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Culture
2021.03.14

17個も石鏃が打ち込まれた人骨!?兵庫県の弥生遺跡で考える、縄文と弥生

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一般に、「縄文時代は争いのない時代で、弥生時代は争いの時代」と言われる。この噂が本当であれば、縄文人は穏やかな気質の持ち主であったと考えることもできるが、縄文人の文化が蔓延っていた時代は果たして争いのない平和な時代であったのだろうか。

たしかに、そんな話を聞いたことがあるなあ。どうなんだろう?

明石と神戸の境に位置し、縄文と弥生の過渡期を経験した弥生時代初期の新方(しんぽう)遺跡。そこでは、争いの存在をほのめかす人骨が発見されている。思えば日本の歴史では江戸と明治の間に起きた戊辰戦争に代表されるように、時代と時代の狭間に必ず世の中を揺るがす凄惨(せいさん)な出来事が起こっている。それはともかく、「縄文時代、弥生時代とは何か?」について改めて考えるのにちょうど良い場所なのかもしれない。

学校の歴史の授業で習ったくらいの知識しかないから、興味津々!

新方遺跡とは?

明石川流域には弥生時代以降の遺跡が数多く発見されているが、中でも新方遺跡は播磨地域で最古の吉田遺跡に次ぎ、早期からの人々の営みが確認されている弥生遺跡である。(考古学的には、明石川の流域の弥生遺跡として最古の吉田遺跡から分村により成立したとされている)。

この地域で2番目に古い遺跡なんだ!

JR明石駅の北側に位置する、明石川と伊川との合流地点付近。弥生時代、明石川流域には数多くの集落が存在していた。新方遺跡は下流近辺に存在していた集落のひとつであり、この地点より北の方角に位置していたとされる。そして、その新方遺跡では弥生時代以降も、人々の営みは絶え間なく近世まで続いた。

新方遺跡で発見された人骨

上半身を中心に集中的に17個の石鏃(せきぞく)が!?

新方遺跡では合計13体の人骨が発見されたが、石鏃が刺さった状態で発見されたのが1~3号、12号、13号の計5体である。以下、17個の石鏃が腕や胴部を中心とした上半身に刺さった状態で発見された人骨(3号)である。

3号人骨(身長160センチメートル、男性)。上顎から腹部に至る18ヶ所にサヌカイト製の石鏃が検出された。(17個の石鏃が18ヶ所で発見されたのは、そのうち1個の石鏃が割れて2ヶ所から検出されたためである)。

石鏃の多くが胴部の骨格部分を中心に、上腕骨の肘部分や肩甲骨、頭蓋骨に沿うように見つかっている。もちろん。全体的に骨の保存状態が良くなく、骨の傷跡を探し出すことはできない。このことから、石鏃が骨を貫通したかどうかまでは定かではないが、多くの石鏃が射こまれた可能性が高いと推察している。

ひええ~! 一体なにがあったんだろう……。

合計17個の石鏃が刺さった人骨は忌まわしい事件を物語っている。通り魔による犯行か、集団によるリンチによるものなのか、揉め事から殺人へと発展したのか。はたまた河川敷で数人による争いが展開されていて、単にその争いに巻き込まれただけなのかもしれない。17個の石鏃が刺さるという状況は余程である。あくまでも筆者の憶測だが、ターゲットの男性は複数の人から強い恨みを持たれていて、日常的にいじめを受けていたのではないだろうか。しかしながら、その出来事の詳細を示す証拠はなく、「なぜ上半身に集中的に石鏃が射こまれたのか?」を含め、事態の真相はよく分かっていないという。もちろん、詳細が掴めていない以上、この出来事をもって縄文と弥生の時代を分けたと断言することはできない。

弥生遺跡に縄文人の形跡?

興味深いことに、新方遺跡では「縄文、弥生時代とは何か?」を考えるうえで、興味深い史料が多数見つかっている。以下は新方遺跡で発見された人骨の一部である。

1号人骨(身長160センチメートル、男性)。胸部に1個の石鏃が刺さった状態で発見された。

12号人骨(身長160センチメートル、男性)。脚部を交差させた状態で発見された。

13号人骨(身長155センチメートル、男性)。脚が交差している状態で発見された。右寛骨付近には、縄文時代に呪術のために使用したとされる猪の牙の跡が見られた。

すでに取り上げた3号人骨を含め、いずれも下肢を支える腓骨(ひこつ)に大きな凹みが目立つ。ちなみに、腓骨の凹みは縄文人に見られる特徴であるという。

弥生時代の遺跡だけど、縄文人の特徴をもった骨が出てきたのですね!

1号と12号では、縄文人に特異に観察される前歯での嚙み合わせのほか、弥生人に顕著な特徴として上の前歯の裏の窪みが見られる。縄文人は生活様式や文化の変化の中で、徐々に私たちが考える弥生人の様相を呈していったと考えることができる。

へええ! 縄文人と弥生人、両方の特徴を持っている骨が!

3号と12号に共通して見られるのが大腿骨の湾曲である。これもまた縄文人に顕著に見られる特徴であるという。12号に関する京都大学の片山一道先生の見解によると、何らかの意図があって脚部を交差させたままの体勢で、狭い棺の中に入れられ埋葬されたのではないかと推察されている。

弥生時代の遺跡で確認されたのは、歴史教科書などで学んだ典型的な弥生人と言うにはほど遠く、どちらかと言うと縄文人的な骨格を持った縄文人であった。縄文時代、弥生時代がそれぞれどのような時代であったのかは歴史教科書でも学んできた通りだが、縄文から弥生への時代の過渡期に人々がどのような生活を送っていたのかについては知る機会がなかった。少なくとも新方遺跡は、縄文と弥生の過渡期に人々がどのような生活を送っていたのかという進化の過程に関する手がかりを与えてくれるのは言うまでもない。

ぱきっと切り替わるわけではないですものね。とても興味深い遺跡です!

縄文人が進化して弥生人に?

一般に、日本列島には縄文人が過ごしていて、その後大陸に来た人々により淘汰され、弥生文化が始まったというようなことが言われている。が、新方遺跡を見る限り、実際にはそうは言い切れない。確かに、縄文人と弥生人は顔つきや骨格、性格において違いが見られるかもしれない。しかしながら、弥生時代の新方遺跡で発見された人骨は縄文人であり、身に付けていたものにも縄文時代を象徴する装飾品が見受けられた。

新方遺跡の集落は縄文時代から暮らしていた在地系の人のみから成る集落であり、そこに渡来人はいなかった(厳密に言うと、渡来人は北九州から徐々に東進していったと言われており、弥生時代初期の遺跡である新方遺跡にはまだ到達していなかった)。つまり、弥生遺跡と言えども弥生時代になって突如人が住み始めたのではなく、弥生時代以前にもその場所には人の営みがあり、縄文から弥生へと時代は連綿と続いていたのだ。

そうだったのか!

縄文人の形跡を持っているとはいえ、あくまでも弥生人であるというのが神戸市埋蔵文化財センターの見解だ。一方で、新方遺跡の事例を参照するなかで、人類の進化の権威である京都大学の片山一道先生の研究を支持する立場から、「弥生人は縄文人の進化の延長線上にあり、縄文人はその後の生活の変化とともに弥生人化した」とこれまでの常識を覆す言説を唱える専門家の方もいる(前者は従来の言説に則った見解であると言えよう。一方で、後者は旧石器時代から縄文時代初期の事情に詳しい方による見解である)。

専門家の中でも意見が分かれているのですね。

実際、弥生時代を象徴する稲作が本格的に始まったのは弥生時代中期であり(縄文時代から稲作が行われていたという説もあるが……)、縄文から弥生への線的な時代の流れの中にはこうした生活様式や食文化の変化があり、縄文人は徐々に弥生文化に順応していった(そして、その影響は骨格にも現れ、弥生人化した)。ということを考えれば、後者の見解も一理あるだろう。新方遺跡の人骨が弥生人かどうかをめぐっては、専門家の間でも意見が揺れているということを断っておこう。

どの時代でもそうでしょうけれど、あータイムマシンがあったら! という気持ちなんでしょうね。

とにかく新方遺跡で発見されたのが弥生人であろうが、これまで何となく思い描いてきた弥生人とは違うというのが筆者の率直な感想だ。一般に、「縄文文化=先住民の文化、弥生文化=渡来人の文化」として認識されているが、必ずしもそうではなく、そこには文化の多様性が窺(うかが)い知れる。

あとがき

「縄文人(先住民)の時代は争いとは無縁で、弥生時代は争いの時代」というようなことが言われる。しかしながら、新方遺跡で発見された人が先住民であったことを鑑みると、必ずしもそう断言できない。

痴話喧嘩だとか、争いだとか、ほんの些細な出来事がきっかけで始まることが多い。そして、その根源となり得るのがストレスだ。ストレスというのは、上司や親、友人といった人間関係で生じることもあろう。

ストレスの大半は人間関係、なんて話もありますしねえ。

そして、ストレスが原因で感情が不安定となり、他人に八つ当たりするようになる。当事者同士の問題と思いきや、両陣営に味方がつき、やがて数人を巻き込んだ争いへと発展する。ちょっと大げさかもしれないが、この世界には些々たる理由の小さな揉め事から戦争へと発展したケースも少なくないのだ。こう考えてみると、縄文人も日々の暮らしの中でストレスを抱えていただろうし、そのストレスから利害関係が生じることもあっただろう。

確かに、ストレス社会の中で日々疲れを感じながら生きる現代人からすれば、基本的に自給自足のその日暮らしでのほほんと暮らしていた縄文時代は理想郷のように見えるかもしれない。狩猟採集の生活を送っていた縄文時代だが、天候に左右されることが多く、明日の食糧が底尽きるなんてこともあったはずだ。そして、そのたびにストレスを感じていたことだろう。ストレスが蓄積し、鬱状態となっていたかもしれない。何より縄文時代は温暖化の時代。今日よりも気温が数度高かったとも言われている。暑いと作業が捗らず、イライラは最高潮に達していたはずだ。しかも、その時代にクーラーという文明の機器はない。ゆっくり涼める場所を探すものの、見つからないとイライラはさらに募るばかり。そういうわけで、縄文人は慢性的なストレスに晒されていたことが予想される。

ストレスをどう捉えるか、というのは人それぞれ。とはいえ、やっぱり暑すぎるのとか寒すぎるのは、精神的につらいですよね……。

実際、駒澤大学(※研究発表時の所属大学)の瀧川渉氏の研究によると、縄文人は日常的にストレスに晒されていたかもしれないということが示唆されている。瀧川氏は日本全国5地域の縄文人や弥生人の集団を対象に筋骨格のストレスマーカーを検証するなかで、縄文人の男性の日常的に行っていたことは狩猟や漁撈(ぎょろう)から樹木の伐採に至るまで多岐にわたり、その結果は筋骨格ストレスマーカーに現れていることを指摘している。一方、女性においても一部の地域では肉体労働を行っていた可能性が高く、それは筋骨格ストレスマーカーの数値にも現れている。

このマーカーは筋やじん帯などにかかる負荷を示すもので、一般的に考えるような精神面でのストレスとは異なる指標ですが、強い肉体労働はやっぱり精神面での疲れ・ストレスにも繋がりますよね……。

2000年以降、認知心理学と考古学が合体した認知考古学なる学問も登場した。とはいえ、縄文人が日々の生活の中でどのようなストレスを抱えていたのかといったように認知的側面から探る研究の数は少ない。縄文人がストレスを抱えていたことを示す研究事例が少ないだけで、現代人が思う以上にストレスを抱えており、ストレスが引き金で諍(いさか)いが頻発していたということが考えられる。

ストレスって他人からは理解されないこと、よくあります。

現代社会では、インターネット上における誹謗中傷は社会問題にもなっている。匿名による自由な投稿を許した結果がこのありさまだ。縄文から弥生への移行期に存在した新方遺跡における生活様式は基本的に縄文時代のままで、基本的に自由な行動が許された。その一方で、現代のインターネット空間に見るように、行き過ぎた自由には弊害が付き物であり、他人との利害衝突を招くことも。自由をセーブできず、個々の行動がヒートアップした結果が新方遺跡に見られる惨状ではないだろうか。

神戸市埋蔵文化財センター

今回訪れた神戸市埋蔵文化財センターでは、「よみがえる神戸の歴史」をテーマに、先土器時代から中世に至るまでのさまざまな出土品を常時展示しているほか、古代の鏡や編み機、火おこし器などを実際に作る考古学講座も開講している。(なお、今回紹介した新方遺跡の出土人骨だが、常設展示されておらず、いつでも見られるわけではない)。

さらに、お土産コーナーには自宅で縄文土器作りを実践できる縄文土器キットも(最初から上手くいく保証はないが、価格が400円とリーズナブルなのは嬉しい)。

縄文土器を作れる!? おもしろそう!

気になる方は、気軽に立ち寄ってみてはいかが?

(取材協力・撮影)
神戸市埋蔵文化財センター
住所:神戸市西区糀台6丁目1 西神中央公園内
URL
 

(参考文献)
新方遺跡 野手・西方地区発掘調査報告書 2003年 神戸市教育委員会
瀧川渉「縄文・弥生時代人における筋骨格ストレスマーカーの地域多様性」『Anthropological Science』2015年

 

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。