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2020.05.24

信長を敗北寸前にまで追い込んだ男!朝倉義景とは一体どんな人物だったのか?

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日本人の誰もが知っている戦国大名といえば、やはり織田信長の名前が挙がるでしょう。天下統一を目前にしながら、家臣・明智光秀によって討たれるまでの生涯はあまりにも有名です。

そんな信長ですが。実は光秀に討たれる以前から何度も九死に一生を得てきました。有名なところでは、今川義元が大軍を率いて尾張を目指すも、信長の抵抗により逆転を許してしまった桶狭間の戦いが挙げられます。織田家は義元の手によって窮地に追い込まれましたが、この勝利をキッカケに躍進を開始。美濃をその手中に収めると、将軍・足利義昭を奉じ都で権力を手にしました。

こうして戦国でも随一の存在に成長した信長と対峙したのが、本記事の主人公である朝倉義景(あさくらよしかげ)。彼はいわゆる「信長包囲網」の中で活躍し、信長を敗北寸前にまで追い込みました。が、最終的には彼らの底力に屈し、戦国大名・朝倉氏丸ごと滅亡の憂き目に遭うのでした……。

しかし、思えば一体なぜ朝倉義景は信長をこれほどまでに追い詰めることができたのでしょう。また、逆にそこまで追い込んでおきながら、最終的に滅ぼされてしまったのはなぜなのでしょうか。この2点に着目しつつ、朝倉義景の生涯を考えてみたいと思います。

朝倉氏の最盛期に若くして家督を継ぐ

義景は、天文2(1533)年に朝倉家当主・朝倉孝景(あさくらたかかげ)と隣国・若狭の実力者であった若狭武田氏出身の母との間に生まれました。孝景の時代に朝倉氏は安定期を迎えており、城下町・一乗谷を中心としたその繁栄ぶりは国内外に伝わるほど。

義景は孝景の後を継ぐことが決まっていたため、恵まれた環境に置かれていたハズでした。私が義景なら「う~ん、人生も安泰ってところかな」と思ってしまいたくなります。

しかし、天文17(1548)年に父が急死してしまったため、弱冠16歳の義景は朝倉氏の当主として世に出ることに。とはいえまだ戦国乱世を渡り歩いていくには若すぎたため、彼の祖父や父の代から朝倉氏を支え続けた稀代の老将・朝倉宗滴(あさくらそうてき)を中心とした家臣らに支えられていたと考えるべきでしょう。

義景は、さっそく弘治元(1555)年に朝倉氏にとって長年の懸念事項であった加賀の一向一揆を征伐するべく、宗滴を総大将とした大規模な軍勢を送り込みます。軍事的なセンスはピカイチだった宗滴の指揮下で朝倉軍は活気づきましたが、ここで思わぬ事態が発生してしまいます。なんと、すでに79歳という老齢に差し掛かっていた宗滴が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。結局、一向一揆征伐は成し遂げられないまま彼らは越前へと帰国しました。

宗滴の死は、若かりし義景にとって試練の時が訪れたことを意味しました。軍事的にも政治的にもカリスマ性を有していた宗滴が亡くなったことで、家中の統率が乱れるおそれがあったからです。

ちなみに、大河ドラマ『麒麟がくる』で光秀が越前を訪れたのは弘治2(1556)年なので、一見平穏に見えた越前は静かに危機的な状況を迎えようとしていた時期にあたります。

上洛をためらい、信長の台頭を許す

宗滴の死後も、朝倉氏がすぐに存亡の危機に立たされることはありませんでした。相変わらず一乗谷は栄えていましたし、文化の中心地であったことも変わりません。永禄7(1564)年にはふたたび加賀へ出兵した隙を突いて越前の国人・堀江氏が反乱を企てましたが、ここでも彼らを退けて平和を保っています。

加えて、義景には願ってもない好機が到来します。彼の母が生まれた若狭武田氏が滅亡の憂き目に遭ってしまい、若狭の地に身を寄せていた次期将軍候補・足利義昭を越前で保護することになったのです。京都文化に価値を見出していた義景にとって、将軍が越前に滞在しているというのは鼻高々だったことでしょう。協力者ともいえる若狭武田氏の滅亡は痛かったはずですが、それを帳消しにするほどの価値があったのではと思います。実際、将軍の威光によって加賀一向一揆との和睦にも成功しており、戦略的にも大きな意味がありました。

しかしながら、義昭は京に返り咲くべく義景に対し上洛の護衛をするようたびたび要求しましたが、彼は動こうとしませんでした。理由としてはすでに京都では三好氏の勢力が根を張っており、朝倉氏とその協力者たちだけでは彼らに勝てないという判断になったからだと考えられています。加えて、背後には勢力を急拡大させ越前に迫る織田信長の存在があり、そのことも判断に影響を及ぼしたでしょう。

織田信長像

それでも、上洛は義昭にとっての悲願でした。いつまで経っても動こうとしない義景の姿にいらだちを募らせるようになった彼は、やがて美濃を攻め落として上洛を目論む信長の姿に心惹かれるようになります。こうして、永禄11(1568)年に義昭は一乗谷を離れ、信長のもとへと下ってしまいました。義景も再三にわたって「考え直してください!」と慰留しましたが、行動の伴わない言葉で彼をつなぎとめることはできませんでした。

また、義昭を手放してしまった時期の義景は、プライベートでも不幸に見舞われていました。世にも稀な美女とうたわれた正室・近衛殿には子供が生まれず、彼はやむなく側室として小宰相(こさいしょう)の局という人物を妻とします。彼女と義景の間には無事子供が生まれましたが、それをねたんだ近衛殿が嫌がらせを行ったという風評が流れます。義景はこれを知ると近衛殿を京都に送り返してしまったものの、そうまでして愛した小宰相も永禄4(1561)年にこの世を去っていました。加えて、永禄11(1568)年には彼女との間に生まれた嫡男・阿君(くまぎみ)を7歳で失っており、義景の悲しみには大変なものがあったと言われています。

信長を追い込むも、優柔不断さが災いした?

信長が義昭を奉じて京に入ったことで、義景の前途は多難なものになるかと思われました。しかし、ここで彼には思わぬ追い風が吹くことになります。都では義昭と信長が権力の独占をめぐって対立し、義昭は義景をはじめとする各地の大名に「信長を討ってはくれまいか」と手紙を出すようになりました。義景が義昭に歩み寄る姿勢を見せるようになると、信長が「私のように朝倉も上洛しろ」と義景に協力を呼びかけます。が、信長の配下に組み込まれることを警戒した朝倉氏は要求を拒否。信長は「お? そんなことしていいと思ってるのか?」と言わんばかりに、命令に従わなかった朝倉氏を攻めました。

3万ともいわれる大軍の侵攻によって窮地に追い込まれた義景ですが、ここで信長と同盟を結んでいたハズの浅井長政が突如として彼を裏切り、信長は人生最大のピンチを迎えました。

撤退戦の舞台となった敦賀の町並み

脱兎のごとく戦場から離脱していく信長の姿に朝倉方も勢いを盛り返しましたが、結果的には彼を逃がしてしまいました。即座に戦場を離脱した信長の判断力や羽柴秀吉・明智光秀ら殿軍の奮戦などの要因もありますが、ここで勝負を決められなかったことがその後の運命を左右してしまいます。

一方、この時期に義景は新たな妻として少将という女性を溺愛していました。妻や息子を失った悲しみから立ち直るほどに愛したこと自体は問題なかったのですが「あまりに彼女を気に入るあまり、政治すらも彼女やその取り巻きの言いなりになってしまっていたのだ」という記述が歴史書の中には登場します。

話を勢力争いに戻すと、からくも逃げ延びた信長は裏切りの報復として浅井氏を攻めました。当然ながら浅井氏は朝倉氏の協力を見込みますが、彼らの出陣が大きく遅れたことで作戦には狂いが生じていました。そのまま朝倉・浅井連合軍と織田軍はかの有名な姉川の戦いを開始しますが、義景は優柔不断さがゆえに行動が遅れがちで、結局重い腰を上げて上洛を開始した武田信玄の到着を待たずに越前へと引き上げてしまいました。

姉川

この行動について、信玄は「あなた方が帰国したと聞いて大変驚いています。このチャンスを無駄にするとは、手間をかけた割に何の成果も得られませんでしたね」と痛烈に批判しています。

信長包囲網が崩壊し、義景は朝倉家ごと滅び去った

良く言えば慎重に、悪く言えば優柔不断に行動した義景ですが、やがて彼らの陣営は危機的状況に追い込まれていきます。まず、元亀4(1573)年に武田信玄が亡くなると、彼へのガードを解いた信長がすぐさま京都に圧力をかけ、義昭を追放することに成功しました。こうなってしまえば朝倉・浅井陣営の滅亡は時間の問題で、信長は先んじて浅井氏を攻撃しました。

当然、救援のため義景も兵を出すのですが、義景の従弟にあたる重臣・朝倉景鏡(かげあきら)は「あ、スイヤセン。兵が疲れてるんで出陣は無理っス」と命令を拒否。そこで、やむなく次に溝江長逸(みぞえながやす)という人物に依頼を出しましたが、彼にも拒否されてしまいます。完全に家臣たちから見放されてしまった義景はやむを得ず自身で国中の兵を率いて出陣しましたが、浅井・朝倉方の不利を悟った諸将が次々と信長のもとへ寝返る有様でした。

義景は次々と城を落とされて退却を試みましたが、織田軍の迅速な追撃によって刀根坂(とねざか)という地で彼らに追いつかれ、見るも無残な大敗を喫してしまいました。「もはやこれまで」という空気が陣中にも流れましたが、義景は家臣の勧めで逃亡し、再起のチャンスを伺おうとします。しかしながら、彼が頼みにしていた朝倉景鏡や有力寺社の平泉寺衆にも裏切られ、ついに自害。天正元(1573)年に41歳の生涯を終えました。

結局、なぜ朝倉氏は滅んだのか

ここまで義景の生涯を振り返ってきましたが、普通に考えれば「義景が無能だったから朝倉氏は滅びた」と言いたくなります。実際、何度も信長を討つチャンスはありながら、それをただの一度も活かせなかった姿勢は「優柔不断」の一言に尽きると、研究書などでも言及されています。勝負が時の運に左右されることは間違いないですが、義景に軍事的なセンスがあったとは思えません。また、古くから義景が少将を溺愛しすぎて政務を顧みず、家臣たちの反発を招いたという指摘はなされてきました。

もちろん、上のような点も原因として無視することはできないのですが、個人的には単に義景や少将という「個」に滅亡の要因を求めることは、少し単純すぎるように思えます。実際、堀江氏や景鏡の動きを見れば分かるように、朝倉家臣は義景に必ずしも忠誠を誓っていたわけではありません。加えて、義景の息子も病死ではなく毒殺による死であったと考えられており、朝倉氏はお家騒動の渦中にあったと思われます。そう考えれば、義景の代になってたまたま朝倉家中に渦巻いていた不満が表面化しただけで、根源的な問題は彼が生まれる以前から根を張っていたともいえるのではないでしょうか。

事実、朝倉氏の支配体制はかなり分権的なもので、信長のように中央集権的な支配体制を確立できていなかったとも言われます。それを歴代当主や朝倉宗滴といった「カリスマ」が無理矢理まとめていたとも表現でき、当時としては少し古い権力構造が足を引っ張ったとも考えられます。

私は、義景という人物の評価を見ていると、一昔前の武田勝頼に下されていた評価を思い出します。彼は武田信玄の跡を継いですぐに家を滅ぼしてしまったことで「無能」「戦犯」と叩かれ続けてきましたが、近年になって信玄の時代から続いていた数多くの問題を押し付けられる形になっていたことが判明し、その再評価が進められています。

もちろん、義景とは置かれている状況も当主として手腕を振るった期間も異なるので、同列に再評価するべきとは思えません。ただ、「家の滅亡を当主一人の責任にされ、人生のすべてを否定されている」という点では共通する部分があると感じるので、彼についてもしっかりと再検証をする価値はあるのかもしれません。実際、義景は連歌・和歌・絵画など芸術の才能に長ける文化人としての側面が確認できるほか、兵学をよく学び鉄砲を用いた戦術を取り入れ、海外との交易にも積極的に取り組む姿勢も見られます。

今回の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、単なるバカ殿ではなく、乱世を生きた戦国の男としての見どころを作ってもらいたいものです。

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【参考文献】
『朝日日本歴史人物事典』
『日本大百科全書(ニッポニカ)』
水藤真『朝倉義景』吉川弘文館、1981年
松原信之『朝倉氏と戦国村一乗谷』吉川弘文館、2017年

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?