何がどうなっているのやら。
そう思わずにはいられない、そんな展開である。
コトの発端は、ある場所を某旅行雑誌で見つけた、そんな偶然からだ。
福井県にある「吉崎道場(吉崎御坊、よしざきごぼう)」の跡地。一向一揆で有名なこの地に、「肉つき面」があるという。一目で興味を惹かれたというワケだ。
この「肉つき面」。文字通り、面(マスク)が顔から外れずに、顔の肉がついたもの。想像するだけでおどろおどろしいイメージだが。よくよく考えると、面があるというコトは見事、面外しに成功する以外に道はない。だったら、じつはそこまでグロテスクなものではないのかも。
そんなとりとめもないことを考えながら、取材のアポ取りをした。
目指すは「吉崎御坊 願慶寺(がんけいじ)」。
福井県あわら市にある、浄土真宗大谷派(東本願寺)の寺である。
取材に向け、軽くネットサーフィンしながら…。
そこで、私の手が止まる。
画面に映し出されたのは、「あわら市観光協会」のサイト。
同市の魅力的な観光地が数多く紹介され、モデルコースなどのコンテンツも充実。当然、お目当ての「肉つき面」も見つけることができたのだが。
微妙に。
先ほどとは、何かが違う。
その違和感の正体を突き止めようとして、はたと気付いた。
うん?
「肉つき面」の寺の名前って何だ?
画面には「吉崎御坊 吉崎寺(よしざきじ)」の名前が。
しかし、私の記憶では、確か…「願慶寺」だったはず。
調べれば、この吉崎寺も浄土真宗の寺で、福井県あわら市にあるようだ。ただ、同じ浄土真宗とはいえ、本願寺派(西本願寺)なのだとか。なお、このサイトには「願慶寺」も紹介されていた。やはり、こちらにも「肉つき面」が所蔵されているらしい。
つまり、この時点で判明した事実を整理すれば。
同じ地域にある2つの寺に、2つの「肉つき面」が存在するというのである。
これは、何を意味するのか。
是非とも、2つの面をこの目で確かめてみたい。ということで、いつもの如く好奇心を抑えきれずに飛び出した。目指すは、福井県あわら市。
こうして、2つの面に出会う旅が始まった。
「嫁威し(よめおどし)の谷」の地名の由来
どこにでもある話。
最初に聞いたときに、そんな感想を持った。何の話かというと。「肉つき面」が誕生した経緯である。
大体のあらすじは、こうだ。
姑が嫁を威(おど)そうと鬼の面をかぶったのだが、取れなくなって「肉つき面」となってしまったというストーリー。悪いことをしたら、当然、その報いを受ける。そんな、至極単純明快な論理を理解させるには、「うってつけの事例」だといえる。
ちなみに、作り話かと思いきや、姑が嫁を威した場所は実在するというから驚いた。現在でも、そのままの地名が残っているのだとか。
その名も「嫁威しの谷」。
私が訪れたのは、ちょうど夕方に差しかかった頃。
だからだろうか。非常にうら寂しい場所と感じた。
当時、周辺には民家や店などがなかったはず。だとすれば、「鬼の面」の効果は、想像以上のものだっただろう。心理的に嫁を追い込むには、十分過ぎるほどの方法だ。
それにしても、嫁姑問題は、今だって至る所で口の端にのぼる。互いに形勢逆転を繰り返し、歩み寄ることもあれば、片や永遠に相入れないことも。それは、時代と共に形を変えても、決着のつかないことが多い。
ただ、そんないざこざは、何も嫁姑に限ったことではない。
周りをみれば、対立する構図はごまんとある。要は、「嫁姑」という題材は、身近で分かりやすい恰好の事例だったのだろう。そして、この説法に必要不可欠だったのが、これから紹介する「肉つき面」だ。
一体、どのような経緯で2つの寺に残されたというのだろうか。
早速、それぞれのご住職にお話をうかがった。
これが願慶寺の「嫁威肉附面(よめおどしにくつきのめん)」だ!
最初に訪れた先は、某旅行雑誌で発見した「願慶寺」である。
午後一番。国道沿いに面した駐車場に車を停めた。
車でトライしてみたが、ナビもお手上げのよう。なかなかお目当ての寺が見つからず。徒歩で周辺を探索したが、やはり同じような寺が並んでいるばかり。ただ、坂道を進んでいくと、徐々に道幅が狭まって階段が見える。どうやら、上がった先が願慶寺のようだ。
出迎えてくれたのは、住職の和田重厚(わだしげあつ)氏。人懐っこい笑顔で、開口一番から、その流れ出る言葉に圧倒された。
「私どもの祖先は、蓮如(れんにょ)が来る以前から、日山(ひやま、現在は「樋山」)城主の殿様の一族でした」
「蓮如」とは、浄土真宗中興の祖といわれる本願寺八世の宗主である。あの織田信長を苦しめた「石山本願寺(大阪府)」を開いたのも、蓮如、その人である。比叡山延暦寺の襲撃から逃れて、文明3(1471)年に、福井県あわら市のこの「吉崎」の地に、道場を開き、北陸での布教を本格化させたのである。
「大枠として、江戸時代に、浄瑠璃や歌舞伎、落語など、大衆芸能として大ヒットしたのが、この『嫁威肉附面(よめおどしにくつきのめん)』の話。民話とか伝話とかもそうですが、ベースになる話はやっぱりあるんです。それに尾ひれを付ける。各地に伝わる話に尾ひれをつけて舞台化するのが一般的」
なるほど。ご住職の話では、「嫁威肉附面」には、口伝としてこれまで語り継がれてきた実話がベースにあるという。ただ、文書ではないため、少しずつ伝えられる内容も異なる。そのため、これらの口伝をまとめて「原文」が作られたのだとか。
「その原文が、今回、この裏の蔵から出てきたんです」
じつは、願慶寺の裏には、蔵がある。ご住職曰く、最初はこの蔵を壊してしまうつもりだったとか。当時、蔵の2階にあった長持ちを整理すると、その中に様々な古文書が入っていたという。こうして「嫁威肉附面」の「原文」を発見したようだ。
「(先ほど)私どもの祖先が、城主であると話しましたけれど。この日山城(ひやまじょう)が没落します。大体、没落するときは、のちに復興を目指して、家臣に宝物の一部を分け与えることが多い。十楽村(じゅうらくむら)の『吉田新右衛門(よしだしんえもん)』に、このお面を下げ渡したそうです。(嫁威肉附面は)そのお面を使って起こった事件だと。そこまでは分かりました」
ただ、残念ながら。
この原文は、詳細なところはぼかしてあるという。和田住職に、内容をかいつまんで教えて頂いた。
「最初は、嫁さんが嫁いできて(家族で)仲良く暮らしていた。けれど、そのあとに大黒柱が急死する。もう、大変なことに。それに子供も流行病(はやりやまい)で、さらに、じいちゃんも逝ってしまう。こうして嫁さんと姑が残るんです」
この嫁は30半ばの女性だとか。
そこへ、比叡山から逃れた蓮如が北陸の地へ。布教を本格化させたのである。
「蓮如は、政治的な側面も持っていて、とても巧みな方でした。ここで(蓮如は)何を発信したかというと。『お寺はもういりません。誰でも自由に出入りできる、身分を問わずに入れるレクリエーション会場を作ろう』と。それが『頼母子講(たのもしこう)』。いわゆる『互助会』です」
互助会とは、少しずつ積み立てをして、何かあれば助け合う、そんな集まりのことである。現代ではなかなかイメージしにくいが、当時は会員の9割が百姓で、非常に有難かったとか。
「江戸期には、この周辺に遊郭の町が3つあったとか。いかに、外部から参詣者が来ていたかがよく分かる」と和田住職。
江戸時代には「吉崎参り」として、この地で情報交換がなされていたようだ。とにかく、多くの人たちが参詣のために集まる。だからこその遊郭である。それほど、この地は賑わったということか。
「じつは、この嫁さん。夫を亡くしてその悲しみから逃れようと、この吉崎へ遊びに来ようと考えた。そうして実際に(吉崎参りに)来てみたら、楽しい。この頃から、嫁と姑の2人の歯車がかみ合わなくなってくる」
嫁の吉崎参りを止めさせたい。
そんな姑の思惑があって、面をかぶって待ち伏せる。そして、ちょうど先ほどの谷に差しかかった時に、嫁を威したのだという。
しかし、予想外にも、嫁は鬼の面を見ても怖がらなかった。それよりも、逆に、こんな歌を残したといわれている。
「食(は)まば食(は)め
喰(くら)わば喰(くら)え 金剛の
他力の信は よもやはむまじ」
(鬼さん。肉体は食べられても、私の信心は食べられないだろう)
「姑の計画は、可哀そうに失敗した。一目散に家に帰って、面を取ろうとしたら今度は取れない。家の中で助けてくれと七転八倒。それでも取れない。そうこうしている間に、嫁が帰ってくる。姑は泣き伏して、勘弁してくれ。悪気はなかったんじゃと。ただただ泣き伏す」
なんとも、思いのほか、弱気な姑である。なんなら家でさらに驚かせるかと思いきや、それどころではなかったのだろう。
「そんな姑を見て。嫁は、ただ一言も怒ることもなく、責めることもなく。最後は許してあげるんです。優しい嫁さんなんですわ」
はあっと大きなため息をつく和田住職である。
さて、そんな嫁を威した時に使われた面がコチラ。
願慶寺に伝わる「嫁威肉附面」。とくとご覧頂こう。
ところどころ剥げてはいるが、ご住職の話では、金箔の部分もあったという。もっと小さいものかと思っていたが、意外にも大きく驚いた。確かに、もともと、家宝として城主から与えらえたものである。人が付けるとは想定していなかったのかもしれない。裏側までは、怖くて見ることができなかったが。現代でも、相当な威力がある面だと感じた。
それにしても、嫁はどうして意地の悪い姑を許したのか。
そこが疑問である。
ご住職は、ここが見せ場とばかりに、熱弁。
確かに、説法の中では、一番ここが重要なのだろう。
「おばあさんがこんなふうになるのは、何かしらの原因があった。その原因を明らかにすることが大事であって、結果を責めるのは何の意味も持たない。これはお釈迦様の悟りの1つ。『因果関係』。結果を導くには必ず『因』がある。なんで、ばあちゃん、こんなことしてしまったのかなあと考えていたら。その原因を作ったのは、私だ。そう嫁は気づく」
なんと、今度は、おどされた嫁の方が頭を下げだす。
もちろん、嫌味ではない。心底、悪かったと謝るというのだ。
「私は裏山(吉崎参りの場所)に来てみたら、心の安らぎを得たけれども。振り返ってみれば、ばあちゃんも、夫を亡くし、子どもを亡くし、孫を亡くし。そんな寂しい気持ちを理解してあげることもなく、自分一人が楽しい思いをすればいいやと、身勝手な毎日の積み重ねで、こんなことになってしまった。謝るのはおばあちゃんの方ではなかった。よくよく考えてみたら、私の方が謝らなあかん」
そんな嫁の言葉に、姑の方も気付く。
「こんな私でも許されるのは、『仏』が嫁の形となって私を助けに来てくれたのだと。そういうモノの捉え方ができる。そうすると、全身から力が抜けて、取れなかった面がぼろッと取れたんです」
この結果、嫁と姑の2人は仲良くなったという。こうして、2人で吉崎参りを行うようになったという。ちなみに、この話を蓮如にした際に、問題の「肉つき面」も渡したという。のちに、蓮如が北陸を離れる際に、布教に役立てるよう、面は残されたのだとか。
「勧進(寄付)のときに、この話が色々と伝わっていったのではないかと。こうして、全国にこの話が流れて、結果、大衆芸能の客寄せに取り上げられたと思います」
これが、願慶寺に伝わる「嫁威肉附面」の真相であった。
これが吉崎寺の「嫁おどし肉付面」だ!
さて、お次の「吉崎寺」。
じつは、驚くことに。この吉崎寺、先ほどの願慶寺と目と鼻の先。非常に2つの寺は近いという。一度、駐車場に戻ってから、国道沿いを歩く。2分ほど歩いて信号を渡った先が吉崎寺である。
出迎えてくれたのは、住職の大家英博(おおいえひでひろ)氏。温和な語り口が印象的なご住職である。
「うちの寺は蓮如上人がいらっしゃったときに、私で20代目なるんですが、『名主(みょうしゅ)』という、イメージは区長さんみたいなことをしていました。蓮如上人がお越しになった時に、身の回りのことを色々とさせて頂いて、その御縁で『嫁おどし肉付面』を預かって、代々までこれを持ち続けなさいよと言われた。ということで、うちの寺がずっと預かっています」
なるほど。非常にシンプルな経緯である。
こちらは、既に「肉つき面」となってからの話となる。つまり、「肉つき面」は、蓮如上人の手元にあったことになる。その面を預かったというワケだ。
ご住職の祖先は、吉崎寺を開基した「大家彦左衛門吉久(おおいえひこざえもんよしひさ)」。蓮如上人から頂いた法名は「慶聞坊(きょうもんぼう)」だという。
「江戸末期から明治、大正、昭和の初期くらいまで、真宗のお説教として、『肉付面』の話をしてきました。信心を邪魔してはいけないよ、家庭円満に過ごしなさいよと含めて、いろんなお説教の題材として使われた。そこで、あちこちに(肉付面が)出来上がったのも事実なんです」
さて、気になるのが、吉崎寺の「嫁おどし肉付面」のストーリー。
一体、どのようなものなのだろうか。
十楽村(じゅうらくむら)の農民である「与三次(よそじ)」とその妻「きよ」。2人は夫婦仲も良く、共に蓮如上人の信者で、信仰心も篤かったという。そんな2人は毎夜連れだって、吉崎へお参りをしていたのだとか。一方で、信心がない姑。もちろん、若い夫婦が吉崎参りへ出かけるのを快く思っていなかった。
文明6(1474)年3月21日。
嫁のきよが、ちょうど1人でお参りに出かけるという。この機会を見計らって、姑は氏神に奉納してあった「鬼女」の面をかぶって、おどそうと決意。谷で待ち伏せをする。こうして、面をかぶって、嫁を威すのだが。
いかんせん、嫁は怖がらず。
ここは、先ほどの願慶寺と同じである。
あの「食めば食め~」の歌を残す。
姑の計画は、やはり失敗。それだけではない。
「面が顔にくっついて離れず。こうして、姑は蓮如上人の教えを受けて、心を入れ替えたときに、面が離れたんです。『南無阿弥陀仏』は呪文ではないので。心を入れ替えたら穏やかになって面が外れたとというところが、真宗のお話で。お念仏を唱えたから取れるワケではないんです」
確かに、掛け軸にも描かれている。
姑が、直接、蓮如上人から教えを乞うた。そして、改心した結果、面が外れたというのである。
この話を聞いて、ほぼ、2つの寺に伝わる話は似ていると確信した。ただ中でも大きく異なるのは、やはり、家族構成。嫁と姑だけという設定と、夫は存命しているという設定。さらには、姑の面が取れる経緯も異なる。一方は自ら気付くという設定だが、もう一方は、蓮如上人の説法で改心して面が取れるという設定。
やはり、同じ実話がベースとなっているのだろうか。
それでは、皆さま、お待たせしました。
ここで、ようやくの御対面。吉崎寺の「嫁おどし肉付面」を、じっくりとご覧頂こう。
「信仰を勧めると同時に、家庭円満のお手本にと、お説教の場で使われたというのがこの面です。ご覧になって分かるように、お年寄りの顔って小顔だったはずで、しかも、ちょうど顔の大きさに合っているんです」と大家住職。
見間違いなのか。面の上の方に「毛」があるように見えて仕方ない。暴走気味の妄想が、私の目に「毛」を見せているだけだろうか。
いや、まさか。面が取れなかった姑の「毛」なのか。もし、そうなら。それはそれで、あまりにもリアル過ぎる。「肉」ではないが、「毛」が抜けて付いているとなれば。こんなショッキング映像を公開できるのだろうか。
そこで、思い切って、ご住職に訊いてみた。
「(毛は)ありますあります。もともとお面にあった、ついてたものだと思います」
姑の「毛」ではないと分かり、一安心。
落ち着いて観察を続ける。同じ面でも、先ほどの面とは、また全く異なる印象を受ける。どちらかというと、「鬼」よりも「人」に近い面のようだ。ただ、こちらも、得も言われぬ迫力がある。今は「毛」がほぼ残っていなからだろうか。当時の面であれば、また印象が180度変わったのかもしれない。
それにしても、吉崎寺はその展示方法がユニーク。最初は面が隠れて見えないのだが。前に立つと、幕が上がって面がご登場するという仕掛け。バックミュージックにドラムロールが欲しい、そんな期待感満載の拝観であった。
「昭和初期は本堂で話をしながら、説明した時代もありました」と大家住職も苦笑い。
「毛」だけでなく、見せ方にも驚かされた吉崎寺の「嫁おどし肉付面」であった。
最後に
これほど記事を書くのに苦労した記憶は…ない。
こんなエンディングでは、あまりにもぶっちゃけすぎだろうか。
取材の直前。調べれば調べるほど。
正直、なんだか、少しイヤな予感はしていた。
2つの寺に伝わる2つの面。じつは、題材が同じ面なのではないだろうかと。そして、見事、その予感は的中。はて、どのように書いたものだろうかと、悩みに悩んだ。
ただ、私は、2つの面の真偽を書きたいワケではない。
2つの面が2つの寺に伝わっているという「ありのままの事実」を書きたいだけだ。だから、2つの寺のご住職から聞いた内容を、「面」に絞ってのみ書かせて頂いた。
それぞれの面を信じる人がいる。
それで、私はいいと思う。書くことから逃げたのではない。だって、信仰とは、そういうものだろう。それを心の拠り所としている人がいる、それが全てであり、それが真実なのだ。
ここで、今回の取材の中で、非常に印象に残った言葉がある。
これを最後に書き記したい。
願慶寺のご住職である和田氏の言葉である。
嫁姑がどうして仲良くなったのか、その説明をして頂いたときの話。
「お互いに言い分がある。どちらが悪いとかじゃなくて、言い分を言いなさいと。ここで、一番重要なポイントは、その言い分を『聞け』ということ。蓮如に至っては、(他の宗教もとか)そういう狭い話をしていたワケでなく。自然の声、人の声。全てに耳を傾けましょう。聞きたくない話も一度は聞いておきましょうと」
「その『聞く』という姿勢から、原点が生まれるんですよ。ここで勝手に物事を想像して膨らまして決めつけるなと。聞きなさいということです。キャッチボールが大事だと。聞く、理解する、分からないことはまた聞く。人間社会がスムーズにいく1つの潤滑油なんですよね。民主主義の原点です」
もし、福井県吉崎へと行かれるのであれば。
おススメしたいことがある。
どちらか1つではなく。
是非とも、2つの寺にある2つの面を見比べて頂きたい。
そうして、分からないことがあれば聞く。理解する。そして、また聞く。
だって、これが全ての原点なのだから。
写真撮影:大村健太
基本情報
名称:吉崎御坊願慶寺
住所:福井県あわら市吉崎1-302
名称:吉崎御坊吉崎寺
住所:福井県あわら市吉崎2-902