平安時代中期に活躍し、六歌仙の一人にも数えられる「小野小町(おののこまち)」。
小町の特徴ともいえるのが、情熱的な恋の歌だろう。
“思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを”
(あの人のことを思いながら眠ったから夢に出てきたのだろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったのに)
歌の才に恵まれた小町は、現代の女性の心をも揺り動かす美しい歌をいくつも残している。しかし自ら、
“花の色はうつりにけりないたづらにわが身世に経るながめせしまに”
と詠んだように、この世に色あせない花などない。小町もまた、老いという運命からは逃れられなかった。美しく、歌の才にも恵まれた女流歌人の老後とはどのようなものだったのだろう。日本各地に残る伝説や物語から、小野小町という一人の女性像を探ってみた。
気高く男を寄せつけない美女。それが小野小町
小町に与えられたのは歌の才だけではなかったようだ。踊りに琴、書道と小町はなんでもうまくこなした。そのうえ、彼女は衣織姫(そとおりひめ)の再来とまでたたえられる美貌の持ち主だったという。
そのたぐいまれな美貌の真偽のほどはさておき、評論家の百目鬼恭三郎(どうめききょうざぶろう)によれば、気品が高くて男を寄せない小町のイメージは、平安中期に書かれたとされる『玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちしそうすいしょ)』に発しているらしい。
『玉造小町子壮衰書』に玉造小町という、若く美しい女性が登場する。言い寄る男は数知れず。しかし望みはただひとつ、王宮の妃になることだった。だが彼女は天涯孤独になり、落ちぶれて、はては老衰の身でさすらうに至るという、なんとも哀愁漂う仏教説話である。
この玉造小町と歌人の小町が、いつからか同一視されるようになったというのが百目鬼氏の指摘だ。だが、もしかすると、この説話はあながち嘘とはいえないかもしれない。
小野小町という女性は、とにかく謎だらけなのだ。
※衣織姫:『古事記』にも登場する有数の美女の一人
小野小町のその後を語る物語があった
小町の老後を語る物語は実はけっこうある。そのひとつが、室町時代の能役者・世阿弥(ぜあみ)による謡曲『関寺小町(せきでらこまち)』だ。
その昔、近江関寺(おうみせきでら)の僧が7月7日の宵に寺の子どもたちと七夕祭りを行うことにした。歌が上手くなりますようにと短冊に祈る子どもたちを見た僧は、ほど近い山かげの庵に住む老女を訪ねることを思いついた。その老女が歌に詳しいと聞き、教えを乞おうと考えたのだ。
わら葺きの庵に住む老女は、過ぎたときはもう戻らない、今はただ昔が恋しいと涙を流した。そんな老女に、僧は小野小町の歌を口ずさんで聞かせた。それは遠い昔、小町の歌だったものだ。身も心も衰え、山かげにわびしく身を寄せる自分を嘆く小町の姿に心打たれた僧は、七夕祭りに小町を誘ったという。
子どもたちの星祭りでの舞が小町の心を動かしたのだろうか。自ら立ち上がり、つい老いを忘れて、おぼつかなくも舞いつづける小町。
しかし枯れない花がないように、明けない夜もない。祭りが終わり、現実に戻った小町は杖にすがり、草の庵に帰って行くのだった。
老いた小野小町はなぜ山へ向かったのか
歌人だった頃の名残か、四季折々の移り変わりに思いを馳せながら、山かげの質素な庵で暮らす小野小町。私としては、この描写はあまりにも深い嘆きをさそう。
かつては宮仕えし活躍していた小町は老いると、地方へ下って行ったと伝えられる。『古今和歌集』に次のような記述がある。
六歌仙の一人である文屋康秀(ぶんやのやすひで)が地方官になり赴任するときのことだ。「田舎見物に出かけませんか」と小町を誘うと「寂しい独り暮らしの身ですから、誘われればどこへでも参りますよ」という返事の歌を詠んだという。
小町はほんとうに田舎へ行きたかったのだろうか? あるいは、どこへでも参りますと口にしながらも止めてほしかったのだろうか。今となってはまるでわからない。ただ、今も語られる小町伝説の端々に、彼女の心の動揺のようなものが感じられるのだ。
日本各地に残された小野小町の墓
京都には、小町の墓と伝えられるものが3つあるという。
その一つが、深草少将と小町の百夜(ももよ)通い伝説が残されている「欣浄寺(ごんじょうじ)」だ。百夜通い伝説とは、思いを寄せる小町から「百日通ってくれたらあなたの思いを受け入れます」と言われた深草少将が、しかし最後の一日を残して亡くなってしまったという悲恋物語だ。
ところで深草少将は伝説上の人物である。この不幸な少将の名が世に広まったのは、『通小町』という能がきっかけだともいわれている。
小町の墓は京都以外にも、秋田県や宮城県、愛知県、滋賀県、熊本県にもあるという。
さいごに
結局のところ、小野小町については、はっきりとしたことは何も分かっていないのである。小野小町の墓があると伝えられている寺もあるが、事実のほどは疑わしかったりする。すべては本当にあったかもしれないし、なかったかもしれない。もし後世の人が得意げに広めた伝説であるのなら、小町にとっては迷惑な話だろう。
それでも今日まで思うところあって語り継いできた一握りの人たちがいる。それが伝説の特徴なのである。私たちが小町の心のうちを知ることのできる唯一の手がかりは、おそらく彼女が自ら生みだした歌だけだろう。私としては、歌人として、一人の女性として生きた小町の心情を知るには、それだけで十分な気がしなくもないのだけれど。
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