日本文化の入り口マガジン和樂web
9月23日(木)
元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
9月22日(水)

元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)

読み物
Art
2021.01.13

あまりにも自由でポップだ!巨匠・棟方志功が富山で生んだハイテンションな「ムナカタ作品」

この記事を書いた人

ゴッホが嫌いだ。いや、正確には、嫌いだった。
実際にオランダで原画を見るまでは。

最初に見たのは、教科書の中の「ひまわり」。ケバケバしい色遣いで、あまり好きになれなかった。恥ずかしながら、表面だけ塗りたくった派手な絵、そんな浅い印象しか受けなかったのである。

だから、10年前のオランダの美術館では、衝撃を受けた。
私が信じていた「あれ」は、一体何だったのか。ただの思い込みだったと、ようやく気付いたのである。そこには、輝くまでの生命に溢れた「ひまわり」があった。こんなにも優しく、こんなにも深みのある絵はないと。何時間でもずっと眺めていられる、そんな心躍る絵と出逢えたのである。

きっと、この方も同じような衝撃を受けられたのだろう。
「世界のムナカタ」と称される「棟方志功(むなかたしこう)」

青森県出身の彼は、ゴッホの絵を見て、こう叫んだ。
「わだば(私は)ゴッホになる」

その通り。油絵ではなかったが、「版画」の分野で、彼は世界的に有名なアーティストへと駆け上がる。享年72。墓は、ゴッホの墓と同じ石で同じ形。ややゴッホの墓よりも大きく造られたという。

生前、そんな彼が東京を脱出したのをご存知だろうか。
ちょうど働き盛り、脂の乗った時期に、とある地方へと移住する。彼が戦争疎開の地として選んだのは、富山県西砺波郡の「福光(ふくみつ)」。現在の南砺市福光町である。

今回は、福光で過ごした6年8ヵ月をご紹介したい。
福光で受けたインスピレーション。一体、彼の作品はどのように変わったのか。

南砺市立福光美術館、そして、実際に家族と過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」にも足を運んだ。

※冒頭の画像は「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」 1939年(昭和14年)/板画(南砺市立福光美術館所蔵)です
※文中の写真は、全て承諾を得てから撮影したものです

奇跡的に戦火を逃れた「二菩薩釈迦十大弟子」

「昭和20(1945)年といえば、終戦の年にいらしたんですね。4月に富山にいらして、5月に志功さんが住んでいた東京のアトリエが空爆で焼けているんですね。だから、それ以前に作られていた作品は、ほとんど全部焼けちゃったんですよ」

のっけから、その熱量に圧されてしまった。
誰にかというと。もちろん、南砺市立福光美術館の学芸員、土居彩子(どいさいこ)氏である。我が家族のことのように悔しがる彼女から、ムナカタ愛をひしひしと感じる。

南砺市立福光美術館 学芸員 土居彩子(どいさいこ)氏

朝から訪れたのは、南砺市立福光美術館。
東海北陸自動車道の福光インターより車で15分のところにある、静かな山の中の美術館だ。

南砺市立福光美術館

棟方志功氏の作品が目白押しの館内。定期的に作品は入れ替えされているという

それにしても、シックな館内でゆっくりと棟方志功氏の作品を鑑賞できるなんて、ホントに役得。そう思わずにはいられない光景である。

私の知識が古いのか。「版画」といえば、小学校での苦い記憶しかない。苦労して彫ったはいいが、手が墨で真っ黒。その上、白と黒だけで表現するその制約感。モノトーンとは聞こえがいいものの、地味で捻りのないイメージしかない。

しかし、この部屋に入った途端、目は展示されている作品に釘付け。土居氏には怒られるかもしれないが。話半分、つい取材を忘れて、まじまじと見入ってしまった。恐るべし。なんと、色まで付いているではないか。

なるほど。棟方志功氏が、どうして「世界のムナカタ」と呼ばれているのか。百聞は一見に如かず。初めて理解できた気がする。これまでの「版画」の常識が、一気にぶっ飛ぶほどの自由。圧倒的な自由が、そこにはあった。

東湧西没の柵シリーズ 左が「西没(さいもつ)の柵」、右が「東湧(とうゆう)の柵」 共に1951年(昭和26年)/板画(南砺市立福光美術館所蔵)

「コチラは、福光時代の作品です。『裏彩色(うらざいしき)』ですねえ。裏から色を入れるんです。板画を刷りますよね? そのまま裏から絵の具を染み込ませるんですよ。で、表に返します」

私が衝撃を受けた色付きの板画。
なんと、淡い色合いは表から付けたワケではないのか。こんな技法があるとは驚いた。土居氏曰く、裏から絵の具を染み込ませるので、板画自体の絵や線が消えないのだという。墨が染み込んでいくのと同様の道程なのだとか。

おっと。なんだかワクワクして、別の作品に寄り道してしまったが。やはり、棟方志功氏の作品といえば。最初に触れておかなければならないのがコチラ。土居氏も迷わず一番に案内してくれた、冒頭の画像の作品だ。

「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」 1939年(昭和14年)/板画(南砺市立福光美術館寄託)
両端が「書」となっているが、こちらは板木が焼けてしまったため。のちに文殊菩薩と普賢菩薩を改刻した作品が出展され、受賞となる

「ホントに、コレが残っていたのって、鳥肌が立つくらい」

言葉を継ぎながら、一気に解説が始まる。
「奇跡的に残っているのが、唯一、福光に避難できた板木で、この十大弟子なんですね。この作品が、のちのち世界的に有名な賞を取って『世界のムナカタ』に名を馳せる作品になるんです」

もともと制作したのは昭和14(1939)年。
文殊菩薩・普賢菩薩と、釈迦の10人の高弟の姿を彫ったもので、棟方志功36歳の時の作品である。のちに、昭和30(1955)年、サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で版画部門最高賞を受賞。さらに、翌年の昭和31(1956)年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展にて、グランプリの国際版画大賞をも受賞する。

「表裏に彫ってあります。10人の弟子が5枚の板木に彫ってあるんですね。当時は戦時中。疎開騒ぎで、荷物を田舎に送りたいって駅がごった返してるんですね。駅の人も困ってしまって、規制するんですよ。持ち込めるのは5点だけって。美術品とか骨董品とか生活必需品でないものは後回し。どうしても生活に必要なものだけっていうことで」

どう考えても、板画の板木は見逃してくれないだろう。さすがに、飯のタネといえども、なかなか他人には分かるまい。しかし、ここで救世主となったのが、志功氏の奥様である「チヤ夫人」。

「どうしても運んでもらえない。だけど、奥さんが知恵を働かせて。背もたれの長いスピンドルチェアの添え木にして、持ってくるんですね。それがちょうど5脚だったんですよ。5枚をぐるぐる巻きにして、なんとかここに辿り着いたんですね」

当時、彼が大切にしていたイギリスのウインザー調のチェア。その梱包用の材料として、機転を利かして、無事に輸送されることになったという。奥様はお役目完了と、代々木の自宅から福光へと向かったのが昭和20(1945)年5月24日。その翌日、東京は大空襲に見舞われる。板木はもちろん、奥様も間一髪という状況だったようだ。

棟方志功の「他力」の意味とは?

あまりにもポップ。
見ているだけで「幸せ」が伝わってくる、そんな印象を受けた作品がある。
「これ、何だと思います? 襖絵なんですよ」

「白道舎襖絵 四菩薩図」 1949年(昭和24年)/倭画(南砺市立福光美術館所蔵)

福光時代、棟方志功氏は、地元の宗教家である「吉田龍象(よしだりゅうしょう、白道舎主宰)」氏と交流。道場の2階に掛けられていた短冊の言葉を見て感極まり、その勢いで真っ白な襖に描き付けたのだとか。裏には、その言葉も力強い書で書かれている。

全体に散らばっているのが、ハートのような模様。そして、パステルカラーの色遣いが、なんとも気持ちをほぐしてくれる。絶妙なゆるキャラ具合の、癒し系の作品といえる。

「そう、ハートみたいに見えるんですよ。蓮の葉とも、菩提樹の葉ともいわれています」

一方で。
これまた、同じ人物の作品とは思えない。珍しく「言葉」がそのまま彫られた板画をご紹介しよう。

運命頌板画柵シリーズ「黎明の柵」 1951年(昭和26年)/板画(南砺市立福光美術館所蔵)

よく見れば、見覚えのある単語が。
ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」をベースにした作品である。文字を入れることで、これほど印象がガラリと変わるとは。これまでの抽象的な訴えから一転して、具体的な主張が感じられる。

それにしても、作品の幅が広い、広すぎる。
このような独創性の原点は何なのか。一体どこからやってくるというのか、全く不思議である。

そして、もう1つ。
この「福光」という場所が、彼にどのような影響を与えたのか、それも気になるところ。そこで、土居氏に問いを投げかけると、思いもよらない答えが返ってきた。

「福光時代には、より宗教観が深まったという感じでしょうか」

確かに、志功氏は、この福光で浄土真宗の僧侶や多くの文化人らと交流を深めている。より多様性を重視し、より宗教観に深みが出たということか。

鐘溪頌(しょうけいしょう)シリーズ 左から「風聞の柵」「鴛鴦の柵」「朝菊の柵」「竜胆の柵」 1945年(昭和20年)/板画(南砺市立福光美術館所蔵)
尊敬する陶芸家の河井寬次郎(かわいかんじろう)氏を讃えて作られた24柵からなる作品。白い顔に黒い体、また、刺青のように模様を入れた体などの表現は、その後の芸術の方向性を示したと評価される

逆に、土居氏から、こんな質問をされた。
「志功さんは、『他力』という言葉をよく使います。『他力だから、自分の作品には責任を持たない』と。『他力』って聞けば、どんなイメージを持たれます?」

「他力」とくれば、「他力本願」…なのか。
あまり良いイメージは持ちにくい。どうしても自分だけでは完結しない、「他人任せ」や、「他人の力にすがる」というニュアンスを感じてしまう。

「志功さんが、一心不乱に彫られているところをビデオで見たんですが。額に白いモノを巻かれているんですね。汗どめの『はちまき』だと。私、てっきり、志功さんって汗かきなんだなあと、思ってたんです。でも、あれって『こより』なんですよ」

「こより」とは、和紙を細長く切って、糸のようにしたモノのこと。
そもそも、なぜ額に「こより」なのか。全く想像がつかない。

「なんだか『しめ縄』みたいでしょ。志功さんがいう『他力』というのは、『仏』なんです。自分というのはちっぽけな存在で、仏が自分の手足を動かして作品が出来上がる。だから、自分は責任を持たないんです。それで、納得しました。志功さんが彫っている姿は、ある種、神がかり的なんです。だから、『こより』で自分の中の仏様を祀っているんだなと」

確かに、棟方志功氏はこのような言葉を残している。

「板画は、他力の在り方から生まれるものです。自分から作られるものではありません。…(中略)…虚空の拡がりのように、どんなに進んでも、どんなに数えても数えきれない、問答無用に大きい世界、それが板画です。…(中略)…いくら覆うても覆いきれない光こそ板画です。『間違えてさえ美しい』そういうことさえ言い切れるのが板画です」
(本間美術館棟方志功自選板画展目録より一部抜粋)

あくまでも自分は依り代となるだけ。
自由で無限な世界。それが板画なのだと。

だからこそ、これまでの枠にとらわれない、自由度の高い「ムナカタ作品」が生み出された。そんな気がしてならない。

棟方志功のハイテンションが伝わる肉筆画

さて、福光時代のムナカタ作品を堪能したあと、次に向かったのは「鯉雨画斎(りうがさい)」。なんでも、福光での当時の住居がそのまま残されているのだとか。

鯉雨画斎

実際の部屋の様子

「昭和21(1946)年の12月からね、昭和26(1951)年の11月までここに居られた。福光の浄土真宗大谷派の光徳寺(こうとくじ)ね、昭和15(1940)年くらいから『高坂貫昭(こうさかかんしょう)』という住職と交流があったもんだから。その光徳寺の勧めで昭和20(1945)年の4月に来るんですよ」

今回、この「鯉雨画斎」にて解説して頂くのは、棟方志功記念館・愛染苑を管理されている堀越勝(ほりこしまさる)氏である。

棟方志功記念館・愛染館管理 堀越勝(ほりこしまさる)氏

光徳寺とは、どうやら、あの文芸誌「白樺」を通じての交流だったようだ。その後、光徳寺の分家の家など幾つかの家を経て、とうとう自分の家が欲しいと、この家を建てたという。

「近くで富山市が空襲で焼けたからね、県内の各地で簡易住宅を作って富山市が供給する事業があったんですけれども。すぐ近くに工場があったもんだから、そこから1棟回してもらって、この家を作ったワケ。簡易住宅だから、入口からこの敷居のところまでしかなかった。棟方さんは、これじゃあ6人家族じゃ狭いなと。八畳間と廊下を建て増ししてもらって入居したんです」

さて、この鯉雨画斎の注目ポイントはというと。
まずもって「トイレ」。

読者らのどよめきを、あえてここでは無視して突っ切ろう。
とにもかくにも、ご覧頂こう。それが先決だ。きっと、私がイチ押しするその理由をご理解頂けるはず。

トイレの壁に…

鏡にはトイレの天井が…

壁一面に描かれている「鯉雨画斎」のトイレの肉筆画

「入居したらいきなりトイレの天井と壁に絵を描いている。トイレは人間にとって一番大事なところだからと、仏さんで飾り立てたんです」

よく見ると、仏様や天女の絵だ。
彼の興奮が非常に良く伝わってくる。それも壁一面。ハイテンションな姿が目に浮かぶようだ。それにしても、どうやって描いたのか。

「志功さんは身長154㎝。天井には届かない。ちょうど大工さんの足場があったから、それに乗っかって描かれている。小学校5年生の娘さんは、こんなトイレ使うのは嫌だと。周りを囲まれてしまってるからね」

確かに、なんだか見られている気がして、妙に落ち着かない。ただ、彼の思考はそうではないのだ。福光美術館の土居氏が「神がかり的」と説明されたその言葉が、ぽんと浮かび上がってきた。理由などいらないのだ。感情のおもむくまま。目に見えぬ何かが突き動かしている、そんな感じだろうか。

棟方志功にとっての「鯉雨画斎」とは?

「トイレの次に描かれたのが、押し入れの板。赤いのが鯉、黒い雨。鯉が雨に打たれて昇っていく様子が描かれている。こちらには、鯰(なまず)と亀と鰻(うなぎ)が。長押(なげし)から柱に墨が飛んでいる。まあ、一気に描かれるワケですから。鯉と雨から、この八畳間につけられた名前が『鯉雨画斎』と。今は、この家全体がそう呼ばれていますが、本来はこの部屋につけられた名前です」

鯉雨画斎の押入れの板戸の絵

こちらは真っ赤な鯉

左から、鰻(うなぎ)、亀、鯰(なまず)の絵。お分かりだろうか…

この「鯉雨画斎」も見事なのだが。
じつは、この八畳間には隠れた名品が。なかなか玄人でないと、見極めは難しいかもしれない。私など、ほぼ気にせず素通りしそうになって、慌てて戻ってきたという始末。

「棟方さんといえば、民藝の河井寬次郎(かわいかんじろう)さんや柳宗悦(やなぎむねよし)さん、濱田庄司(はまだしょうじ)さんらと交流が深いわけでしょう。だからここに、柳宗悦さんの軸がある。それから、濱田庄司さんの益子で焼かれた火鉢。河井寬次郎さんからは、この神棚を頂いている。京都風の神棚ね」

火鉢(濱田庄司)

書(柳宗悦)

神棚

神棚の裏には、棟札のような内容が…。この家が完成した12月18日の日付も

それだけではない。
じつは、ここにも。
よく見ると、錚々たる方々のお名前が連なっている色紙も…。

「鯉雨画斎築成寄悦」

「この家ができた翌年の昭和22(1947)年5月17日に、お祝いの会をしている。そこに集まった人たちの名前です。柳宗悦さん、大原総一郎さん、ほら、倉敷の大原美術館の。そして、濱田庄司さん、河井寬次郎さんなど」

もちろん、地元の民藝の愛好家も。北日本新聞社の社長や魚屋の主人まで。交流の幅が広いことがうかがえる。

また、棟方志功という人間にとって、人生のキーマンといえる方も。
「この日に来たワケではないが、下澤木鉢郎(しもざわきはちろう)という名前も。棟方さんにとって、とても大事な人です。昭和3(1928)年くらいに、絵に行き詰ってしまって。自分も版画をやりたいということで、青森県出身の版画家を訪ねる。それがこの人」

俺の師匠に連れてってやる。
そんな偶然の引き合わせで、彼は「平塚運一(ひらつかうんいち)」と出逢えることに。そこで、版画の手ほどきを受けるのである。つまり、この「下澤木鉢郎」という人物は、「世界のムナカタ」の版画人生の出発点となった人なのだ。

さらに、堀越氏の解説は続く。
「コチラは、昭和26(1951)年のカレンダー。北陸銀行の頭取に頼まれて作ったら、こんな見にくいカレンダーに」

昭和26(1951)年のカレンダー

確かに、曜日は英語、漢字。数字もバラバラ。なぜだか、日付が7日から始まっている月も。改行したりしなかったりと、その時の感性で創作されたのであろう。カレンダーとしての機能は、残念ながらほぼないといえる。

ただ、これを依頼した北陸銀行の頭取はというと。
「これを見て素晴らしいと言った。何故かというと。カレンダーならその年が過ぎれば捨てるが、カレンダーとして見ないで、棟方の作品として見なさいと。そしたらいつまで持っていてもいいんじゃないかと。そういう評価をして、北陸銀行が皆さんに配った。非常にユニークなカレンダーなんです」

ああ、そうか、と納得した。
この「鯉雨画斎」に入って、なんだか温かいと感じた。その理由が分かったからだ(もちろん、物理的には、上着を忘れて取材をしたので凍えそうだったのだが)。

家は、生き物だ。人が住んでいないと寂れてくる。それは、目で見えるものではない。空気感と言おうか、本能的に感じるものである。

確かに、この「鯉雨画斎」には、人が住んでいない。
観光のために人が訪れるが、それはまた別の話。ただ、家自体にぬくもりがあるように思う。それは、きっと、棟方志功という人物の周りには、北陸銀行の頭取のように、様々な支援者がいたからだ。棟方氏の作品に惚れ、愛した人たちが。きっと、多くの人が彼の家に集まり、多くの幸福な時間が共有されたであろう。

その感情が、家に沁みついている。そんな感想を持った。

「アメリカにて(Miyatake Toyo 撮影)」

ちなみに、コチラの家だが。
もともとは、現在のこの場所にあったワケではないという。棟方氏が疎開を終え東京へと戻る際に、親しい友人に家を譲ったのだとか。ただ、場所は移動せざるを得なかった。当時は300mほど離れた宮脇町の交差点あたりに移築されたようだが、のちに都市計画で壊されることに。

「町の有志の反対運動で保存となりました。今の場所に移築するときは、あのトイレの絵が壊れないようにと、クレーンで住宅街の上空を空中移転したんです。私も見ていましたが、ああと声が出ましたね」

なるほど。確かに、大事なこの「鯉雨画斎」が壊れるようなことがあってはと…。

「いえ、私の家が、その下にあったからです。落ちないかと心配でねえ」

意外な堀越氏の言葉で爆笑し、取材を終えた。
こうして、「鯉雨画斎」をあとにしたのである。

最後に
この取材で印象に残った言葉がある。

南砺市立福光美術館の土居氏に、ムナカタ作品の中で、どの作品が一番好きかと聞いたときのこと。彼女は、難しいと、うーんと唸ってから一言。

「作品というより…どちらかというと『生き方』が好きですね。マイナスから始まる、でもそれをプラスに転じるところ。例えば、油絵を目指そうにも目が悪いとか、それをただ嘆くのではなく、今度は版画へと転じて我が道を行く。そういう生き方です」

「ミシシッピー河の自板像の柵」 1965年(昭和40年)/板画

コチラの自画像。
冒頭の画像にもあったが、じつは油絵ではなく「版画」。「版画」の概念を覆すような鮮烈な色遣いに驚く方も多いだろう。

いや、棟方志功という人物からすれば「板画」といった方がよいのか。今回の記事では、文中で「版画」と「板画」を、あえて使い分けて表記した。

というのも、彼は、このような言葉を残しているからだ。

「板画というものは、板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだとおもいましてね…(中略)…板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたんです」
(花深処無行跡より一部抜粋)

板の声。ただ、彼の生き方をみれば、それだけではないと気付く。あらゆる人の声、自分自身の心の声。仏の声。

あらゆるモノの声を聞く。つまりは、1つの見方ではない。百も千も幾重もの見方ができる。だからこそ、マイナスでは終わらないのだろう。その視野の広さと柔軟性が、マイナスをプラスへと転じさせる。

だから、ムナカタ作品は、永遠に人を魅了してやまない。
そんな気がしてならない。

写真撮影:大村健太

基本情報

名称:南砺市立福光美術館
住所:富山県南砺市法林寺2010
公式webサイト: https://nanto-museum.com/

名称:鯉雨画斎
住所:富山県南砺市福光1026-4

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

担当スタッフのおすすめ