする役目が勅使接伴役です。その際、マナー講師として高家旗本が指導する習わしでした。そう、忠臣蔵の浅野内匠頭みたいな御役目です。

5日

幕府、諸侯及麾下士ニ令シ、行装ニ関スル格例ヲ上申セシム。

 諸侯とは大名のこと、麾下とは旗本のことです。行装は旅装束、格例は規則だの格式だののことです。

8日

老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」 前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ノ海防意見ニ答ヘ、且請ニ依リ、米国国書及我諭書ヲ内示ス。

 またまた登場の黄門さま、かねて老中の阿部正弘に「海防意見」を出していましたが、この前アメリカのビッドル艦隊が持ってきた「国書」と、幕府からの「諭書」とを正弘からコッソリ見せて貰いました。幕府の「諭書」は、オランダおよび清国以外とは貿易しないこと、外交に関わることは全部を長崎で扱うため、そちらに回航して欲しいというものでした。

9日

前水戸藩主徳川斉昭、幕府要路ト外国処置ヲ討議センコトヲ求ム。老中阿部正弘、之ヲ謝シ、文書ニ披陳スベキヲ答フ。

 黄門さま、外交問題に首を突っ込ませろとの御要望です。阿部正弘が「之ヲ謝シ」たのは、お断りしたという意味です。そのような用件は、書面で伝えて欲しいというのです。老中は政策の採否を独断で決めたり、密室で合議したりがアタリマエですから、脇から意見をポンポン出されたって困るわけです。

13日

前水戸藩主徳川斉昭、書ヲ老中阿部正弘ニ致シ、外国船掃攘・軍艦製造及琉球・松前ノ防備等ニ関スル意見数条ヲ陳ブ。

 書面にして欲しいといわれて4日目には、もう書面にしちゃうとは、なかなかスピードですね。ともかく「おとなしくなんかしないぞ」という御老公の意気込みはヒシヒシと感じさせられます。

幕府、松前藩主松前昌広「志摩守」ニ命ジ、択捉島漂著米国人ヲ長崎ニ護送セシム。

 さる5月11日(シリーズ第2回を参照)に択捉島に漂着した米国人7名について、幕府は長崎へ護送するよう指示しました。その間は閏5月、6月、があって7月ですから、この一片の通知を受けるまで、3ヶ月もかかっていますけれども、舟と人の脚で文書を運ぶのですから、これくらい時間がかかります。

20日

高松藩世子松平頼煕「右京大夫」 卒ス。大将軍徳川家慶、忌ニ服ス。

 亡くなった頼煕の養父にあたるのが高松藩主の松平頼胤です。その正室である文姫は、将軍家慶の妹でした。将軍から見ると、義弟の養子に迎えた人が亡くなった、ということです。

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」琉球ニ於ケル仏国提督応接ノ顛末ヲ幕府ニ報ズ。

 フランス艦隊が琉球から去ったのは閏5月24日でしたから、およそ2ヶ月ほど経っています。択捉の事例もそうですが、通信に大きなタイムラグが生じることを、読者さまも念頭に置いてくださいませ。

22日

新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」崩御ニ因リ、征夷大将軍徳川家慶、天機奉伺ノ為、高家宮原義直「摂津守」ニ上京ヲ命ズ。

 さる6月20日に孝明天皇の祖父にあたらせられる光格天皇の中宮だった新清和院さまが崩御あそばされたので、将軍は孝明天皇さまに使いを出しました。

23日

新清和院ヲ泉涌寺ニ葬ル。

 この時期、皇室の葬礼は仏式でした。

水戸藩元郡吏浜田平介「変名中村平三郎」 藩地ニ還リ、前藩主徳川斉昭ノ謹慎宥釈ニ関シ、周旋ノ実況ヲ同藩士高橋多一郎「愛諸」ニ告グ。

 活溌な活動を見るかぎり、とても謹慎しているとは思えない水戸の御隠居さまですが、藩士らは処分が解かれるように運動していたのですね。あまり用例を見ない「宥釈」というコトバは、訓読みすると「なだめ、とく」ですから、御老公を不名誉な処分から解放したかったようです。

25日

幕府、長崎会所調役頭取高島四郎太夫「茂敦・後喜平」ノ獄ヲ断ジ、四郎太夫ヲ中追放ニ処ス。其他連座スル者百余人ニ及ブ。

 かねて投獄されていた高島秋帆に、中追放の処分が加えられました。そのあらましは、前に和樂webで書いたとおりです。秋帆の投獄こそ、幕府を滅亡へ向かわせた第一歩です。

仏国軍艦サビーヌSabine、同国提督セシーユCecilleノ書ヲ齎ラシテ那覇「琉球」ニ来リ、更ニ宣教師マッシュウー・アドネMathieu Adnetヲ残留シ、翌月十一日去ル。

 フランスの軍艦サビーヌ号、長崎に行ったかと思ったら那覇に戻ってきました。セシーユ提督の書翰と宣教師1名を残し、8月11日に去って行ったとのことです。

28日

幕府、先手頭内藤忠明「安房守」ヲ以テ禁裏付ト為ス。

 先手頭は複数人が任じられる役職で、そのうちの一人は火付盗賊改方を兼務します。

晦日

征夷大将軍徳川家慶ノ第十二男松平田鶴若、卒ス。瑞岳院ト諡ス。

 家慶は生涯に27人の子を授かりましたが、 成人したのは四男の家定だけでした。家慶の血統を残したくない何者かの陰謀かと勘繰りたくなるところです。むかしは白粉(おしろい)に鉛を使っていたので、高貴な身分であったり、役者や舞妓など職業として白粉を多用する人には鉛中毒になる人が多かったのです。おそらく、この時期に大奥で用いた白粉に鉛が多く含まれて居て中毒を引き起こしていたのかと思われます。幼児が白粉を塗った肌を舐めるなどして鉛を経口接種した場合、およそ50%程度が吸収されるそうです。成人は口に入れた鉛を10%程度しか吸収しないので、鉛の影響は成人より幼児の方が遙かに大きいです。

是月

幕府、長崎・浦賀両奉行ニ諭シテ、外国軍艦ノ処置天保令ニ泥ムコト勿ラシム。

 あいついで外国の軍艦が来たので、長崎奉行や浦賀奉行に対して天保年間に発した薪水給与令に「なずむ事がないように」という、どうとでも解釈できる曖昧な通達を出したようですね。現場に難しい判断をさせて、責任を回避したい幕閣の思惑が伝わってきます。

寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」 海防意見ヲ具シテ幕府ノ諮詢ニ対フ。

 筒井政憲は有識者として幕府からの諮問を受けて「海防意見」を出しました。どこぞの御隠居様みたいに、「俺にも関わらせろ」と首を突っ込んできたわけじゃないのです。

川越藩主松平斉典「大和守」 幕府ノ諮問ニ依リ、海防意見ヲ上ル。

 川越藩の殿様も諮問を受けての答申です。

広島藩主浅野斉粛「安芸守」 江戸近海ノ非常警備ヲ命ゼラルルニ依リ、藩士ニ教令条目ヲ頒ツ。

 江戸近海の非常警備を命ぜられた広島藩は、藩士に手引き書を配りました。

是頃、霪雨月ヲ踰エテ止マズ。京都賀茂川氾濫シ、三条・五条ノ二橋断落ス。関東諸川、亦氾濫シテ府下其害ニ罹ルモノ多シ。

 霪雨(いんう)は、長雨のことです。新暦に当てはめると8月の下旬から9月中旬にかけてのことですから秋の長雨が降りすぎた感じでしょうか。京都では三条や五条の橋が落ち、関東でも川が氾濫したり、各地で被害があったとのことです。

8月(小の月)

朔日(1846年9月21日)

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」 幕府老女姉小路「橋本イヨ」頼リ、海防及製艦ノ議ヲ大将軍徳川家慶ニ進言ス。

 先月13日に老中阿部正弘へ書面で意見を差し出した御老公さま、半月たって痺れを切らしたようで、今度は大奥ルートで将軍に御意見申し上げたのだそうです。いやはや……なんとも御活発でいらっしゃいます。

3日

幕府、浦賀警備ニ与カリシ諸侯及有司ヲ賞ス。

 無事にアメリカ軍艦が去ってくれたので、江戸湾警備関係者が幕府から賞詞を受けました。

4日

浦賀奉行大久保忠豊「因幡守」・同一柳直方「一太郎・後出羽守」 近海防備ノ薄弱ナルヲ幕府ニ具状シ、且外国船ノ処置ニ関シ、指揮ヲ請フ。

 お褒めのコトバよりも、外国船が来たらどう対処するか具体的な指示が欲しい、ということなんでしょうね、現場の責任者としては。

6日

浪士熊倉伝十郎「元伊予松山藩士」・同小松典膳「十津川人」 一橋「江戸」門外に浪士本庄茂平次「元鳥居耀蔵家士」ヲ要殺シ、師父及伯父ノ讐ヲ復ス。尋デ、幕府、二人ヲ無構ト為ス。

 先月25日に中追放の処分を受けた高島秋帆に対する処分の切っ掛けをつくったのは鳥居耀蔵という人なんですが、弘化2年(この前年)に失脚しています。強引な手法で政敵を陥れた人でしたから、失脚したら反動も大きいのです。この日、耀蔵の家士(士分の家来)だった浪人が殺害されました。「師父及伯父ノ讐」ということで仇討ちとして処理され、殺した側は「お構いなし」でした。幕府としては、耀蔵の関係者が恨まれるのは「さもあろう」といったところでしょう。

8日

幕府、一橋家老柳生久包「播磨守」ヲ大目付ト為シ、清水家老曲淵景山「甲斐守」ヲ一橋家老ト為ス。

 田安、一橋、清水の御三卿は、将軍家の親族として扱われました。その家臣団は幕臣が出向したり、また普通の旗本に戻ったりしていました。また、世継ぎがないまま当主が亡くなっても御家断絶とはならず、残された遺族や家臣は養子を迎えるまで当主不在のまま御家を存続させました。

9日

幕府ノ使者宮原義直「摂津守・高家」 参内、天機ヲ候ス。

 先月22日に上京を命じられた高家旗本の宮原義直が京都御所に参内、天皇さまの御機嫌をうかがいました。発令から17日目、陸路で江戸から京都へ行くとなると、おおよそ半月かかる感じですね。

前水戸藩主徳川斉昭、製艦鋳砲ニ関スル意見ヲ宇和島藩主伊達宗城「遠江守」ニ示ス。是日、宗城、其実行ノ至難ヲ答フ。尋デ、宗城、斉昭ニ神発流砲術ノ伝授ヲ嘱ス。

 水戸の御老公さま、前に伊予宇和島の殿様に「わしの考えた最強の軍艦と大砲」の製造法を伝えたとのことですが、「そんなの実現できません」と回答がありました。牛を動力とする装甲車(安神車)なんか、見た目のインパクトはスゴイけど、実用化は難しいと思います。宇和島の伊達宗城公は、御老公みずから創始した「神発流」の砲術を伝授して欲しいそうです。まあ、社交辞令なのでしょうけどね。

12日

老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」 書ヲ前水戸藩主徳川斉昭ニ復シ、其建言セシ海防意見ハ大将軍徳川家慶之ヲ嘉納セシコトヲ告グ。

 老中阿部正弘は、水戸の御老公様の意見書に「あなたの海防意見は、ちゃんと将軍が見ましたからね」と、返事を出しました。

14日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」 琉球外警ニ依リ、先期帰藩及世子斉彬「修理大夫」ノ参府延期ヲ請フ。幕府、之ヲ允ス。

 琉球にフランス艦隊が居座ったのに対処すべく、さる6月朔日に鹿児島藩=薩摩藩は世子(世継ぎ)の島津斉彬を急遽帰国させていました。本来なら諸大名の世子は人質として江戸にいなければなりません。琉球からフランス艦隊は去ったけれども、まだ警戒を必要とするため参府=江戸へ戻るのを延期させたいとのことを、幕府は了承しました。

15日

佐野藩主堀田正衡「摂津守」・安中藩主板倉勝明「伊予守」・烏山藩主大久保忠保「佐渡守」・佐貫藩主阿部正身「駿河守」・一宮藩主加納久徴「備中守」・荻野山中藩主大久保教義「長門守」 参府ニ依リ、古河藩主土井利位「大炊頭」・土浦藩主土屋寅直「采女正」・沼田藩主土岐頼寧「伊予守」・久留里藩主黒田直静「豊前守」・壬生藩主鳥居忠挙「丹波守」・飯野藩主保科正丕「能登守」・小見川藩主内田正道「豊後守」 就封ニ依リ、各登営ス。

20日

幕府、目付松平近韶「式部少輔」ニ命ジテ浦賀近海ノ要地ヲ巡見セシム。

 幕府の目付は、現在だと中央省庁の課長級くらいじゃないかと思います。政策を立案して、老中に採否を問うような実務レベルのエリートたちです。浦賀近海の警備は浦賀奉行所に任せきりではイケナイということでしょうね。

23日

英国水師提督、軍艦三艘ヲ率ヰテ那覇「琉球」ニ来リ、国王ニ面接ヲ要ム。布政官、之ト応接シ、残留英国人ノ退去ヲ迫ル。提督、肯カズ。二十八日去ル。

 琉球王国は千客万来ですね。招かざる客ばかりですが。今度は英国から軍艦3艘だそうで国王に面会を求めてきました。「要ム」は(もとむ)読みます。琉球王国は中山府布政官に応対させ、残留英国人=宣教師ベッテルハイムを退去させるよう申し入れましたが、提督は「肯カズ=うなずかず」、つまり拒絶したとのことです。なお、28日に艦隊は琉球を去りました。

28日

鹿児島藩世子島津斉彬、琉球ニ於ケル英・仏人ノ動静及領内海防ノ厳修ヲ幕府ニ稟ス。

 帰国中の島津斉彬は、英仏両国が琉球に残していった人員の動静について、また、領内の海防を厳しくすることを幕府に報告しました。「厳修」は(ごんしゅ)と読み、字のとおり厳しく修めること、「稟ス」は(もうす)と読みます。

29日

琉球・浦賀ノ外警、宸聴ニ達ス。幕府ニ勅シテ禦侮ニ備ヘシム。

 琉球や浦賀に外国の軍艦が来航したことを、「宸聴ニ達ス」=天皇のお耳に入りました。孝明天皇は勅を下して「禦侮」=相手にあなどられないように心がけることを幕府に命じました。

是月

幕府、浦賀奉行配下ノ砲術優秀ナル者ヲ賞シ、之ヲ奨励ス。

 幕府が砲術を奨励するなら、なんで高島秋帆を投獄しちゃったんだってハナシですよね。

シリーズ「幕末維新クロニクル」

オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月
琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——1846年4月
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊——1846年6月

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。