「リクナビNEXT」の「退職理由の本音ランキングBEST10」によれば、第1位が「上司・経営者の仕事の仕方が気に入らなかった」、第3位が「同僚・先輩・後輩とうまくいかなかった」で、人間関係が上位を占めている。いつの世も職場での人間関係は難しい。だからといって、どこの組織にも属さず十分な収入を得るのは容易ではない。転職の繰り返しは就職に不利という考え方もある。
武士の世界も同様だったのではないだろうか。
ところがその範疇に入らない型破りな戦国武将がいた。可児才蔵(かに さいぞう)こと可児吉長。一国一城の主でもなければどこそこの重臣でもない。生涯に仕えた主君は6人とも7人ともいわれ、最終的に福島正則に召し抱えられた。槍の名手でめっぽう腕っぷしが強く、“戦国最強”とうたう人もあるようだ。戦場で首を取ると目印に笹をくわえさせたことから、“笹の才蔵”と異名をとるようになった。相手が誰であろうと媚びへつらうことなく、心のままに生きた。そんな彼の生き方をリスペクトする人が近年増えている。
幼名は可児太郎 朝倉義景の落とし胤?!
岐阜県御嵩町(みたけちょう)はかつての中山道御嶽宿(みたけじゅく)だ。その中心部に大寺山願興寺(おおてらさん がんこうじ)と呼ばれる天台宗の古刹がある。別名蟹薬師とも呼ばれ、伝教大師最澄が開祖と伝えられる。願興寺に伝わる「大寺記(おおてらき)」によれば、越前の朝倉義景が織田信長に滅ぼされた際、一人の側室が追っ手を逃れ、放浪の末に願興寺にたどり着いた。彼女は身ごもっており、月満ちて一人の男子を生んだ。朝倉を名乗るのははばかられるため、土地の名をとって可児太郎と名付けた。側室は髪を下ろして尼となり、宝渕宗珠(ほうえんそうじゅ)と名乗って願興寺の敷地の片隅に小さな庵を結び息子と暮らした。太郎は7歳のころに母のもとを離れて越前へ行き、可児才蔵を名乗るようになったとされる。
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ところが才蔵の没年である慶長18(1613)年から逆算すると、朝倉のご落胤説には20歳ほどの年齢的な開きが生じるという。「石川県史 第2編」(石川県 1939年刊)には「可兒才蔵」の項があり、次のように書かれている。
利家の従士に可兒才蔵といふ者ありて、勇武を以て顯る。才蔵はもと美濃國可兒郡の産。年十二にして利家に尾張荒子に仕へ、その後常に馬廻組に班す。
利家とは前田利家のことだ。才蔵は可児郡で生まれ、12歳で利家に仕え、馬廻組に配属されたことになっている。前田利家は尾張荒子城(現・愛知県名古屋市中川区荒子にあった前田家の居城)に生まれた。馬廻組とは戦場で大将の身辺警護をする武芸に秀でた精鋭たちだ。才蔵が利家の家来になった経緯は不明だが、少年時代からその武勇は知られていたということなのだろうか。とにかく才蔵は出生からして謎多き武将なのだ。
笹の才蔵 “くそくらえ”武勇伝
才蔵の主君として前田利家のほかに斎藤龍興、森蘭丸(成利)の兄である森長可(もり ながよし)、明智光秀、柴田勝家、織田信孝、豊臣秀次、福島正則らの名前が挙がる。そうそうたる面子だ。しかし、中には事実かどうか疑わしいものもあり、特定は難しい。剛勇無双の才蔵が家来の中にいたとするのは名誉なことなので、そのようにうたっているところもあるのかもしれない。とにかく最後は福島正則について広島に行き、そこで生涯を終えた。福島正則とのことは後で述べるとして、才蔵のエピソードをいくつか紹介しよう。
1、取った首に笹の葉を含ませたことから、“笹の才蔵”に
才蔵は最初、森長一(森長可)に仕えた。長一が諏訪山の城や大森上恵らを攻め、梶田に駐屯して首実検をしたところ、460余の首級を得た。才蔵は三つの首を引っ提げて現れ「16の首級を取りました」と述べた。長一が「三つしかないではないか」と言うと、才蔵は「取った首を全部持っては来れないので打ち捨ててきました」という。そこで長一が「では残りの13の首についておまえが取ったという証拠はあるのか」と尋ねると、才蔵は「私が取った首にはすべて笹の葉を含ませてあります」と答えた。長一が部下に命じて確認させたところ、口に笹の葉が入っている首が13あった。以来、可児才蔵は“笹の才蔵”として知られるようになった。(「名将言行録」)
2、正しいと思えば主君であっても忠告 わからずやはくそくらえ
才蔵が豊臣秀次(この時代は三好信吉と言ったが、まぎらわしいので豊臣秀次で統一する)に近習(きんじゅう)として仕えていた時のこと。「小牧・長久手の戦い」で秀次は味方が敗れたと聞き、急に本陣を進めた。すると前線で戦っていた才蔵が馬に乗って引き返して来た。驚いた秀次は才蔵に「何をしておる。早く前線に戻って戦って来い」といった。しかし、才蔵は「こいつらは槍の使い手です。どうか殿は早く退却なさってください」と秀次に忠告した。ところが秀次は才蔵のいうことを一向に聞き入れる様子はない。頭に来た才蔵は秀次に向かって「くそくらえ!」と吐き捨てて退いてしまった。果たして才蔵が進言したとおり、秀次は大敗を喫し、共に戦っていた池田恒興(つねおき)らは討ち死にした。(「名将言行録」)
3、戦場での馬は雨降りの傘と同じ 才蔵、主君の頼みを断わる
「小牧・長久手の戦い」で敗れた秀次が徒歩で逃げていたところへ、才蔵が馬に乗って通りかかった。敗軍の将が徒歩で逃げだすというのは命の危険にさらされるということである。「おい、才蔵。馬をよこせ」と秀次は才蔵に言った。しかし、才蔵は「雨降りの傘也(雨降りの日には傘が必要なように、今の拙者には馬が必要でござる。たとえ殿であろうとさしあげることはできません)」と言い放ち、さっさと行ってしまった。この一件は羽柴秀吉の知るところとなり、叱責を受けた才蔵は秀次の下を去り、世に埋もれてしまった。(「小牧陣始末記」)
1は才蔵が“笹の才蔵”と呼ばれるようになった理由、2と3は豊臣秀次の家中にいた時のエピソードだ。史実とはいえないまでも、才蔵の人となりを伝える話として興味深い。
秀次は秀吉の甥である。小牧・長久手の戦いでは別動隊を指揮したが徳川軍の奇襲にあい、壊滅。この時、親族にあたる木下一族は秀次を逃がすために自らの命を投げ出した者も多く、秀次は木下利匡(としさだ)の馬に乗って命からがら死地を脱した。木下利匡は戦死している。もし才蔵が馬を秀次に差し出していたとすれば、おそらく命はなかったのではないか。主君の命に従わなかった不忠者とお怒りになる方もあるかもしれないが、なにせ戦国の世である。忠義や孝行といった為政者にとって都合の良い儒教思想が世の中を支配するのは江戸時代。長く戦場で戦ってきた才蔵は人の命のもろさ、はかなさを誰より知っていたことだろう。そして、命の重みや大切さも。だからこそ、生きるか死ぬかの瀬戸際に「馬をよこせ」と言う秀次に我慢ならなかったのではないだろうか。
「小牧陣始末記」には秀次の下を去った才蔵は世に埋もれてしまったとあるが、むしろ才蔵の方で「こいつはあか~ん」と見切りをつけて、さっさとお暇(いとま)したような気がする。後に秀次は子どものなかった秀吉の養子となったが、秀頼が生まれたとたん疎まれるようになり、謀反の嫌疑をかけられて切腹。一族や関係者も処刑された。
最後の奉公先は福島正則 給料は部下と半分こ
「名将言行録」には、主の元を離れた才蔵の噂を聞いた福島正則が700石で召し抱えたとある。福島家での面接の際、正則は才蔵に「何か得意なことはあるか」と尋ねた。すると才蔵は「長年修練した結果、髪を結ぶことが自分で上手にできるようになりました」と答えた。これを聞いた家臣たちは「才蔵はうつけかひねくれ者ではないか」とささやいたが、正則は「いやいや、後ろに目がなければ髪を結ぶことは難しかろう。それがうまくできるということは目の前のことならば何でも簡単にできるということであろう」と言い、才蔵を採用した。その後の才蔵の働きぶりは武功比類なく、正則の目利きは正しかったということだ。
才蔵には竹内久右衛門という信頼できる有能な部下がいた。これまでも才蔵は自分の禄の半分を久右衛門に与えてきたが、福島正則に召し抱えられた時も700石の半分350石を久右衛門に与えたという。
福島正則は秀吉の従弟にあたり、少年時代は秀吉の小姓を務めた。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いで七本槍の一人として名をあげ、その後も秀吉チルドレンとして数々の戦いに参加し、全国統一や朝鮮出兵にも貢献。しかし、五奉行の一人である石田三成との仲が険悪になり、徳川家康に接近。慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは東軍として戦った。戦後は49万8千石の大大名として安芸・備後(現在の広島県)の2国を与えられた。正則は大酒のみで酒癖が悪かったとか、広島では善政を敷いたとか人物評価はさまざまだが、才蔵とはウマが合ったようだ。
徳川家康も感嘆した関ケ原合戦での才蔵
才蔵は福島家の家臣として関ケ原の戦いに従軍した。関ケ原町歴史民俗資料館が所蔵する「関ケ原合戦図屏風」には兜を被り、長刀を持って油断なく身構える才蔵の姿が描かれている。緊迫した戦場にあって、才蔵の周りだけどこかほっこり感が漂っているのは、旗指物の代わりに笹の葉なんぞを背負っているからだろうか。しかし、この戦いで才蔵の働きは家康を驚嘆させるのである。
合戦図屏風を見ると、福島隊は古戦場のほぼ中央に布陣している。彼らは家康が到着するまで勝手な行動を禁じられていたが、才蔵は陣に近づいた敵を討ち取ってしまう。怒った正則は才蔵を謹慎処分にする。ところがおとなしく言うことを聞く才蔵ではない。翌日から笹を背負って密かに戦いに出かけ、首をとった敵将の耳や鼻、口などに笹を入れるとその場に捨て置き、こっそりと陣に戻っていた。笹は酒の異名でもあり、末期の酒と掛けたのではないかという説もある。
戦いが済んだのち、首実検が行われた。才蔵は正則に謹慎中も実は戦いに行って首を取ったことを話すと正則は怒った。しかし、首をすべて確認したところ、17人の笹の葉をくわえた首が見つかった(20人という説あり)。これを聞いた家康は驚嘆し、才蔵に「笹の才蔵」という通り名を与えた。これによって才蔵の名は家康の記憶に鮮やかに焼き付けられたようだ。家康は正則に会うたびに、「才蔵はどうしておるか」と尋ねたという。
強い信頼関係で結ばれた正則と才蔵
才蔵が使用したとされる槍は十文字槍と呼ばれ、先が十文字になった槍だった。誰に習ったというのでもない、実戦で鍛えた技だった。そこである時、きちんと槍術を学びたいと思い、正則の許しを得て十文字槍を使った槍術を創始した奈良興福寺の宝蔵院で修行した。ところが修行後の戦いではかえって恐怖心が強くなってしまった。そこで才蔵は宝蔵院を再訪し、このことを話すと「それはまだ半分しか学べていないからだ」と言われた。才蔵はさらに修行を重ね、ついに宝蔵院流槍術の極意を会得して正則のもとに帰った。以後、才蔵には敵が突きだす槍道がはっきりと見えるようになったという。
才蔵は広島城の門番を勤めていたという。しかし、老後は休憩中に寝転んで仮眠をとっていた。ある時、正則に仕えている小坊主が来て、才蔵に「殿からの贈り物です」と言ってウズラを手渡そうとした。才蔵は慌てて起き上がり、袴をはいてウズラを受け取り、正則のいる本丸に向かってお礼を述べた。才蔵はウズラを持ってきた小坊主に対し、「寝転んでいる自分に対して殿からの贈り物があると伝えるのは、殿に対してとても無礼である」と叱責した。これを伝え聞いた正則は「家来たち全員が才蔵のような心を持ってくれたなら、どんなことも私の思い通りに動くだろう」と言ったという。
死後も愛され、頼りにされる才蔵 今では受験生の守り神
晩年才蔵は才入と改名し、仏門に帰依すると、広島城の東にあった矢賀山に所有していた山荘「竹葉軒」の跡に「才蔵寺」を建てた。日頃軍神である愛宕権現(あたごごんげん)を信仰し、自分はその縁日に死ぬことを予言していたといい、縁日にあたる6月24日(墓石には11月24日とある)に身を清め、甲冑を身に着けて長刀を持ち、床几(しょうぎ)に腰かけたまま息絶えたということである。慶長18(1613)年のことであった。墓標は通称「才蔵峠」の脇に建てられ(現在墓は才蔵寺にある)、心ある武士は馬を降りて水を供え、花を手向けたとされる。
ところで才蔵のエピソードは死んでも終わらない。
彼の菩提寺である才蔵寺には、「ミソ地蔵」という地元では有名な受験生の合格祈願のお地蔵さまがある。才蔵の主であった福島正則は広島城の石垣を無断で改修したとして武家諸法度違反に問われ、安芸・備後の所領50万石は没収。信濃国高井郡と越後国魚沼郡合わせて4万5千石に移封される。その後、浅野長政の次男である浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城主となるが、才蔵はこれを快く思わず、広島城近くの小さな城に立てこもって反抗。攻められると好物の味噌汁を上から浴びせかけて戦った。兵糧攻めにされると周辺の人々に「城山のお地蔵様に笹の葉を供え、そこに味噌と米を乗せると願いが叶う」というまことしやかなうわさを流したところ、次々に米と味噌が集まり戦い続けることができたという。味噌は脳みそに通じるため、このような信仰が生まれたようだ。
福島正則の減転封は才蔵の死後なので、本エピソードは史実ではない。しかし、そんな話が伝えられるほど反骨精神旺盛なこの男は広島の人々にも愛されていたようだ。
才蔵の故郷とされる岐阜県可児郡(かにぐん)御嵩町(みたけちょう)では、令和3(2021)年3月21日(日)まで、「御嶽宿わいわい館」の1Fで「可児才蔵武功伝承館」を開館。その人間的魅力や数々のエピソードを伝えている。
〔取材・写真提供〕
御嵩町
御嵩町まちづくり課
中山道みたけ館 郷土館
〔参考〕
・リクナビNEXT:転職理由と退職理由の本音ランキングBEST10
https://next.rikunabi.com/tenshokuknowhow/archives/4982/
・「戦国最強の武将 可児才蔵」御嵩町発行
・「石川県史 第2編」石川県 1939年刊
・「名将言行録」
・「小牧陣始末記」