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2023.08.22

紫式部を3分で解説! 実は『源氏物語』作者は苦労人だった?

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『源氏物語』といえば、今から約1000年前の平安時代に書かれた世界最古の長編小説。その作者が紫式部(むらさきしきぶ)です。2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、吉高由里子さんが演じます。

紫式部って、ちょっと変わった名前ですよね。本名、それともペンネーム? その正体は、『源氏物語』の主人公光源氏と同じ平安貴族だったのでしょうか?
紫式部にまつわるトリビアとともに、その実像に迫ります。

紫式部は貴族の女性、本名は不明

紫式部は平安中期に宮廷で活躍した貴族の女性です。当時は男性が読むものとされた漢文の書物を読みこなし、弦楽器の一種である筝(そう)の腕は師範級、和歌が上手なことでも有名だったという紫式部。父親から「男だったら」と惜しまれたというエピソードも伝えられています。でも、もしそうだったら『源氏物語』は誕生していないかもしれませんよね。

『源氏物語』がなかったら生きていけない……紫式部が女性で良かった!

紫式部の父親は、学者で詩人の藤原為時(ふじわらのためとき)。平安時代には男性が女性を訪ねる「通い婚」が普通で、子どもは母方で育てられる習慣でしたが、紫式部は母親を早くに失くし父親のもとで育てられました。家にある歌集や書物を読みつくすほどの本好きだったという紫式部。もしかしたらその才能は、一族に有名な歌人が多かったという父親の影響や、環境によって磨かれたのかもしれません。

ところで、紫式部というのは本名ではなく通称。『源氏物語』のヒロイン紫の上と、父親の役職だった式部丞(しきぶのじょう)にちなんでつけられた呼び名です。『源氏物語』で有名になる前は、藤原という姓から一字をとって藤式部と呼ばれていたとも。名前には霊的な力があるとされ、平安時代にはめったに本当の名前は口にしないものでした。そのため、紫式部の本名は伝えられていません。

▼光源氏のプロフィールはこちらでご紹介しています!
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本業は天皇の后に仕える女房

平安時代に『源氏物語』を書いた紫式部ですが、作家はいわば副業。本業は一条天皇の中宮(正妻にあたる位)彰子に仕える女房でした。紫式部の才能を見込んだ藤原道長から、娘である彰子に和歌などを教え導く係として大抜擢されたのです。

光源氏の恋愛模様を描いた物語は、紫式部の職場である宮中でひっぱりだこになりました。その評判はやがて一条天皇の耳にも届きます。天皇が「源氏物語の作者には日本書記の教養がある」と称賛したことから、「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)」というあだ名もつけられたとか。

ちなみに平安時代の女房というのは、男性が妻を指していう言葉ではなく、宮中で働く貴族の女性のこと。局(つぼね)というのは、個室を与えられたベテランの女房を指す言葉です。

▼紫式部のキャリアライフに関する記事はこちら!
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ライバルは清少納言!?

紫式部が仕えたのは一条天皇の中宮(后)、彰子。のちに有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば(この世界は私のためにあるようだ、夜空の満月のように欠けたところがない、完璧な世界よ)」という歌を詠んだ藤原道長の娘です。

けれども実は、彰子より前に一条天皇の中宮の座についていた女性がいました。それが『枕草子』の作者である清少納言が女房として仕えていた女性、定子です。
定子の父は藤原道長の兄で関白だった藤原道隆。しかし父が急死し実兄が後継争いで道長に敗れると、定子の立場は危ういものとなってしまいます。

政治的な理由で、周囲が壊してしまう愛。

当時の藤原家は娘を天皇に嫁がせて生まれた子を次の天皇にし、摂政関白として政治の実権を握るというスタイルで権力をほしいままにしていました。天皇に愛された女性たちの背景には、常に政治的な駆け引きがあったのです。
彰子に仕えた紫式部と定子に仕えた清少納言。実際にはふたりが宮仕えをした時期はずれていて、宮中で顔を合わせることはなかったと考えられます。それでもいろいろな意味でライバルのような間柄だったに違いありません。

▼2人の妃、定子と彰子のストーリーはこちら
初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯

栄光の影に、若き日の苦悩

天皇の后に女房として仕え、人気作家となって後世に名を残した紫式部。そこだけ切り取れば華やかすぎるほどの人生ですが、その若き日は苦労の連続だったという意外な一面があります。
母親を早くに失くし父親に引き取られますが、かつては有力貴族だった父親の一族はそのころには衰退していて、ついには父親も失業。娘盛りだった紫式部に有力な後ろ盾はなく、もしかしたら家で本を読んで過ごすくらいしかできなかったのかもしれません。

どんな時でも、本は私たちに寄り添ってくれますよね。

その後、越前守として赴任することになった父親とともに、紫式部も京を離れ北国へ。しかし冬の厳しさに驚いて京へ戻ります。そして、20歳以上も年が離れていたと思われる、父親の上司だった男性のもとへ後妻として嫁ぐのです。やがて娘を授かりますが、女性関係が派手で妻子を顧みることが少なかった夫のせいで、寂しい日々を過ごすことに。しかもその夫にも数年で先立たれてしまうのです。
人生の苦さや儚さを知った紫式部が、筆を執って書き始めたのが『源氏物語』でした。

本朝名異女図鑑 紫式部 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

かな文字で「あはれ」を書いて大ヒット

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり……。
(いつの時代のことか、帝に仕えるたくさんの女性たちの中に、特に高貴な身分ではないものの、たいそう帝に愛されている女性がいました)

源氏物語の冒頭は、シンデレラストーリーを思わせる一文で始まります。帝に愛されたのは主人公光源氏の母親。けれども後宮で嫉妬と羨望にさらされ、光源氏を生んだ後であっけなく亡くなってしまいます。

源氏物語絵巻 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

『源氏物語』は「もののあはれ」を書き、『枕草子』は「をかし」を書いた文学である、といわれます。どちらも現代語でぴたりと訳すのは難しいのですが、「あはれ」というのは物事にふれたときに心にわき起こるしみじみとした情感、「をかし」は興味をひかれるような趣のあるさま、美しさや愛らしさをあらわす言葉です。

『源氏物語』と『枕草子』には、平和な時代が比較的長く続いた平安中期に、女性がかな文字で書いたという共通点があります。
平安時代に漢字を崩したかな文字が生まれると、やがて貴族の女性の間で心情を書き残すことができる言葉として使われるようになりました。

『源氏物語』は一言でいえば、光源氏の奔放な女性遍歴がおもしろい恋愛物語です。長い時代の流れの中では、刺激的なだけのゴシップ小説だと批判されたこともありました。にもかかわらず写本がたくさん作られ、読み続けられてきたのはなぜでしょうか。
今でも多くの小説家や漫画家が現代語版を手掛けていますので、ぜひ手に取ってみてください。
きらびやかに見える貴族社会の光と影、赤裸々な人間ドラマが描きだす揺れる心……、紫式部が書いた物語は1000年たっても色あせることなく、世界20カ国以上で翻訳されて読み継がれています。

▼紫式部をQ&Aでもっと知る!
Q&Aで知る紫式部。永遠の流行文学『源氏物語』はこうして生まれた!

参考書籍:
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
全文全訳古語辞典(小学館)
デジタル大辞泉

▼和樂webおすすめ書籍
誰も教えてくれなかった『源氏物語』本当の面白さ (小学館101新書)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。