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2021.07.09

誰がいつ着想したのか。「廃藩置県」までの流れを辿る

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2021年は廃藩置県150周年にあたります。大名が地域を支配する「藩」という仕組みを廃止して、代わりに県を設置したのが廃藩置県でした。

廃藩置県は、お役所の看板を架け替えただけのことではありません。それまで各藩が握っていた土地・人民からの税収を、国庫に納めさせるようになったのです。

各藩の領有権を召し上げてしまおう。

そのように考えついたのは誰で、いつ頃のことなのか、実をいうと、私にもわかりません。

領地の支配権が変わる

戊辰戦争で徳川家が恭順したあと、旧幕府直轄領は新政府に接収されました。そして、江戸府などの「府」と、旧幕府代官が治めていた地域には「県」が設置されました。それと全国の各藩とをあわせて「府藩県三治制」が暫定的に施行されています。

全国の各藩は、江戸幕府に地域支配の権限を認められることで成り立っていました。大政奉還によって幕府がなくなってしまえば、各藩は地域を支配する根拠を失います。明治2年(1869)に各藩の領土と戸籍を朝廷に返上する「版籍奉還」がおこなわれたのは、それゆえです。

いったん各藩から朝廷に返還された支配権は、とりあえずは各藩に戻されました。各藩の藩主は「知藩事」となり、引き続き各藩を統治します。ただし、建前上、全国の領地の支配権は朝廷に移っており、各藩は地域支配の権限を一時的に預けられたというカタチです。実質面でも各藩の財政や統計の報告が命じられたのは、旧来の幕藩体制と異なります。

それぞれの領土から得る税収も、建前上は朝廷のものとなりました。そして、その税収から支払われる全国の士族への俸禄も、朝廷から支払われる建前になりました。

武士にとっては俸禄を支払う者こそが主君です。つまり、それまでの武士は大名の家来でしたが、版籍奉還のあとは朝廷の臣下になったのです。これは大きな意味があって、新政府が各藩から人材を吸い上げようとしても、各藩は拒否できなくなったのです。

版籍奉還から廃藩置県へ

このように版籍奉還の意義は、けして小さくはないのですが、各藩から朝廷に返上した支配権を、あらためて各藩に戻した……つまり幕府に代わって朝廷が各藩に君臨することにはとどまらず、明治4年から藩をなくして県を設置する廃藩置県が始まりました。

版籍奉還から廃藩への流れは、あれよという間に、そうなっていったという印象があります。しかし、実際には相当な覚悟がなければ出来ないことでしょう。

かつて幕府は国家の中枢でしたが、大名や旗本の個別領有権を通じて全国を支配していたので、統一政権ともいえません。年貢をとるために必要な人別帳などは地域ごとの管理に委ね、幕府は直接管理していなかったからです。それを全国一律に政府の管理下にしようとするのだから大仕事なのです。

各藩の領地は一箇所で地繋がりになっていたとは限りません。あちこちに飛び領地を持っている例は、枚挙に遑がないほどです。たとえば、駿河国の田中藩は現在の千葉県北西部に飛び領地を持っていて、流山市役所が位置するのは、田中藩の陣屋が置かれていた跡です。さらにいうと、モザイク状に各藩の支配権が入り組んだ地域もあって、隣り合う村が異なる条件で納税していたりする事例も少なくありません。それを全国一律にしてしまおう、というのが廃藩置県の骨子でした。

この「藩をなくす」という構想が現実味を帯びてくるのは、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が一敗地にまみれたあとでした。

1月11日に神戸で起きた外国公館に対する発砲事件を処理するため英公使パークスとの面会に赴いた伊藤博文が、英公使館通訳のアーネスト・サトウと雑談したなかに、廃藩置県の構想が垣間見えます。

伊藤はまた、次のように語った。長州は、小倉(下関海峡の南岸にある)及び石見の国で攻略した土地を天皇に献納した。桂(木戸)と自分は、長州がさらに一歩を進め、長州一門の扶養に必要なだけを残して、土地も家来も財産もみんな天皇に返上することを希望している。もし大名全部がこれにならうならば、現在の制度では望み得ない有力な中央政府ができ上がるだろう。大名がみな勝手に助力の手を差し控えたり、各藩の大名がまちまちの流儀で軍隊の教練をやったりするのを放任するかぎり、日本は強国にはなり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰りかえされた。弱小な諸侯は、より強大な者に併合されるほかはないのだ。徳川に味方した四国の松山と高松の大名は、これを滅ぼして、その土地を天皇の領地に編入する。土佐がこの役目を引き受けると言っているので、その処置は土佐藩の手に一任されている。兵庫から数マイル西にある姫路に対しても、官軍はおそらくこれを攻撃するだろうと。

アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』下 岩波文庫 p139

まさに木戸孝允が廃藩置県、そして中央集権化を意図していたことが示されています。ただ、この着想は、木戸や伊藤が、その場で思いついたことではなさそうです。この話しぶりからすると、ある程度まで纏めておいた考えを披露しているように思えます。

「廃藩置県」で何が起きなかったか

今回の「何が起きなかったか」は、版籍奉還のあと新政府が各藩の所領を安堵することです。所領安堵とは、主君が臣下の個別領有権を承認することです。つまり、旧幕府に保証されていた領有権を、いったん朝廷に返上します(版籍奉還)が、そのまま新政府からの保証に切り替えて、新体制が発足するんじゃないかと、たいがいの藩が考えていた様子でしたが、廃藩置県が断行されて「藩」は消滅したのです。

誰が、いつ「藩をなくそう」と発案したのかを、その源流まで辿っていくためには、あらゆる史料を洗いざらい調べ、着想の断片を精査していくほかないでしょう。私も、今後の研究の進捗に期待しています。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。