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2021.07.05

『呪術廻戦』で話題沸騰!両面宿儺は鬼神か英雄か。伝説の残る岐阜で探ってみた

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かすかな笑みを浮かべる慈愛に満ちた仏の顔とこらえきれない怒りをあらわにした憤怒の顔。一つの体に二つの顔と表裏2本ずつの手足を持つ鬼神。これは岐阜県高山市丹生川町にある飛騨千光寺の両面宿儺(りょうめんすくな)像だ。彫ったのは江戸時代の漂泊の僧・円空。

アニメ化もされた人気漫画『呪術廻戦』の主人公・虎杖悠仁(いたどり ゆうじ)に憑依した“呪いの王”両面宿儺(りょうめんすくな)は、岐阜県飛騨地方に伝わる伝説の主人公がモチーフとなっている。漫画のおかげで伝説が現代によみがえったともいえるだろう。本来、両面宿儺とは何者だったのか。今に残る伝説や文献をもとにその正体を追ってみた。

両面宿儺って、どんな神様なんだろう?

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『日本書紀』の両面宿儺は略奪を好み、人々を苦しめる悪の権化

両面宿儺の名前が初めて公(おおやけ)に登場するのは現存する日本最古の正史『日本書紀』である。『古事記』とともに『記紀』と称されるが、神話に重きをおくストーリー性豊かな『古事記』に対し、『日本書紀』はオカタイ漢文・編年体(起こった出来事を年代順に記載する)で書かれている。当時は中国語が東アジア世界の国際語で、漢文でないと対外的に認めてもらえないという事情があった。

日本書紀にも両面宿儺が出てくるんだ!

「日本書紀」において、宿儺はどのように書かれているのだろうか。

六十五年に、飛騨國(ひだのくに)に一人(ひとりのひと)有(あ)り。宿儺(すくな)と曰(い)ふ。其(そ)れ為人(ひととなり)、體(むくろ)を壹(ひとつ)にして両(ふたつ)の面(かほ)あり。両各相背(おのおのあひそむ)けり、頂(いただき)合(あ)ひて項(うなじ)無(な)し。各手足(てあし)有り。其(そ)れ膝(ひざ)有りて膕(よほろ)踵(くびす)無し。力(ちから)多(さは)にして軽(かろ)く捷(と)し。左右(ひだりみぎ)に剣(つるぎ)を佩(は)きて、四(よつ)の手に並(ならび)に弓矢(ゆみや)を用(つか)ふ。是(ここ)を以(もっ)て、皇命(みこと)に随(したが)はず。人民(おおみたから)を掠略(かす)みて樂(たのしび)とす。是に和珥臣(わにのおみ)の祖(おや)難波根子武振熊(なにはのねこたけふるくま)を遣(つかは)して誅(ころ)さしむ。『日本書紀 上』日本古典文学大系 岩波書店刊行

え! 歴史上最初に書かれた両面宿儺って、神様じゃなくて人間だった!?

飛騨国に宿儺が現れたのは、初代・神武(じんむ)天皇から数えて16代目に当たる仁徳(にんとく)天皇の治世65年目のこと。体は一つで二つの顔を持ち、その顔はそれぞれ反対方向を向いていた。頭頂部で一つになり、うなじがなかった。それぞれに手足があった。膝はあったが、その裏のくぼんだ部分とかかとがなかった。力はたいそう強く、敏捷だった。左右に剣を帯び、四本の手で弓矢を使った。天皇に従わず、人民を略奪して楽しんでいた。そこで(天皇は)、和珥臣の祖とされる難波根子武振熊を遣わして、宿儺を殺させた。

漢字のみだとわずか84文字に過ぎないが、宿儺のインパクトは強烈だ。たぶん、一族の長的立場にあったのだろう。戦闘能力は並外れて高く、たいそう強い。最期は天皇が差し向けた難波根子武振熊によって成敗されてしまうのだが、飛騨に残る宿儺伝説は『日本書紀』とは異なる宿儺の姿を伝えている。

飛騨の両面宿儺は観音さまの化身 ドラゴンも退治する正義の味方

普門山善久寺(高山市丹生川町) 中国風コスプレの端正な仏法の守護神

高山市から奥飛騨温泉郷に通じる国道158号沿い、丹生川町日面(ひおも)に「普門山善久寺(ふもんざん ぜんきゅうじ)」はある。住職の近藤洋右(こんどう ようう)さんによれば、元は真言宗だったが江戸時代に曹洞宗に改宗したという。善久寺には宿儺の出現の様子を詳しく伝える『両面宿儺出現記』が遺されている。

仁徳天皇の時代、日面(ひおも)村の出羽が平の山上が大鳴動し、岩壁が崩れて岩窟が生じた。その岩窟の中から、二面四手四脚、身の丈6メートルの両面宿儺が甲冑を帯び、手に鉞(まさかり)を持って忽然と出現した。山の畑で仕事中だった村人たちはこれを見て大いに恐怖し、逃げ散ろうとした。すると宿儺は大声で告げた。「恐れることはない。我は今、仏法守護、王法一大事のときであるので、この世に出現したのだ。現世に奉仕する者なのだ」村人が逃げ惑うなか、1人の男が踏み止まり、宿儺に平伏再拝して、こう述べた。「尊者の命に服したいのですが、お体が大きいので狭い我が家に招くことができません。」すると宿儺は印を結び忽然と小身となり十一面観音に変化した。男はこれを大切に抱いて日面村に帰り、接待したのち、庵を建てて宿儺に仕えた

こちらでは神様としての扱いなんですね。

日中に山が鳴動し、大魔神のような超ビッグサイズの神が現れたらそりゃあだれもがびっくりするだろう。自ら仏法の守護神を名乗り、体の大きさを自在に変えられるなど神通力も備わっていた!

両面宿儺像は善久寺の本堂に安置されている。作者や制作年代は不明だが、エキゾチックな香りのする端正な顔立ちの武人像だ。

端正で柔和な姿。コスチュームは中国風。手にはまさかりを持っている 善久寺蔵
わ! かっこいい!

怒りをあらわにした姿。仏法を犯そうとするものを威圧しているようにも見える 善久寺蔵

善久寺から少し下った所に御膳石と呼ばれる石がある。戦いに出る前、宿儺は村人に迷惑がかかるのを恐れ、この石を膳にして食事をしたとされる。善久寺に伝わる宿儺は思いやり深いイイ人だった。

ところどころに窪みが残る御膳石。善久寺から下に降りた道の脇にある

善久寺住職の近藤洋右さん。

普門山善久寺

善久寺からほど近い飛騨大鍾乳洞の向かいの山の中腹に、宿儺が出現したとされる両面宿儺洞窟がある。かなり険しい場所のようで、近藤住職によれば洞窟の奥にも宿儺像が安置されているとのこと。弘法大師が両面窟で宿儺の供養をしたとも伝えられている。平成13(2001)年から丹生川町では毎年11月に「飛騨にゅうかわ宿儺まつり」が開催されており(コロナにより昨年は中止、今年は未定)、同19(2007)年までは大鍋を使った宿儺鍋がふるまわれていた。その際、太陽から集めた自然の火をランプに入れて持ち帰り、着火するのに使っていたという。宿儺は地元の観光大使なのだ。

なんだか自然と人や、人と人とを繋いでくれるような両面宿儺さま。

袈裟山千光寺(高山市丹生川町) 両面宿儺が開山し、4体もの宿儺像を祀る

善久寺から国道158号を車で約30分ほど西へ行った所が袈裟山千光寺(けさざん せんこうじ)の入山口だ。深緑でむせかえりそうな山道を車で登っていくと、そこはもう別世界。標高約千メートルの山上は夏でもかなり涼しい。うっそうとした緑が町の喧噪(けんそう)を遮(さえぎ)り、人界と隔てられた仏法修行にふさわしい場所だ。その千光寺に今、若い宿儺ファンが押し寄せている。同寺は約1600年前、仁徳天皇の時代に宿儺が開山したと伝えられ、4体もの宿儺像を祀っている。

漫画やアニメから昔の歴史や文化が盛り上がる。とってもすてき!

千光寺の境内から見える飛騨の山々。下に見えるのは約450年ぶりに再建された極楽門(仁王門)。『千光寺記』によれば両面宿儺は仏法の契約によって出現し、袈裟山の山頂で『妙法蓮華経』(法華経)や袈裟(僧侶が出家者として身に着ける法衣)を掘り出し、寺の名を袈裟山千光寺としたと伝えられている。

千光寺の本堂。仏教寺院としては約1200年前に弘法大師の弟子・真如親王(嵯峨天皇の皇子)によって真言密教の飛騨祈願所として建立された。最盛期には19もの伽藍や院坊が立ち並び、隆盛を極めたという

住職の大下大圓(おおした だいえん)さんは、「漫画やアニメで宿儺を知って来られた方は、宿儺像がとても優しいお顔をされているので驚かれます」と言う。慈愛に満ちた穏やかな表情の裏に激しい憤りあふれる憤怒の形相を併せ持つ両面宿儺は慈悲の心と共に、一切の煩悩や誘惑に討ち勝つ強さを持った仏さまとして表現されている。長きにわたり、宿儺信仰を伝えてきた飛騨の人々の心を大切に語り継いでいきたいと、大下住職は語る。

千光寺住職・大下大圓さん

本堂横の「宿儺堂」には4体のうちの1体が祀られている。制作年代や作者は不詳だが、自然石で作られた巨大な宿儺像だ。背面の像が印を結んでいるのは、他には見られない特徴である。宿儺は信仰の対象であると同時に、修行者だったのかもしれない。

正面から見た両面宿儺像。手にまさかりを持っているのは飛騨の開拓者を表していると大下住職。

印を結んでいる背面の像。右手が大日如来の慈悲を表す胎蔵界(たいぞうかい)、左手が大日如来の智慧を著す金剛界(こんごうかい)を示しているとされる。千光寺蔵。「宿儺堂」の内部特別公開は11月までの毎週土・日・祝日。拝観料100円
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同寺は江戸時代、漂泊の僧・円空が滞在した寺としても有名だ。円空仏寺宝館には63体もの円空仏とともに、3体の宿儺像が期間限定(~11月)で毎週土・日・月・祝日、公開されている。千光寺に残る宿儺像を見ていると、信仰の持つ重みがずしんと心に響く。

円空が彫った宿儺像。県指定有形文化財。木端神を彫ることで人々を救おうとした円空は、伝説の両面宿儺の中に仏性を見たのだろうか。ノミの彫り跡が力強く、とてもあたたかいものを感じる。円空は一つの体に二つの顔を持つ者として宿儺を表現している 千光寺蔵

嘉永7(1854)年、高山の仏師・大坪東平により作られた。通常は本堂内に納められている 千光寺蔵

制作年代不詳。明和9(1772)年、仏師・野田与三八が修復 千光寺蔵

円空仏寺宝館 ~11/30までの土・日・月・祝日 9:30~16:30開館

宿儺の鬼退治?! 飛騨一宮水無神社のご神体山・位山に残る古伝説 

さらに南に下ると、高山市の南西部にある飛騨一宮水無神社のご神体山とされる位山(くらいやま)にも宿儺に関連した古い伝説が残っているようだ。

宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺となっており、水主の神の坐す聖域、神体山として古来より霊山として名高く、当神社の奥宮と称しています。位山の山中には巨石群があり、大石を以て何かを築いたといわれたり、初期の古墳のようであり、ドルメン(支石墓)のようでもあるなど様々な説がありますが、何かの神秘的な霊場であったと考えられています。また位山の主の宿儺(すくな)が雲の波を分け天船に乗って位山に来たという古伝説もあり、位山が古代において何か宗教的な神秘性を持ち、位山の神秘性が宿儺という人智を超えたものに凝固したと見る説もあります。 飛騨一宮水無神社HP 奥宮位山より

このほか、江戸時代の享保(きょうほう)年間に飛騨の代官だった長谷川忠崇(はせがわ ただたか)がまとめた「飛州志(ひしゅうし)」によると、位山には七儺(しちな)という名前の鬼がいて、宿儺が天皇の命で七儺を退治したという話も伝わっている。ちなみに宿儺の“儺”には鬼を追い払うという意味がある。

飛騨一宮水無神社

美濃にもある! 関・日龍峯寺の神龍を退治した両面宿儺 

岐阜県は飛騨と美濃に分かれているが、宿儺の足跡は美濃にまで及んでいた。

美濃地方北中部にある関市には、宿儺が神龍退治をしたという伝説の寺がある。高澤(たかざわ)観音ともよばれる大日山日龍峯寺(だいにちさん にちりゅうぶじ)だ。関市下之保にある高野山真言宗の寺院で、大みそかにはNHKの「ゆく年くる年」で除夜の鐘が流れるお寺としても有名である。標高283mの所にあり、夜になれば降るような星空を仰ぎ見ることが出来る。岐阜県最古の寺で、京都の清水寺を思わせる舞台造りはすばらしく、「美濃清水(みのきよみず)」とも呼ばれている。鎌倉時代、日照り続きで困っていたところ、北条政子の夢に神龍が現れ、「法華経を書写し供養して日龍峯寺にある池に入れれば雨が降るであろう」とのお告げがあった。そこでそのとおりにしたところたちまち雨が降り、政子の寄進を受けて再興されたが、応仁の乱で堂宇の大半を焼失。江戸時代に現在の姿となった。同寺は美濃から飛騨に至る道筋にある。

この日龍峯寺にも宿儺伝説が残っている。

仁徳天皇の時代(五世紀前半)、飛騨の国に両面宿儺という豪族がいた。両面宿儺は当地の豪族として権勢を誇っていた。この異人天皇の叡聞(えいぶん)に達し都に上り、御対面した。その帰り、美濃加茂野ケ原(かものがはら)で休憩していると、どこからともなく鳩二羽が不思議なさえずりをなして、高沢の峰に飛び去った。異人不思議に思い里人に尋ねると、『高沢の山脈に池あり、神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす』と聞き、はるかの峰に登り大悲の陀羅尼(だらに:呪文の一種)を唱え神龍を退散させこの峰に寺を開創したという。日龍峯寺のHPより

また本堂の前に生えている千本桧(せんぼんひのき)は宿儺が登山に使った杖を刺したものといわれ、枝葉が茂る巨木となっている。

大日山日龍峯寺の本堂と千本桧。昔はもっとこんもりとして樹形も美しかったが、落雷などで今の姿になったという
美濃の両面宿儺は英雄なのですね!

宿儺はここに住んでいたわけではなく、天皇に謁見した帰りに立ち寄ったらしい。43代住職の室賀経秀(むろが きょうしゅう)さんによれば、宿儺が一休みしたという美濃加茂野ケ原は現在の美濃加茂市加茂野町で、寺から見えるという。「宿儺像は元々は秘仏として公開していませんでしたが、父の代から年に一度、11月の第3日曜日10時から御開扉しています。中国風の甲冑を身に着けたお姿で、色彩も鮮やかに残っています」とのことだった。

日龍峯寺の宿儺像は仏法を守る四天王の像を思わせる。ふくよかでりりしく、まだ少年期をいくつも脱していないかのように見える。片手に斧を持った姿は宿儺の定番になっているようだ。宿儺の龍退治にちなんで、近くには退治した龍の尾が立った「大立(おおだち)」、龍の血が流れた「血野(ちの)」などの地名が残っている。さらにこの時、龍の血を吸ったヒルはすべて死んでしまったので、今もこの地域にヒルはいないのだそうだ。


長い間秘仏とされてきたため保存状態が良く、退色はあまり見られない。 日龍峯寺蔵。

第43代住職の室賀経秀さん。毎年10月にはムーンライトコンサートなども行っている

両面宿儺が彫ったとされる聖観音菩薩立像

関市にはもう一軒、宿儺伝承が残る寺がある。それは関市肥田瀬(ひたせ)にある曹洞宗の金龍山曉堂寺(きんりゅうざん ぎょうどうじ)だ。案内板によれば、仁徳天皇の治世に、飛騨の国八賀の里に住む人(両面宿儺・両面僧都[そうづ])がこの地にやって来た時、夢枕に立った金龍のお告げに従って、五穀豊穣・国土の安穏・民の和楽を祈願しつつ、等身大の聖観世音菩薩立像を彫り上げたとされる。この観音さまは秘仏で、関で最も古い仏像の一つとして市の重要文化財に指定されている。日龍峯寺の観音像と同じ木で彫り上げたという言い伝えがあるそうだ。また境内の脇には両面宿儺の舎人(とねり)和可の髪を埋葬したとされる「若塚」がポツンと残されている。

日本書紀で描かれた姿からは想像できない、とても穏やかな両面宿儺伝説ですね。

伝説と史実の狭間で見えてくる宿儺像

『日本書紀』の宿儺はなぜ悪役なのか

このほか飛騨と美濃の境である下呂市金山町には、空を飛んでやって来た両面宿儺がこの地に杖を休め、37日間大陀羅尼というお経を読んで国家安全・五穀豊穣を祈った後、自分を討ちに来た難波根子武振熊を迎え撃つため、関市の高沢山へ飛んで行ったという伝説があり、村人たちはこの山を鎮守山と呼んで観音堂を建て、お祀りしたという伝承が残っている。

こうしてみると飛騨から美濃北部にかけての広範囲にわたり両面宿儺の伝説が残されていることがわかる。その大部分は仏法の守護神として、あるいは飛騨の英雄として語られてきた宿儺像だ。『日本書紀』で悪役とされたのは、天皇に従属することをよしとしなかったからではないだろうか。

立場によって物の見方が180度異なる……とても考えさせられます。

国造りの一環として編纂された歴史書『日本書紀』

養老4(720)年に完成した『日本書紀』は、天武天皇の命で編纂(へんさん)が始まり、完成までに約40年を要したといわれている。全30巻の大作で、ほかに系図1巻があったと考えられるが、系図は伝わっていない。そのねらいは、強大な中国に日本が天皇を中心とする中央集権国家であることをアピールすることであった。

この点について、横浜市歴史博物館館長で國學院大學名誉教授の鈴木靖民氏は次のように述べている。

「天武天皇が編纂を命じたのは、壬申の乱に勝って国家の枠組みを整えつつあった時期です。7世紀末から8世紀初頭の時期は、集中的に東アジア全体で動きがありました。『日本書紀』という単なる歴史書の編纂だけが進んだわけではないのです。重要な国作りの一環として歴史書が重視されてきたといえるのです」  出典:國學院大学メディア「なぜ『日本書紀』は日本を名乗るのか」

朝廷にとって、宿儺の討伐は国造りの一環として必要なことだったのだろう。そして、都から遠く離れた飛騨の地の人々を従わせるためにわざわざ軍を動かしたという事は、ほかにも理由があったはずだ。豊かな山林や森に囲まれた飛騨には古来、「飛騨の匠」と呼ばれる優れた木工技術集団がいたことは周知の事実である。仏教が日本に伝来し、多くの寺院や建物を建てるために彼らの力が必要とされ、飛騨はぜひとも支配下に置きたい国の一つだったにちがいない。飛騨の工人たちの中には都に住み着いて出世した人もいれば苛酷な労働に耐えかねて逃げ出す人もいたようだ。

1つの現象には単純な1つの原因だけがあるのではない……両面宿儺の伝説から、いろいろな学ぶべきことが見えてくる気がします。

乗鞍山麓に伝わる原始太陽信仰と宿儺

ここからは私の想像だが、本来の宿儺伝説は少なからず原始的な太陽信仰と関係があったのではないだろうか。伝説に残る宿儺出現は天岩戸神話を想起させ、出現の地は日面、小八賀川(こはちががわ)を挟んでその反対は日影という。そして有名な観光地・乗鞍岳は東南の方角にあたる。乗鞍岳は海抜約3026m。大昔は愛宝山(あわやま)、位山と呼ばれ、剣ヶ峰と摩利支天岳の間には不動明王像が祀られるなど、修験道の霊山でもあった。天和3(1683)年には円空が岐阜県側の平湯から初登頂し、魔王岳と摩利支天岳(まりしてんだけ)を開山したと伝えられる。朝日に照らされた冠雪の乗鞍岳の姿は本当に神々しく、思わずひれ伏したくなるほどの感動を覚える。雪深く冬が長い飛騨に暮らす人々にとって、太陽の光は何物にも代え難い天の恵みであったことだろう。

また、宿儺伝説が残る小八賀川流域には「伊太祁曽(いたきそ)」という変わった名前の神社が集中しているが、これらは江戸時代の文書では「日抱尊(ひだきそん)宮」と書かれていたとある。同名の神社が和歌山県にあるが、両者の関係はわからない。日を抱く神とはなんだったのだろう。宿儺はどんな役割を果たしていたのだろうか…

宿儺伝説は本当に奥が深く、掘り下げるとキリがない。

岐阜県高山市と長野県松本市にまたがる。主峰は剣ヶ峰
3026m。飛騨側から見た山の姿が馬の鞍に似ていることから乗鞍岳と呼ばれるようになった

今もなお、飛騨人の心に息づく両面宿儺

ところで高山には「宿儺カボチャ」という農産物がある。古くから丹生川周辺で栽培されてきた伝統野菜で、西洋カボチャの一種だ。ヘチマのように細長く、すべすべした薄い緑色の表皮が特徴で、およそカボチャらしからぬ形をしている。果肉の色は濃く、肉厚。ホクホクした触感で甘みがある。宿儺のように長く人々に親しまれることを願って名付けられたという。

宿儺カボチャ。ホクホクしておいしい

また「宿儺の湯」と名付けられた温泉もあることから、ぜひ高山に行かれたら立ち寄っていただきたい。実在したかどうかは別として、飛騨人の心には今もなお、両面宿儺が生きていることが感じ取れるだろう。

おいしいカボチャを楽しみながら、両面宿儺のことをもっと知ってみたくなりました!

▼わかりやすい日本書紀
マンガ遊訳 日本を読もう わかる日本書紀(1) 神々と英雄の時代

和樂web編集長セバスチャン高木による解説はこちら

【取材・撮影協力】
善久寺:岐阜県高山市丹生川町日面285 TEL:0577-79-2148
千光寺:岐阜県高山市丹生川町下保1553 TEL:0577-78-1021

日龍峯寺:岐阜県関市下之保4585 TEL:0575-49-2892

【参考文献・HP】
『日本書紀 上』日本古典文学大系 岩波書店
『位山匠の道とヒダの古代』宮村教育委員会
『飛州千光寺記』
飛騨一宮水無神社』HP
『濃飛古代史の謎 水と犬と鉄』尾関 章 三一書房刊
『両面の鬼神 飛騨の宿儺伝承の謎』勉誠出版刊 尾関章
『幻の美濃・飛騨王朝を追う』濃飛伝承懇話会
『両面宿儺』『千光寺』 千光寺刊
『両面宿儺洞窟』パンフレット

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。