はじめに
明治時代には、米欧列強のアジア進出のことを「西力東漸」(セイリキトウゼン)と呼びました。インドのムガール帝国がイギリスの侵すところとなり、その東にあるビルマもまた独立の実態を失い、インドシナ半島は仏領に組み込まれ、北からはロシアがシベリアを呑み込んで沿海州まで手を伸ばすに至りました。
世界の東の果てと呼ばれた日本とて、幕末には「西力」が及びはじめ、このままではイケナイと明治維新を迎えたのでした。この場合、朝鮮国や清国とは仲良くして、列強に対抗した方が良いに決まってるんですが、なかなかそうは行きませんでした。
イギリスやフランスはアフリカの喜望峰を経由してインド洋を横断し、マラッカ海峡を経て西太平洋に出ます。西洋の軍隊は物凄く強いけれども、数は多くないのであります。だから、極東の三つの国が連盟したら、見通しは明るいハズですけれども、実際には戦争するほどこじれてしまいました。どうして、そうなったのか……?
征韓論と日清韓の関係
日清韓(朝鮮国は「韓国」ともいいました)の三角関係がこじれちゃったことは、【岩倉具視の回】の「征韓論争」で書いたので、どうぞそちらを御覧ください。かいつまんでいうと、日本は米欧列強と不平等条約を結ばされたことがトラウマになったせいで「万国対峙」をスローガンに掲げます。世界万国みんな平等が良いという理想論ですね。それで明治4年に清国との間に対等条約を締結しました。日本と清国では大きさも人口も全然違うけど”対等”ということにしました。でも、清国は、朝鮮国を冊封国だと思っていて、朝鮮国も清国を宗主国だと思っていたものですから、朝鮮国からすれば日本ごときが清国と対等などとは嗤わせやがるぜ、というわけです。そうした感情のもつれがベースにあって、日本への反感が芽生え、そのボールが跳ね返って、日本では征韓論争に至りました。
台湾出兵
明治4年に琉球王国に属する八重山島民が台湾に漂着した際、台湾人に殺害される事件がありました。また、明治6年には岡山県の船員が台湾に漂着した際、略奪を受けました。それらを理由に、日本は明治7年に台湾へ出兵しました。
このことに琉球帰属問題が関わってきます。琉球王国が清国に従属する冊封国だとするならば、日本政府が八重山島民殺害事件に関与する理由がありません。しかし、清国側は台湾を”化外の地”つまり、統治が及ばない地域であると主張して責任を回避したので「それじゃあ台湾に軍隊を出しても文句いわないでよね」という具合に、日本は3000の兵を台湾に送り、先住民を制圧していきました。ところが、日本軍の戦死者12名に対して、マラリアによる死者は561名だったのです。当時はマラリアが原因不明の風土病とされ、台湾総督府警務局衛生課編『マラリア防遏誌』(昭和7年)によると、病因は「沼沢地より発散する瘴気に依りて惹起する」と考えられていたので「何等の予防方法を講ずるものなかりき」という有り様で、台湾に出征した軍人・軍属およそ6000に対し、発症者はおよそ16,000人とされます。1度の感染で2度、3度と症状が現れるためでした。陸軍に後方支援の能力が足りず、3000の兵を養うため、軍の外部から募集する3000の軍属(多くは輸送に従事する軍夫)が必要とされたのは自己完結を求められる軍事組織としては欠陥ですし、疫病によって戦力を弱体化させたのは大失態です。当時の日本にとって大規模な外征が困難だったことを露呈したのでした。
さすがに清国は台湾出兵を座視できず、日本に撤兵を要求します。大久保利通が清国と交渉して償金50万両を得ましたが、肝心なことは、「日本人である八重山島民が殺害された」という理由で、清国から日本に賠償金を支払ったわけで、琉球が日本に帰属することを国際的に確認したという意味を持ちます。清国としては面白くないことですよね。
日朝修好条規
日本の征韓論争は、外交問題より国内の発展を優先させるべきだとする内治派が勝利して、朝鮮国との国交問題は「ひとまず脇に置く」ことになっていたんですが、台湾出兵に続いて朝鮮国ともヒドイ揉め事を起こしてしまいました。
明治8年、日本の軍艦「雲揚」が仁川(現在の韓国西北部にある港湾都市)の北側に浮かぶ江華島に近づいたとき、陸上から砲撃を受け、「雲揚」が反撃するという、武力衝突が起きてしまいました。日本側は反撃によって砲台を破壊、大砲を奪い、民家を焼くなどして死者35人を数える大事件にしてしまいます。
この江華島事件を契機として、日本は朝鮮国に開国を迫り、翌年「日朝修好条規」を締結しました。これは紛れもない不平等条約でありまして、領事裁判権、日本諸貨幣の流通、輸出入商品いっさいの関税免除などの特権を日本に与えるものでした。日本が掲げていた「世界万国は平等」という謳い文句を、忘れ去っていたわけではありません。朝鮮国を独立国として認め、日本は公使を漢城(現ソウル)に派遣、朝鮮からの公使も東京に受け入れることとしました。要するに、「日本は朝鮮国を清国の属邦とは看做さない」ということです。
まあ、それにしても、時の政府を担っていたのは、かつて征韓派と対立した内治派です。そんな政権が、鎖国を標榜する国の沿岸に軍艦で接近して挑発したあげく武力衝突して、強引に開国させるというのは、どうなんでしょう。
「えぇっ、あれだけ内治優先と言ってたじゃん」
と、思うのは誰しも同じです。いってることと、やってることが違うだろう、と、日本の不平士族らも言ってましたけれど、なにせ有司専制の時期でして、国内の意見は聞かぬフリでも通用したのであります。だとしても、周辺国との揉め事を起こすなら、国際情勢を考えないといけません。
隣邦兵備略
明治10年(1877)に西南戦争が勃発したとき、福岡の征討総督府で書記をつとめていた陸軍省十等出仕(文官)の福島安正という25歳の青年は、前線からの報告をとりまとめ、整理しつつ記録し、そして出来たばかりの電信を用いて東京に伝達する仕事で頭角を現しました。これはまさしく情報将校としての仕事です。最前線からの報告には錯誤も多く、安正は誤認を見抜けないまま誤報を東京に伝えたこともありましたが、総じて仕事ぶりは高く評価されました。そして、翌年には臨時士官登用試験に合格、正式に情報将校となりました。
まずは得られた情報を分析し、取り纏めることで才能を発揮した安正ですが、この時代は情報を得ることが、いまよりずっと大仕事でした。もちろん偵察衛星なんかありませんから、寝ている間に自動的に情報が入ってきたりはしません。情報将校は、ときとしてスパイみたいなこともしなきゃならなかったのです。
安正にとって、はじめての情報収集活動は、明治12年の清国偵察でした。アヘン戦争に敗れて以来、衰退著しい清国は列強に蚕食されるままとなっていました。安正は清国人になりすまし、5ヵ月の間に上海、芝罘、大沽、天津、北京、内蒙古等を視察しています。それらの情報は、翌13年に明治天皇へ献上された『隣邦兵備略』という本に活かされています。いまでいうと『防衛白書』に近いもので、公刊されています。
第一版は本文190頁(巻末附図を除く)から構成され、そのうち清国がp1-177まで、西比利亜(シベリア)がp178-182、英領印度がp182-187、蘭領印度がp187-190で、その大半が清国の兵備に関することです。
情報収集といっても、国家機密を曝いたというようなものではなく、地道な努力によって兵数を探ってきたわけですが、清国には総数およそ60万の常備軍がいると見積もっています。動員をかければ100万くらいでしょう。
このころ日本が常備していた陸軍は鎮台が6箇と近衛兵で、各鎮台は非常時には動員をかけて後備兵(まだ予備役がない時期です)を召集して旅団に改組されますが、常備した総兵力は6万くらいでした。しかも旅団は後方支援能力が低いため、国内で侵略者を迎え撃つことは出来ても、外国に遠征することは難しかったのです。外征するには、後方支援の機能を備えた師団を編成することが望ましいけれど、まだ日本陸軍は備えていなかった仕組みです。とうてい当時のパワーバランスでは、日本から清国に攻め込むことなど、誰から見ても無理でした。
理想を言えば東アジアの友邦として日清両国に朝鮮国を加えた3ヶ国が、ともに手を携えて列強に対抗する共同戦線を張るべき場合です。しかし、現実には、発展途上にあった小国日本に、瀕死の老大国を救う手立てがありません。当時の清国は人口3億6000万くらい、日本は3000万を超えて4000万までいかないくらいでした。まだまだ産業化が進んでいなかった日本は人力に頼った農業国でしたから、人口が少ないということは、ダイレクトに生産力が小さいということですから、他国を支えるなんて無理なのです。
せめて朝鮮国とは提携したいところですが、朝鮮国を属邦とみなす清国が、日本と朝鮮国との軍事同盟を許すはずがありません。まずいのは清国と朝鮮国とが提携して日本と戦うことなので、清国が朝鮮国を属邦としているのはどうにも都合が悪いのであります。
そうした事情から、日本は清国を仮想敵と位置づけなければならなかったのですが、先述したとおり、この時点では日本から清国に攻め込むなんて無理なハナシです。戦うとすれば、清国が日本に攻めて来たらどうするかというハナシになります。このあと、清国と日本とで海軍拡張競争になりますけれど、数年後には大きく水をあけられてしまいました。海軍は清国の方がずっと強いので上陸されるのは仕方なく、なるべく沿岸部で撃退できるよう頑張って軍備しよう、といったところが現実的でした。実際に明治13年には東京湾の要塞化に着手し、観音崎砲台を起工していますしね。
大院君の乱
ときの朝鮮王「高宗」は幼くして即位したので、実父である興宣大院君が実権を握っていました。大院君とは直系でない国王の実父に与えられる称号で、養子として薩摩藩主となった島津忠義の実父、久光が「国父」と呼ばれたのに似ていると思います。
大院君は外戚の専横を排除したり、非特権層から有能な人材を登用したりする開明的な人でしたが、カトリック信者約8,000名を処刑したあげく、江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退するなど、過激な攘夷派でもありました。久光は攘夷派じゃないんだけど、イギリス艦隊を撃退しているところなんか似てるかも。
朝鮮国第26代の王である高宗が成長すると、王妃である明成皇后の実家、閔氏が勢力を得て、大院君を宮廷から追放してしまいました。明成皇后は「閔妃」と呼ばれることが多いです。閔妃は日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど開国政策を採った一方で、国家の財政を傾かせるほどの浪費家でもあり、その専横ぶりは心ある人士の反感を買いました。ことに、新式軍隊の導入によって地位を脅かされていた旧制の軍隊は、俸給の遅配をきっかけに暴動を起こし、その騒動に一般民衆も便乗して叛乱にまで発展しました。明治15年7月、叛乱軍は閔氏一族の屋敷を襲い、王宮にも乱入し、閔妃政権と親しかった日本も標的とされ、公使館が襲撃を受け、日本から派遣されていた軍事教官数名が殺害されています。叛乱軍の襲撃を受けた閔妃は王宮を脱出、かわって大院君が政権の座に返り咲きました。この叛乱は「大院君の乱」と呼ばれるほか、叛乱が起きた年の干支に因んで「壬午の変」とも呼ばれます。
隣邦兵備略ver.2
大院君の乱が起きた翌月、『隣邦兵備略』はバージョンアップしています。
第二版とはいうけれど、一部改訂にはとどまりません。第一版にはあった西比利亜(シベリア)、英領印度、蘭領印度に関する部分がなくなり、清国のみに着目しているのです。専門の研究者によると、
福島安正が第二版を編集したのは(明治)一五年五月二日〜六月三〇日で、山県の序文は一五年七月、出版届は八月一日であった。実は、この間の七月二三日に朝鮮で壬午事変が勃発し、兵備の急を訴えていた西の上表文草稿、それを元にした山県の上表文は、現実味を帯びることになるのである。
とのことで、大院君の乱を受けて緊急に第二版が編集されたわけではないのですが、刊行のタイミングは、まさしくタイムリーでした。
――朝鮮国の政争の背後には清国がいる
ということで「兵備の急」を訴える有朋にとって「それ見たことか」と言いたくなるタイミングで起きたのが大院君の乱だったわけです。
日本が主張するのは「世界万国の平等」で、朝鮮国を独立国として位置づけようとしていました。対する清国の主張は「朝鮮国は清国の属邦である」というもので、日本が朝鮮国と直接交渉することを快く思っていません。ところが、清国の方は日本と戦争までするつもりはなく、日本との歩み寄りを目指しました。すなわち属邦における叛乱鎮圧と、日本公使の護衛を名目に派遣された清国軍が大院君の身柄を抑え、軍艦で天津に連行し、そこからさらに直隷省保定府に送って幽閉してしまいました。
日本嫌いの大院君が排除されてから、談判は順調に進み、8月13日には朝鮮国から日本へ謝罪のうえ賠償金を支払うことで、一応の決着となりました。(済物浦条約)
事大党と独立党の衝突
大院君の乱がおさまると、朝鮮国は独立党と事大党という派閥が出来て、争いはじめました。独立党は開化政策を推進する日本と親しくして朝鮮国にも改革をもたらそうとする人々でした。事大党は大院君が排除されたことで勢力を盛り返した閔氏の一派で、前は日本と親しくしていたけれども清国の方が大国ですから「寄らば大樹の陰」ということで、清国を後ろ盾にして独立党に対抗しました。叛乱が起きるほど不人気だった閔氏一派でしたが、清国をバックに勢力を回復させ、次第に独立党は劣勢となりました。
明治16年から18年にかけ、清国は越南(ベトナム)でフランスと戦っていた(清仏戦争)ため、なかなか朝鮮問題にまで充分に手が回らないだろうと、朝鮮国の独立党は明治17年12月4日に京城郵便局落成祝賀会でクーデターを決行し、閔氏一派の重立つ人々を殺害してしまいました。このとき「日本公使の竹添進一郎に王宮の保護が要請された」として、居留民保護のために駐留していた少数の日本兵が介入、王宮の守備につきました。
一夜のうちに政権は覆ったかと思いきや、6日には傍観するかと思われた清国軍が介入し、150名の日本兵が守備していた王宮を、1300名で制圧してしまいました。独立党の政権は、まさしく三日天下に終わりました。王宮の戦いで日本側は死者1名負傷4名だったのに対し、清国軍の戦死者は53名で、正面切っての戦闘では清国側が日本との全面衝突を避けようとしていた様子が窺えますが、結局のところ清国兵や朝鮮人暴徒によって日本公使館が襲われ、日本人居留民が殺害されるといった遺恨を残すようなことも起きております。この政変劇は「甲申政変」と呼ばれます。
古代から長らく、中国の王朝を世界の中心に位置づける中華思想に基づいて、朝鮮半島の歴代王朝は中華帝国の冊封国(従属国)でした。この関係において冊封国は中華帝国を宗主国として尊重し、けして対等な関係ではありません。独立党は、朝鮮国と清国との関係を見直し、独立国になろうとしていた点で画期的です。しかし、クーデターに日本の助力を求めたために清国の介入を招き、大失敗に終わったのです。
事件後、日本は井上馨を全権大使として朝鮮国へ派遣し、明治18年1月9日に日本公使館の新築費用や殺傷された日本人への賠償などを取り決めた漢城条約を結んで、ひとまず朝鮮国との間では事件を決着させました。残るのは、清国との関係です。
天津条約
日本各地で甲申政変に対する抗議集会や追悼集会が開かれ、反政府的なスタンスだった自由党ですら「我が日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我が同胞なる居留民を虐殺」したとして、機関紙で清国を非難しました。
また、福澤諭吉も明治18年3月16日の『時事新報』紙上で「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず」と主張する『脱亜論』を掲載しました。日本はアジア諸国の自発的な開明を待っていられないから、隣国のことは気に懸けず、西欧近代文明を積極的に採り入れ、以後、米欧列強と同様の道を進むべきだというのです。
理想をいえば日・清・朝の3ヶ国とも同時並行で文明開化することで、列強の東アジア進出を阻めば良いのですが、それが実現困難であると日本国民が思い知ったことを示した論説です。
まだ憲法がなく、国会もなかったときのことで、いくら「戦争しろ」などと民衆が叫んでも通りはしません。ましてや、この時期の日本陸軍は鎮台編制で、先述のとおり、外征は困難でした。鎮台を「師団」に改組して外征が現実的になるのは明治21年のことで、このあと3年ほど後のことですから、派兵できたとしても小規模な紛争に対処できるかどうかで、全面戦争は無理です。
日本側は、参議・宮内卿の伊藤博文を特命全権大使とする交渉団を清国に派遣、清国側は李鴻章に交渉を任せ、天津に交渉の場を設けました。
日本側は、朝鮮国王の要請で王宮を警固しに入った竹添進一郎公使と日本公使館護衛隊が、袁世凱率いる清国漢城駐留軍に攻撃されたことに抗議し、また、漢城市街で多くの在留日本人が清国兵に殺害・暴行されたとして非難しました。肝心なことは「やったやられた」というハナシではありません。日本側は、日清両国の軍隊を朝鮮から即時撤兵させることを提案、こちらの方が本命です。
日本の公使館警備隊は、たかだか150名でしたが、清国側は朝鮮国の首都である漢城市街を現に制圧している数千名の兵力です。これは事実上、清国に対する一方的な撤兵要求に等しいことでした。
駐清公使の榎本武揚は、緊急時に出兵する権利を保障するなら、清国は撤兵に応じるだろうとの見通しを示しました。このとき、清仏戦争が継続中でしたから、清国も日本と揉め事を起こすことは不本意なことでしたからね。
結局のところ、
・日清両国は朝鮮国から即時撤退を開始、4ヶ月以内に撤兵を完了させる。
・日清両国は朝鮮国に、軍事顧問を派遣しない。朝鮮国には日清両国以外の外国から1名または数名の軍人を招致する。
・将来、必要があって朝鮮国に出兵する場合は相互に通知すること。派兵後は速やかに撤退させ、駐留しない。
この線で日清両国は妥協して、明治18年4月18日に天津条約が締結されました。このことによって、あらためて日本と清国とが対等である(日本は冊封国でない)ことが世界に示されたといえます。
山県有朋の外交政策
天津条約が結ばれてから、日清間の緊張状態は、やや落ち着きました。その間に、日本では陸軍の師団編制を導入、憲法を制定、国会を開設するなど国家の近代化を加速させています。憲法制定と国会開設は非常に重要なテーマなので、ぜひ【憲法発布の回】もお読み下さい。
当時の国際法は、大濱徹也(故人・筑波大学名誉教授)によると
まさに国際法は、欧米列強の侵出に向き合う日本にとり、「キリスト教国、白皙人種、ヨーロッパ州」という「特権掌握的国民」が己の権利を主張し、アジア・アフリカを植民地とするためのものでしかありません。(中略)いわば日本近代化への道は、このような万国公法といわれた国際法の秩序に棹をさし、欧米列強に対峙しうる独立国家の構築をめざす営みです。
というものでした。この先生は、御自身が基督教徒なのですが、歴史を論ずるうえで思想や信仰に左右されることがない人でした。かく申すワタクシは、大濱先生の不肖の弟子であります。
御承知かとは思いますが、初代の内閣総理大臣は伊藤博文で、まだ憲法が出来る前に内閣制度を立ち上げました。憲法発布のときは黒田清隆が総理大臣で、第一回帝国議会(国会)に総理大臣として臨んだのは山県有朋でした。現役の陸軍大将でもあった有朋は、施政方針演説で外交政策を示しました。国家の主権が及ぶ範囲を示す国境を”主権線”とし、「主権線の安危に密着の関係ある区域」を”利益線”として、「一国の独立を維持するには、独主権線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ、必ず亦利益線を保護致さなくてはならぬことヽ存じます」と、国家の権益を守るため海外に派兵することも必要だと論じています。(演説全文)
令和の御代でも、重要なシーレーンである「オマーン湾、アラビア海北部及びバブ・エル・マンデブ海峡東側のアデン湾の三海域の公海」に海上自衛隊の護衛艦が派遣され、頻発する海賊行為に対処していますが、これもまた「利益線」の保護に相当することでしょう。
当時の国際情勢からすると、シベリア鉄道が着々と東へ線路を延ばしつつあり、これが完成した暁には、ロシアは極東まで陸路で進出することが格段に容易となります。海路でインド洋を経由してくる国なら強力な海軍を保有するイギリスの顔色を窺いながらの進出になりますが、陸路だとロシアの勝手次第ですものね。そうなれば、東アジアへのロシアの圧迫は、ますます強まるでしょう。そうなる前に、清国との関係を修復したうえで朝鮮国を独立した中立国とし、日本の利益線を保護する外交を展開し、はたまた軍備を充実強化することで主権線を防衛しようというのが有朋の外交方針でした。
古人曰く「獲らぬ狸の皮算用」と。あるいは、「そうは問屋が卸すまい」ともいいますが、うまくいったらおなぐさみです。
甲午農民戦争(東学党の乱)
明治27年4月、朝鮮国で農民が叛乱を起こし、内戦状態に至りました(甲午農民戦争)。この頃、朝鮮国では旱魃が続き、飢饉に陥っていたのです。
日本は人口が増加しつつあり、工業が盛んになった分だけ農業に従事する生産人口の比率が下がり、この時期には食糧輸入国でした。自分で食べる分も輸入に頼っていましたから、朝鮮国に向けて輸出する余裕はなく、むしろ朝鮮国からコメや大豆を輸入していました。
飢饉に耐えかねた朝鮮国の民衆は、日本向けの食糧輸出を停止することや、腐敗した官吏の罷免、租税の減免などを要求して立ち上がりました。この頃、朝鮮国で急速に勢力を拡大していた新興宗教の「東学」の教団から指導者が出たので「東学党の乱」とも呼ばれますが、信仰を理由に蜂起したわけではなく、生活のために起こした叛乱なので、宗教戦争ではありません。
農民軍は閔氏政権の正規軍を各地で打ち破り、5月末には全羅道の道都である全州を占領しました。閔氏政権は清国に援軍を要請、漢城南方の牙山に清国軍が上陸しました。日本もまた居留民保護のため混成旅団(師団の半分くらいの規模ながら、外征に対応できる)を朝鮮国に派遣し、天津条約に基づいて相互に出兵を通知しました。
この時期、日本では、出来てまもない国会で、ことある毎に議会と政府が衝突し、明治26年12月末に解散したばかりだったのに、27年6月2日にまたしても解散するなど、政局が混乱していました。国家の安全保障上の危機が訪れているのに挙国一致とはいかない醜態を、世界に晒してしまったわけです。議会では対外強硬論が唱えられていましたが、憲法で軍隊の統帥権は天皇にあると定められていたため、国会決議で戦争を起こすことはできません。むしろ戦争関連の予算案を否決して戦争を止めることこそ国会の役割でしたからね。
6月16日、駐朝鮮公使の大鳥圭介は、清国の駐朝鮮公使である袁世凱に対し、「朝鮮国が農民に叛乱を起こされるようでは心許ないから、日清協同で朝鮮政府を援助して内政改革を図ろう」と、提案しました。清国は、「朝鮮国を独立国と看做している日本が、内政干渉するのは筋違いだ」として、日本に撤兵を要求しました。取り付く島もないのであります。
日清両国が険悪になったので、イギリスから仲裁の申し出がありました。日清両国が協同して朝鮮問題を解決すべきだというのです。もとより日本はそのつもりです。しかし、清国は「日本が撤兵しないかぎり交渉できない」として、仲裁を拒みました。
7月23日に至り、日本軍は朝鮮国の王宮を占領し、国王・高宗の身柄を確保するとともに、かつて閔氏一派と対立していた大院君を担ぎ出し、新政権を樹立させました。そして、新政権からの”依頼”を受けて、朝鮮国に駐屯する清国軍を掃討するという手順を踏み、武力衝突に及びました。
ややこしいですが、かつて攘夷派だった大院君は、文明開化した日本を嫌っていました。そして、その時期には閔氏一派が親日的でした。日清戦争の時期には構図が反転し、清国を後ろ盾にした閔氏一派に対して、日本は大院君を担ぎ出して政権の座に据えました。親日と反日とが、見事に捻れているのであります。
戦闘経過ダイジェスト
個々の戦いについて詳述するのは、いずれかの機会に譲るとして、ここでは大まかに述べるにとどめます。
まず、海上から戦いが始まりました。豊島沖で小規模な海上遭遇戦が発生したのを皮切りに、陸上でも成歓の戦いによって両軍が衝突したあと、宣戦布告がなされています。
開戦前に漢城を占拠していた日本軍は、平壌で清国の駐留軍を包囲して降伏させました。また、黄海において清国北洋水師との艦隊決戦に勝利して制海権を握りました。そして鴨緑江を渡河して清国本土に侵入するとともに、旅順および威海営に上陸作戦を敢行、残存した清国の艦隊戦力を陸上から壊滅に追い込みました。
このとき日本陸軍は6箇師団しかありませんでした。不用意に戦線を広げず、要所にのみ局地的な優勢を確保しては防勢に移り、講和まで逃げ切った印象があります。行けといわれたら、北京まで行けただろうとは思いますが、後方支援能力が貧弱だった日本軍に、長大な補給線を介しての占領を維持できるわけがありません。また、清国政府を打倒する意味もないのです。現政権に「降参」といわせて、賠償金を獲得することこそ現実的な決着方法でした。
華々しい戦果の一方で、旅順では外国の新聞記者に住民虐殺の疑いをかけられるなど国際舞台に不慣れなことを露呈し、補給能力の不足から多くの兵が飢えと寒さに苦しむなど、いくつもの課題を残しています。
この時期にはシベリア鉄道の完成が近づき、すでに日本はロシアを仮想敵国としていました。日清戦争は日露戦争の予行演習でもあります。
下関条約
清国政府を代表する李鴻章は、山口県下関での講和談判に臨みました。明治29年3月20日、両国の全権が初会見し、清国側から講和談判中の休戦が申し入れられ、交渉がスタートします。ところが24日に、李鴻章が暴漢に拳銃で撃たれる事件が起きます。それにも拘わらず講和交渉は進められ、4月17日には11箇条からなる講和条約が結ばれました。その主な条件は
・清国は朝鮮国が独立自主の国であることを確認すること
・遼東半島,台湾全島,澎湖諸島を日本に割譲する
・賠償金2億両を支払うこと
・沙市、重慶、蘇州、杭州を開港・開市すること
・揚子江航行権を与えること
・最恵国待遇を与えること
などでした。
下関条約の批准書交換は5月8日に行われましたが、その間にいわゆる「三国干渉」がなされ、日本は遼東半島を清国に還付させられています。
三国干渉で、なにが起きなかったか
下関条約の調印後6日目、批准後3日目の4月23日、ロシア、ドイツ、フランス3ヶ国の公使が外務省を訪れ、「日本が遼東半島を領有することは極東の平和に障害となる」として、領有権を放棄するよう強硬に勧告してきました。日本としては国際的な体面もあるので、下関条約の批准書交換は済ませておいて、戦勝国としての地位を示してから、自発的に遼東半島を清国に還付するというカタチをとりました。
発展途上の小国日本が、10倍の人口を擁する老大国に、なんとか勝った。その苦しい戦いで得た領土を、手放さなければならなかったことは日本国民にとっても屈辱であり、これ以後「臥薪嘗胆」をスローガンにロシアとの戦いに備えたのでした。
さて、三国干渉がなかったら、日本国民は幸福になれたでしょうか?
新しい領土を獲得しても、そこから収益を得るためにはインフラを整備しなければなりません。また、新領土を護るために軍備を拡張する必要もあります。
臥薪嘗胆で我慢を重ねた10年間は、清国から獲得した賠償金を、国内の開発につぎ込めたので、まだしもでした。日本人が使う鉄道や、日本人が働く工場などに投資できたからです。もし、遼東半島を還付していなかったら、巨額の投資によって遼東半島のインフラを整備したところで、ウマウマとロシアに奪われていたかもしれません。別に狙ったわけじゃないけれど、日本がソレみたいなことをやってるんです。
遼東半島を横から奪い取ったロシアが、東清鉄道を敷設したあと日露戦争が起き、ロシアが敷設した東清鉄道の一部である南満洲鉄道を日本のものとすることになりました。それが逆になっていたんじゃないかと思えてなりません。というのは、遼東半島の開発と、ロシア軍を撃退できるだけの陸軍拡張とが同時に出来るほど、日本は裕福じゃ無かったからです。おそらく、日露戦争も違った結果になっていたことでしょう。
オマケとして、黄海海戦をちょこっとだけ
黄海海戦については、ごく基本的なことだけ触れておきましょう。
ドイツで建造された戦艦「定遠」「鎮遠」を主力とする清国海軍の北洋水師は、日本海軍の総力をあげても対抗しがたい戦力でした。
しかし、その艦隊維持費は西太后(清朝第10代・同治帝の生母で、第11代・光緒帝は甥にあたる)の庭園整備に流用されるなど、実情は日常の整備費にも事欠くありさまだったのです。
日本海軍は北洋水師に対抗するため、32cm砲を一門だけ搭載した小型艦「松島」「厳島」「橋立」を建造しましたが、黄海海戦で発射したのは3艦あわせて13発にすぎず、決め手とはなりませんでした。もし、当たっていれば戦艦にだって致命傷になったかもしれませんが、そうそう当たるものではないですし、当たらなければどうということはありません。
練度の低い北洋水師は砲戦に期待せず、艦体の大きさを恃んだ体当たりを指向して単横陣を組みました。接近戦に入ると日本艦隊は中小口径の砲撃を「定遠」に集中、159発もの命中弾によって艦橋を崩壊させています。それほどの集中砲火を浴びながら沈まなかったのですから、日本艦隊は「ええい、北洋水師の戦艦はバケモノか」と、歯ぎしりしていたことでしょう。唱歌『勇敢なる水兵』で、「マダ沈マズヤ定遠ハ」と、瀕死の水兵が問いかけたのに対し、「戦ヒ難ク成シ果テキ」と、答える場面があります。沈めるのは無理だったのですが、結局のところ、北洋水師を率いていた丁汝昌が重傷を負ったことで、勝敗は決しました。補助兵器と位置づけられていた速射砲が決め手となったことは、世界各国の海軍関係者の注目を集めたことでした。
日本海軍が脅威を感じていた清国海軍の北洋水師は、戦艦2、巡洋艦10を擁した堂々たる陣容でした。対する日本艦隊は巡洋艦8が主力でしたが、それにはあまり戦闘に貢献しなかった三景艦(松島級3艦)が含まれています。また、海軍の大立者だった樺山資紀の乗艦が商船改造の仮装巡洋艦であったことからも、戦力の貧弱さを知ることが出来ます。
海戦では艦船の性能差が大きくものをいいます。各国の艦船武官は、当然ながら北洋水師の性能的優位が、そのまま結果となって現れるだろうと予想していました。しかし、兵員の練度は日本海軍の方が遙かに優秀でした。
石炭を燃料とし、人力で給炭していた当時の艦船は、往々にしてカタログ通りの性能を発揮しません。艦船の最大速度を単純に比較すれば両軍とも同等ですが、黄海海戦において北洋水師は7ノット程度の速度しか発揮しなかったのに対し、日本艦隊は10ノットの速度を維持していました。こうした人的要因が戦力の優劣を覆し、日本海軍は、艦船の性能の違いが戦力の決定的差ではないということを、各国の観戦武官に示したのでした。