江戸時代に性サービスを提供していた場所としては、幕府公認の遊郭・吉原が有名です。もちろん、現代と同じように、吉原以外にもさまざまな場所に店が建ち並んでいました。
遊女にはランクがありましたが、中でも最下級とされたのが「夜鷹(よたか)」と呼ばれる、路上に出没する女性たちです。彼女たちの中には敷物一枚で営業を行っていた人もいたといいます。そんな夜鷹の実態に迫ります。
そば一杯の値段で身を任せる「夜鷹」
夜鷹とは、本所・吉田町や、四谷・鮫ヶ橋あたりに出没した下級遊女のことです。名前の由来は、夜に出没するからとか、夜鷹という夜行性の鳥になぞらえて、など諸説あります。同じような営業形態の遊女を、京都では辻君(つじぎみ)、大坂では惣嫁(そうか)・白湯文字(しろゆもじ)などとも言いました。
見た目や年齢で上下するものの、料金は非常に安く、なんとそば一杯ほどだったとか。お客は低賃金で働く労働者や、武家や商家の下級奉公人です。
一方、幕府公認の遊郭・吉原の揚げ代(性行為を行う代金)は、数万円~数十万円、花魁などの上級遊女と遊べば100万円を超えることもありました。そんな一見華やかに見える吉原の遊女でも、その境遇は過酷だったため、夜鷹はどれほど厳しい生活を送っていたかと想像されます。
夜鷹はどんな姿で出没する?
夜鷹は浮世絵や絵画のモチーフとしても描かれており、そこから当時の様子を知ることができます。
年齢は15~40歳程度、中には60歳を超える女性もいたのだそう。綿の着物を着用し、年齢をごまかすために白髪を墨で黒く染めることもありました。頭巾を被って“ござ”を持ち歩いているのも特徴です。
梅毒に侵されている者も多く、鼻や耳がそげ落ちている夜鷹もいたと言われます。「はな散る里は吉田鮫ヶ橋」といったような句もみられ、ここで言う「はな」とは、梅毒を指します。
どうやって行為をするの?
夜鷹の多くは、夜になると小屋を組み草筵(くさむしろ)をかけ、戸口で客引きをしていました。大坂ではござを敷いて、傘で隠しながらすることもあったのだとか。
また、川岸を漕ぎまわり、船乗りなどを相手に船上で性行為をすることもあったそうです。
「夜鷹そば」の語源にも
「夜鷹そば」とは、夜になると江戸の町を流していた、屋台のそば屋のこと。夜鷹が好んで食べていたからとか、夜鷹とそばの値段が一緒だったからだとか、名前の由来はハッキリしません。江戸の庶民にも親しまれていた「夜鷹そば」は、寒い季節の風物詩として、歌舞伎や落語にもよく登場します。
参考
石井良助『続江戸時代漫筆』、同『吉原』(『中公新書』一四一)
世界大百科事典 小学館
日本大百科全書 平凡社
『江戸の花 : 温故知新』尚古堂主人 編 博文舘
『江戸時代の男女関係』田中香涯 著 有宏社
『守貞謾稿』喜田川季荘 編