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2021.03.04

「二輪車王国日本」の飛躍はここから始まった!マン島TTレースの表彰台をホンダが独占した日

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グレートブリテン島とアイルランド島に挟まれた位置にある、イギリス領マン島。

この島で行われるTTレースは全世界のライダーが見守るイベントでもあるが、1961年にセンセーショナルを巻き起こしたのはホンダだった。125cc、250ccの両クラスで1位から5位を独占するという快挙を成し遂げたのだ。

「ホンダだから、そんなのは当たり前では?」と思ってはいけない。今現在の「二輪業界の王様」としてのホンダではなく、日本国外ではまったく無名だった時代のホンダである。欧米の二輪メーカーは、まったく聞き慣れない日本人の苗字を前に動揺した。同時のこの出来事は、日本を世界有数の二輪車製造王国へと昇格させる分岐点となった。

ピンチの最中の「宣言」

本田宗一郎は、終戦直後の焼け野原で陸軍の放出した無線機に未来を見据えた。

より正確に言えば、無線機に組み込まれていた発電用エンジンである。

終戦後の復興期、人々は自転車にあらゆるものを積んで移動した。この自転車にエンジンを搭載すれば、手頃なモーターサイクルになるのではないか? 宗一郎はヒトとカネをかき集めてエンジンを買い込み、俗に「ポンポン」と呼ばれる小型エンジンの生産に着手した。

ホンダのバイクの歴史とは、小型モビリティから始まる。

より出力の高いエンジンを開発するようになると、それがむしろネックになってしまう。この時代のホンダのエンジンは既存の自転車に外付けするものだったが、もはや自転車のフレームでは強度が追いついていかなくなったのだ。そこで今度は車体の設計を行い、より強いフレームを開発する。ホンダはそれを繰り返し、次々と優れた小型バイクを世に送り出した。

こう書くといかにも順調そうな印象になってしまうが、戦後復興が一段落するとホンダのバイクは徐々に売れなくなっていく。

まず、他の二輪メーカーが台頭するようになった。この業界のプレイヤーはホンダだけではなくなったのだ。そして、50年代前半のホンダは新車種の不振が相次いだ。それらが会社経営を圧迫し、倒産寸前に追い込まれた。

その最中、宗一郎はある「宣言」をした。

世界最高峰の二輪レース・マン島TTレースに出場し、そして優勝するという宣言だ。これはわざわざ文書化されている。

「ブラジル国際レースに挑戦し、外国メーカーとの技術格差を思い知る。そして、技術の戦いが布告される。具体的には、世界最大のレース、マン島TTレースへの挑戦をぶち上げることだ。戦いであるならば、負けてはならなかった。生き残るためにも、勝たなければならなかった。この遠大な戦いは、ホンダ従業員の団結を促進し、技術力を向上させ、商品イメージを高めるために、企業フィロソフィを内外に鮮明に表明する手段であった。」
(『定本・本田宗一郎伝』中部博 三樹書房)

つまり、社内の士気を高めるためにマン島TTレース優勝という目標を設定したのだ。

あまりに無謀な賭けである。いや、無謀な賭けであるように思える。が、我々一般人とプロのエンジニアとでは発想に落差があるということを考慮しなければならない。

3倍の馬力差に唖然

2021年の今では、ホンダが何を製造している会社なのか誰でも知っている。が、50年代はそうではなかった。イギリスにはトライアンフやノートンといった老舗二輪メーカーが存在し、さらにイタリアやドイツのメーカーも毎年最先端のマシンを投入していた。その中に、ホンダは切り込んでいかなければならないのだ。

マン島TTレースに出場すると宣言した以上、まずは実際のレースを視察する必要がある。が、宗一郎は現地で世界のレベルを思い知らされた。同じ排気量なのに、なぜ外国車とホンダ車では3倍もの馬力差があるのか?

本物のマン島TTレースを目撃したあと、宗一郎はヨーロッパ各国でバイク用部品を買い込んだ。所持金が枯渇するほど購入してしまい、そのせいで空港の職員と揉めてしまった。荷物の重量超過分の費用を請求してきたのだ。ある意味で、のどかな時代だった。

レールは「走る実験室」

その後、ホンダは浅間山で開催された第1回浅間高原レースに出場した。

マン島を目指すくらいだから、国内のレースくらいは楽々優勝……と言いたいところだが、そうではない。確かに350ccクラスと500ccクラスでは優勝したが、この排気量は有力なライバルがいなかった。250ccクラスでは2位に甘んじ、125ccクラスに至ってはヤマハとスズキに完敗した。

こんな調子で海外の伝統レースに挑戦するのは、無理があるのでは……と一般人は考えてしまう。が、宗一郎以下ホンダのエンジニアたちはまるで逆の発想を胸に抱いていた。

浅間高原レースは公道レースだが、当時の日本の公道は舗装されていない場合が多かった。つまりダートである。その上、コースの標高は1000m以上もある。空気が薄いとエンジンもパワーを出しにくくなる。悪条件は、バイクの高性能化に貢献した。「いいバイクを作ったからレースに出る」のではなく、「レースに出ればいいバイクが作れる」ということだ。宗一郎は「レースは走る実験室」という言葉を残しているが、浅間高原レースはその典型例だったのだ。

そこへ、朝鮮戦争特需に端を発する神武景気が日本の製造業を後支えした。100社以上も存在した二輪製造メーカーは次々に脱落してたったの数社に絞られたが、その代わりに日本製のバイクは飛躍的な性能向上を果たした。

マン島へ打って出る下地は整ったのだ。

表彰台はホンダが独占

ホンダのマン島TTレース初出場は1959年。宗一郎の宣言から5年が経っていた。

このレースの125ccクラスで、ホンダは6位入賞を果たす。メーカーチーム賞まで獲得した。初出場の新興メーカーということを考えれば、大健闘の結果である。が、二輪業界にとっての本当の衝撃は2年後に訪れた。1961年のマン島TTレースで、ホンダは125ccクラス、250ccクラスの1位から5位を独占してしまったのだ。61年の二輪レースは、文字通りホンダの独断場になった。

ほんの数年前まで、ヨーロッパ各国のモータージャーナリストはホンダのバイクには目も向けなかった。ホンダのエンジニアに対して「あなたたちのマシンは日本製ですか?」と質問していたほどだ。日本人の作ったマシンが近いうちにマン島を制するとは、誰も考えていなかった証拠である。

しかし、その偏見は跡形もなく吹き飛んだ。ジャーナリストたちはこぞってホンダのマシンを追いかけるようになり、宗一郎は時の人となった。

二輪車王国としての日本の飛躍は、ここから始まったのだ。

【参考】
『定本・本田宗一郎伝』中部博 三樹書房
『私の履歴書―昭和の経営者群像〈6〉』日本経済新聞
語り継ぎたいこと ホンダ公式サイト

書いた人

ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。