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2021.03.24

時代を動かした「桜田門外の変」。井伊直弼の不慮の死でなにが起きなかったか

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ときに安政7年3月3日、グレゴリオ暦では1860年3月24日のことでした。井伊直弼(彦根藩主)が、江戸城桜田門外で浪士18人の襲撃を受けました。幕府の大老である直弼が、衆人環視のなか首級を奪われた衝撃的な事件です。

大老を襲うなどという大それた事件に至った事情は複雑です。安政の大獄による苛烈な処分への反発と考えるなら単純ですが、それだけが原因ではありません。襲撃者18名のうち17名を出した水戸藩は、朝廷から水戸藩に下された勅書の返納を幕府に要求され、困惑していたという事情がありました。

きっかけは「日米修好通商条約」

武家政権の頂点には幕府が存在し、朝廷には実権がないけれど、名目上は幕府の上に立ちます。朝廷が幕府を通さずに水戸藩へ勅書を与えただけでなく、その内容を水戸藩から諸藩に伝達するように命じたことは、幕府の存在意義を問うことでした。

朝廷は、開国を嫌っていました。幕府に委任したのは内政だけであって、外交まで任せるとはいっていない、そういう理由で朝廷は不満に思っていたのです。しかし、幕府は朝廷の意向を聞かないまま、日米和親条約に調印しました。

幕府からすると、日米和親条約の調印で開国したとは思っていません。和親条約は薪水給与令=外国船に対する必要最低限の補給を認めた法令の延長上のことでした。伊豆の下田を開港したといっても貿易はせず、外国人居留地も設けず、あいかわらず海禁政策は維持されている……そういう理屈なら開国の勅許は必要ないと主張できます。

しかし、安政5年6月に調印された日米修好通商条約は、貿易の開始、居留地と治外法権の設定、協定関税(関税自主権の放棄)を取り決めた、国を開くための条約でした。それを幕府は勅許なしに調印してしまいました。和親条約調印を朝廷は事後承諾したのだから、今回も……と考えたのでしょう。

無断での通商条約調印=開国に不満を抱いた朝廷は、安政5年7月、幕府に勅書を下しました。しかし一ヶ月ほど返答がなかったため、8月8日に水戸藩へも勅書を下したのでした。幕府の返答が遅れたのは、7月6日に13代将軍の家定が病死したという事情があったからですが、開国を認めたくない孝明天皇としては、国家の一大事でもあり、待っていられません。

武家伝奏万里小路正房、密ニ水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門(知信)ヲ招キ、幕府匡輔ヲ同藩主徳川慶篤ニ命ズル勅諚ヲ授ケ、時艱匡救ノ勅書ヲ三家・三卿・家門・列藩等ニ伝達セシム(『維新史料綱要』巻3 p32より

水戸藩へ下された勅書の内容は、日米修好通商条約に無断で調印した幕府を責め、攘夷実行に向けて幕政改革を推進することを要求していました。そして、それを諸藩に「伝達セシム」ということでしたけれども、先述したとおり、水戸藩が朝廷の意向を諸藩に伝えるのでは、武家政権の頂点たる幕府の立場がありません。このことを重く見た幕府は、水戸藩に対し、勅書を朝廷に返納することを要求しました。

勅書返納の要求は、水戸藩に三つ巴の内紛劇を引き起こしました。一つは幕府寄りのグループ、他の二つは尊皇攘夷派で、一つは返納要求に抵抗の意志を示した激派、一つは返納やむなしとする鎮派です。このうち激派に属した藩士17名が脱藩して浪士となったうえ、薩摩藩から加わった1名とともに、桜田門外の変を起こしたのでした。

井伊直弼「死」の隠蔽

なにせ、行列を組んで登城する大名が襲殺された大事件ですから、隠蔽できるはずもないのですが……

幕府、彦根藩ニ命ジテ藩主井伊直弼ノ横死ヲ秘セシム(『維新史料綱要』巻3 p278より

幕府は彦根藩に対して「しばらく死んでいないことにしておけ」と命じたのでした。大勢が見ているなかで首級が奪われたにも関わらず、翌日には、将軍から直弼に薬用人参が届けられました。

征夷大将軍徳川家茂、特使ヲ彦根藩邸ニ遣シ、朝鮮人参ヲ大老井伊直弼ニ賜フ(『維新史料綱要』巻3 p279より

事件後も「まだ生きている」というフィクションを演出すべく、将軍の特使が派遣されるといった茶番劇があったのです。首がないのだから薬を賜ったところで飲むことは出来ません。ならば、どのように薬用人参を使うのかということで、

——人参で首をつげとの御沙汰かな

詠み人知らずの、こんな川柳があったとか。薬用人参をカスガイにして、首と胴とを接ぎ直せばよかろう……ということでしょうね。直弼の首が切断された事実は、世間に隠しようがなかったのだとわかります。

幕府の本質は、戒厳令下の軍事政権です。夜間の外出を禁じ、夜半の押し込み強盗などは捕らえて吟味する手順を踏まず、その場で斬り捨てて構わないというような、武家政権らしさを300年近く保ってきました。そのような武力による支配を建前にしてきた軍事政権の大老が、武力によって斃されたのではシャレにもなりません。幕府としての面目を保つため「まだ大老は生きている」ことにして事件の幕引きを図ります。

まだまだ長生きするつもりだったのでしょう、直弼は彦根藩の世継ぎを決めていませんでした。跡目を定めていない状態で藩主が死亡したら、その藩は取り潰しです。彦根藩としても直弼が襲殺された事実を認めてしまうわけにはいかず、直弼は病床にあり、息があるうちに跡目を定め、そのあと病死する、そういうシナリオに従わざるを得なかったのです。

この事件によって歴史の流れが変わったともいえません。なにせ「大老は殺されていない」ことにして事件が幕引きとなった以上、襲撃者らの政治的要求は一つも通りませんでした。その後、文久の改革で歴史を動かしたのは、島津久光の政治活動によることです。

「桜田門外の変」でなにが起きなかったのか

さて、直弼が不慮の死を遂げたことで、なにが起きなかったのかを考えて見ます。

まず、開国政策が積極的に推進されたかどうかですが、直弼は開国に積極的だったわけではありません。日本には攘夷を実現できるだけの軍事力がないから、国運を担う大老として、やむなく開国要求に応じていたのです。というのは、直弼が大老に就任する以前、伊勢神宮に攘夷を祈願していることからして、本音が察せられるのです。

また、地理的に京都に近い彦根藩は尊皇色が濃く、戊辰戦争では早い段階で新政府側について旧幕府軍と敵対しました。おそらく直弼の生前は、大老という立場が藩士らを圧倒していたのでしょう。直弼個人も藩組織も本来は尊皇攘夷派だったわけで、直弼は大老として将来の攘夷実現のため暴政を敷いてでも挙国一致体制を築こうとしていたのかと妄想します。

ただし、直弼の力でねじ伏せる強引な政治手法では恨みを買いますよね。よしんば横死を免れたとしても、いずれ失脚は免れなかったことと思います。そういうことで、直弼が生き延びて隠居したとしても、やはり彦根藩は尊皇思想に傾斜したことでしょう。だとすると、たいして歴史はかわらなかったのではないでしょうか。

アイキャッチ画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。