Culture
2019.09.17

小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ!

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日本史上、天下分け目の決戦といえば、多くの人が「関ヶ原合戦」を思い浮かべるだろう。慶長5年(1600)9月15日、美濃関ヶ原(現、岐阜県関ケ原町)にて、徳川家康(とくがわいえやす)を主将とする東軍と、石田三成(いしだみつなり)を中心とする西軍が激突。東西両軍およそ15万が一進一退の戦いを繰り広げる中、合戦半ばに西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)が東軍に寝返り、西軍は総崩れになったとされてきた。ところが近年、小早川の合戦最中の裏切りを含め、従来語られてきた関ヶ原合戦のさまざまなエピソードに多くの研究者が疑問を投げかけ、その全体像がいま大きく変わろうとしている。最新研究を踏まえながら、関ヶ原合戦のイメージがどう変わりつつあるのかを紹介してみよう。

イラスト:森 計哉

何度目かの狼煙(のろし)が上がった。「今こそ東軍に攻めかかれ」という石田三成からの合図だ。松尾山の山頂近くの陣所でそれを眺めながら、19歳の小早川秀秋はいまだ逡巡していた。眼下の戦場では、東西両軍が激闘を展開している。今のところ西軍が善戦し、東軍を押し気味だ。が、小早川軍1万5,000が山を駆け下り、いずれかに味方すれば、そちらが勝利することは疑いない。
(治部〈三成〉の言う関白就任を取るか、内府〈家康〉に恩を売るか)
秀秋がまたも迷い始めた時、突如、轟音が響く。山麓に現われた鉄砲隊が、小早川陣に向けて一斉射撃したのだ。「なにごとか」。秀秋が戸惑いながら問うと、傍らの重臣・稲葉正成(いなばまさなり)が応える。「あれは徳川の鉄砲隊。おおかた内府様が、内応の約束を果たさぬ我らにお怒りなのでしょう」。
「内府殿が怒っておられる……」。にわかに顔色を失い、ふるえ始めた秀秋は、稲葉に命じる。「これより全軍で山を下り、敵に攻めかけよ」「殿、その敵とはいずれのことで?」「知れたこと。敵じゃ」「されば我ら内府様にお味方いたし、治部めらを討ち果たしまする」。

小説やドラマなどでおなじみの、小早川秀秋が合戦半ばに寝返る場面である。合戦が始まってもまだどちらに味方するか決めかねていた秀秋に対し、しびれを切らした徳川家康は、小早川陣に向けて「内応する気はあるのか」と迫る「問い鉄砲」を撃たせ、結果、秀秋は寝返りを決意したとされてきた。しかしそれらが記されているのは、関ヶ原合戦からはるか後年に編纂(へんさん)された二次史料であり、研究者が重視する同時代史料(一次史料)に、そうした記録はない。これに限らず、関ヶ原合戦で語られてきた著名なエピソードの多くは、二次史料に記されたもので、そのまま鵜呑みにはできないという。では、一次史料をもとに関ヶ原合戦に迫ると、従来のイメージとはどう異なってくるのか。2019年9月に発刊された渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』などを参考にしつつ、紹介してみたい。

秀吉の死から東西決戦まで、従来、関ヶ原への流れはどう語られていたか

まず関ヶ原合戦への流れがどのようなものか、これまで語られてきた通説をもとに簡単に紹介しておこう。大筋において通説も新説もそう変わらないので、この辺の時代のことはあまりよく知らないという方も安心してお読み頂ければ幸いである。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。