コロナ禍で延期となっていた司馬遼太郎原作の映画『燃えよ剣』の公開が間近に迫っている。主人公は「新選組」副長の土方歳三。“自分史上最高にカッコいい”という土方歳三役の岡田准一がとても楽しみだ。
原作の小説『燃えよ剣』は高校時代の愛読書だった。暗殺や粛清、戦闘など残虐で血生臭いシーンが多い中、高校生の自分がどこに心惹かれたのかを考えてみると、土方歳三という男の決して器用とはいえない生き方と揺るぎのない信念だったと思う。“バラガキ”とあだ名された青春時代、“鬼の副長”と恐れられた新選組時代、そして新政府軍に加わって五稜郭へ。徳川恩顧(おんこ)の大名や武士たちでさえ見放した旧幕府軍を最後まで支え、どこまでもサムライスピリッツを貫いた男はカッコよかった。
そんな土方に箱館まで付き従い、五稜郭(ごりょうかく)を脱して、彼の写真を故郷に届けたとされるのが市村鉄之助だ。黒乃奈々絵の漫画『新撰組異聞PEACE MAKER』と『PEACE MAKER鐵(くろがね)』では主人公である。
新撰組異聞 PEACE MAKER 1巻 (マッグガーデンコミックス)
市村は美濃大垣藩出身で、『燃えよ剣』には入隊時は15歳と書かれているが、いったいどんな生い立ちの少年だったのか。果たして市村の話は事実だろうか。事実ならば、なぜ土方は市村をメッセンジャーとして江戸に送ったのか。
そして、今回、新たに判明した少年隊士の哀しい真実!
青春真っただ中の少年たちにとって、幕末とは、新選組とはなんだったのかを考えてみたい。
なお、取材にあたって「土方歳三資料館」館長で、土方の兄から数えて6代目の子孫・土方愛さん、また市村家の菩提寺である大垣市「全昌寺(ぜんしょうじ)」のご住職・不破英明さんにお世話になりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。
箱館戦争の美談の影に忘れ去られていた真実
船に乗って帰ってきたのは鉄之助1人ではなかった!
市村鉄之助は年少だったため、戦闘要員というより、土方の身の回りの世話や用事を言いつかっていた。直接ご子孫である土方愛さんから鉄之助が船で江戸に戻り、土方の故郷・日野に着いた時の様子などお聞かせいただければと思ったのだが、返って来たのは衝撃的な言葉だった。
「歳三さんは報告係として市村鉄之助さんを船に乗せますが、その時、一人ではなく二人なんですよ」
なんと! 報告係は二人いたということなのだろうか?
愛さんは言葉を続けた。「この戦争が負け戦であることは、すでに誰の目にも明らかでした。この時、歳三さんの身の回りには、お世話係として、鉄之助さんと同じような立場の少年隊士が10人前後いました。みんな、行き場をなくした少年たちでした。箱館に至るまでに、歳三さんは将来性があって故郷へ帰せる人間はできるだけ帰しています。鉄之助さんは大垣の出身で年も若く、このまま死なせるには忍びなくて、逃がす機会をうかがっていたのかもしれません。もう一人は多摩出身の少年兵で渡辺市造(わたなべ いちぞう)さんと言いました。当時16、7歳だったそうです。江戸に土地勘のない鉄之助さんのナビゲーター役としたのではないでしょうか。鉄之助さんのエピソードは箱館陥落時の美談として伝わったために、話が盛られて伝わっている部分がいくつかあります。鉄之助さんが故郷の親類縁者にもたらしたのは、名刺サイズの歳三さんの写真と『この者の身の上をお頼み申します』と歳三さんが書き添えた紙きれだけでした」
土方に命を助けられた多摩出身の少年隊士・渡辺市造
とにかく初めて聞く話に驚きの連続だったのだが、かいつまんで話すと江戸に戻った渡辺市造は鉄之助と別れ、迷惑がかかることを恐れたのか実家には戻らず、川越(かわごえ:埼玉県川越市)に行き、米人足になって一生を終えたという。鉄之助の口から渡辺市造について語られた記録は何も残っていない。
愛さんが渡辺市造のことを知ったのは、資料館に市造の子孫が訪ねて来られたことがきっかけだった。以下、『土方歳三資料館日記』に書かれた『鉄之助と船で帰って来た隊士・渡辺市造』からの引用・抜粋である。
その方々、渡辺市造という新選組隊士の曾孫様と玄孫(やしゃご)様ということでしたが、「実は、私のひいおじいさんは生前『土方歳三さんに外国船に乗せてもらって箱館から帰って来れた。』って話していたんですよ。」と。「最後に小姓が一人で写真を持って帰ってきたっていうお話有りますよね? あれは、一人じゃなかったんですよ。ひいおじいさんは、実家に迷惑がかかると思い、維新後は実家にも帰らず、一人川越に流れて一生を終えましたから、あんまり私たち子孫も口外しなかったんですが…」とおっしゃるんです。 『土方歳三資料館日記 鉄之助と船で帰って来た隊士・渡辺市造~その壱』より 2016-05-20
土方愛さんが調べられたところによると、渡辺市造について取り上げた記事はこれまでにもあり、それについては以下のとおり。
実際、公に取り上げられているのは、73年刊行の共同研究新選組の中で渡辺家にまつわるご子孫によりかかれた記事と、81年刊行の新選組のすべてでの論考、そして2009年小江戸ものがたりという川越の小冊子にて曾孫様がインタビューに応じられた小記事、のみです。 『土方歳三資料館日記 鉄之助と船で帰って来た隊士・渡辺市造~その参』
つまり、渡辺市造は完全に忘れ去られた存在だったのである。
ひた隠しにしなければならなかった不都合な史実
市造の人となりや川越に行ってからの生涯については、同資料館日記にかなり詳しく書かれているので、そちらを読んでいただきたい。とにかくここで明確になったのは、新選組の元隊士たちが明治以降、過去をひた隠しにして生きなければならなかった厳しさだ。市造は苗字や名前も変え、写真も残さず、自分の子どもたちにさえ新選組時代のことはほとんど話さなかったという。
土方家においても同様の時期があったとする。
土方家でも、「一族郎党根絶やしにされる」と噂が立ち、手紙や関係するものを焼いたり井戸にうち捨てたりして処分したという過去があります。だから、生涯決して写真を撮らなかった市造さん、子供に渡辺を名乗らせず、妻の姓を名乗らせたこと、多くを語らなかったご家族のお気持ちは自然なことだと感じました。 『土方歳三資料館日記 鉄之助と船で帰って来た隊士・渡辺市造~その参
新選組ゆかりの人々にとって、先祖が新選組にいたことは隠しておきたい不都合な史実になってしまっていた時期があるのだ。なんという哀しいことだろう。
土方が次世代の若者たちに託した思いとは
『土方歳三資料館』(平成26年5月11日 土方歳三145年目の命日に「土方歳三資料館」より発刊)に収められている『多摩の腥風(せいふう)』には、鉄之助が身をやつして日野の親類を訪ねて来た時の様子から話をするいきさつなどが詳しく書かれており、興味深い。土方愛さんによると、「『多摩の腥風(せいふう)』は大正年間に『国民新聞』に掲載された『多摩乃腥風』を書き記したもので、脚色要素も見られますが、当時の人々にきちんと取材して書かれた記事であると考えられます」とのことだった。
この中にも渡辺市造の名前は出てこない。土方が市造になんと命じていたのかはわからないが、鉄之助が無事に日野に着くことが確認できた時点で、彼の使命は終わったのかもしれない。自分が生きた証をほとんど残さなかった市造だが、生涯、土方や新選組を忘れることはなかっただろう。土方が彼らに与えた最後の命令は「生きろ」ということだった。
兄弟で新選組に入隊した市村鋠之助・鉄之助
それではここで、土方に生きる使命を与えられたもう一人の少年・市村鉄之助の生い立ちと新選組に入隊したいきさつを、できるだけ史実に基づき追ってみよう。
ある日突然父がリストラ 大垣藩を追放に
市村鉄之助には7歳年の離れた鋠之助(たつのすけ)という兄がいた。兄弟の父は市村半右衛門(はんえもん)といって、大垣藩の要職(大目付)にあったとされる。ところが安政5(1858)年、父の半右衛門は突如リストラされ、藩領所払い(藩の領内から追放し、立ち入りを禁じること)となり、京都や江戸、大坂にも立ち入りを禁じられてしまった。その理由は明確ではないが、思想的な問題があったのではないかとする説もある。安政5年といえば「安政の大獄」の行われた年だ。彦根藩出身の大老・井伊直弼により、吉田松陰ら徳川幕府に反感を覚える多くの人々が弾圧され、命を奪われた。半右衛門はこの「安政の大獄」が行われることを、いち早く察知していたのではないかという。
藩を追い出された半右衛門は隣の尾張藩領内に住まいを移し、子どもたちは伯母方に引き取られたが、後に近江国国友村(くにともむら:現滋賀県長浜市国友町)に移り住んだ。国友村には親戚があったようだ。
国友村は鉄砲鍛冶の里だ。戦国時代から江戸時代にかけて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の庇護を受け、堺と並ぶ鉄砲の生産地として栄えた。戦乱の世が終わり、江戸時代になると鉄砲の需要は激減したが、国友村で培われたものづくりの技術は天体観測など科学的な分野にも生かされてきた。
市村兄弟、新選組に入隊
文久3(1863)年、兄弟の父・半右衛門が亡くなった。リストラされてわずか5年後のことである。鋠之助は16歳、鉄之助は9歳になっていた。そして慶応3(1867)年、13歳になった鉄之助は兄・鋠之助とともに新選組に入隊する。『燃えよ剣』に15歳とあるのはかぞえ年ではないだろうか。
父が亡くなって新選組に入隊するまでの4年間、兄弟は国友村にいたようだ。幕末の動乱で鉄砲需要が高まり、武器の製造拠点だった国友村にいたおかげで、世の中の動きや新選組が隊士を募集しているとのうわさも耳に入りやすかったかもしれない。「これぞ千載一遇のチャンス!」と、鋠之助は思ったかも…新選組に入って手柄を立てれば、市村の家が再興できると考えたのではないだろうか。この時すでに母やほかの兄弟姉妹も亡く、幼い鉄之助も兄と行動を共にする。
同年6月、新選組隊士全員は幕臣に取り立てられている。鋠之助の考えた方向に事は運んでいるように見えた。
勝てば官軍、負ければ賊軍 ジェットコースター的運命に翻弄される二人
戊辰戦争が始まり、幕府方の新選組は朝敵に
ところが兄弟が入隊した慶応3(1867)年は、日本史上の大変革が起きた年だった。
※月は旧暦による。
この年の10月、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上(大政奉還)した。同年12月には明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、江戸幕府は廃止。明治新政府が樹立された。これによって鎌倉幕府以来、約800年間続いた武家政治は終わりを迎え、政治の実権は天皇の手に戻ったことになる。
▼王政復古の大号令と大政奉還についてはこちら
幕末のいちばん長い日。「王政復古のクーデター」で何が起きなかったか
徳川慶喜はなぜ政権を返上したのか。「大政奉還」によって何が起きなかったかを考える
時代の潮流は新選組にも押し寄せた。同年4月、強い勤王思想を抱く伊東甲子太郎(いとう かしたろう/きねたろう ともいう)は孝明天皇陵(亡くなった孝明天皇のお墓)を守るため、「御陵衛士(ごりょうえじ)」を結成して新選組を離隊。後に近藤・土方らによって暗殺される。この時、結党以来の同志だった藤堂平助(とうどう へいすけ)も伊東の御陵衛士に加わり、命を落としている。近藤、土方らも攘夷(外国人を打ち払う事)については伊東と同意見だったが、彼らはあくまで徳川幕府を守るために戦う集団であり、勤王の伊東らとは異なっていた。この年の暮れには近藤が御陵衛士の残党に狙撃され、重傷を負っている。
年明け早々、旧幕府軍と新政府軍との間で戦い(鳥羽・伏見の戦い)が始まった。いわゆる戊辰(ぼしん)戦争だ。新選組も旧幕府軍として戦い、江戸以来の同志で、近藤・土方と故郷を同じくする井上源三郎は戦死。戦いは新政府軍の勝利に終わり、新選組からも多くの離隊者が出た。この後、旧幕府軍は朝敵とみなされるようになる。“勝てば官軍、負ければ賊軍”という言葉を聞いたことはないだろうか。
幕臣に取り立てられたのも束の間、朝敵として追われる身に… ジェットコースターのような運命を、市村鋠之助はどのように感じていたのだろうか。こんなはずではなかった! と、新選組に入ったことを後悔したのではないだろうか。当時の鋠之助について書かれたものは何も残ってはいないが、心の中の動揺は察してあまりある。
大垣藩兵として官軍になった鋠之助
両軍の戦いは関東へと移り、慶応4(1868)年4月2日、江戸城の無血開城を前に新選組は総勢200余名で下総(しもうさ)流山(ながれやま:現在の千葉県)に入る。駐屯の準備をしていたところへ官軍が襲来。この頃、鋠之助は新選組を脱走したらしい。以後大垣藩に復帰し、官軍として戦うことになる。
ここで幕末の大垣藩の状況を説明しておこう。
実は大垣藩は鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍として戦っていた。しかし、戦局は幕府に利あらず。事態を重く見た藩の重臣・小原鉄心(おはら てっしん)が新政府軍側に味方するとして藩の意見をまとめ、藩主の戸田氏共(とだ うじたか)は新政府に謝罪。偽りのない証(あかし)として、大垣藩は新政府軍の先鋒を命じられていたのである。
鋠之助は新選組にいたことは隠して、大垣藩に新政府軍の仲間入りをしたいと申し出て許された。亡くなった父が小原鉄心直属の部下であったことも幸いしたようだ。鋠之助は大垣藩兵として、次の戦地である宇都宮へ向かった。
新選組局長・近藤勇は流山で新政府軍に捕縛され(自ら出頭したとも伝えられている)、4月25日に板橋の刑場で処刑されている。
弟・鉄之助は新選組に 宇都宮決戦で兄弟対決
鉄之助が兄の脱走をいつ知ったかはわからない。ひょっとすると、鉄之助も兄に密かに脱走を勧められたのかもしれないが、彼は新選組に残った。
入隊以来、土方の身の回りの世話をしてきた鉄之助にとって、土方は上司であると同時に亡き父のような存在だったのではないだろうか。土方もまた、鉄之助を「頗(すこぶ)る勝気(かちき)、性亦怜悧(せい、またれいり)」(たいそう勝気で、利口である)と評したというから、彼に目をかけていたのだろう。
こうして兄弟はとうとう敵・味方に別れ、対決することとなった。
さらば、新選組! 箱館・五稜郭で永遠の別れ
宇都宮城は新政府軍によって奪還され、その後、両者の戦いは東北から北海道へと移っていく。永倉新八は考え方の相違から新たに別の組織を作って離隊。原田左之助は離隊後、上野の彰義隊に入って戦死したとされ(異説あり)、沖田総司は肺結核のため江戸で病死。斎藤一は会津に留まり、藩と運命を共にした後、東京へ移住している。
新選組隊士がさまざまな運命をたどる中、市村鉄之助は旧幕府軍最後の砦(とりで)となる箱館の五稜郭まで土方に付き従った一人となった。北へ北へと転戦する中、彼は懸命に職務を果たしながら、土方と運命を共にする覚悟を決めていたことと思う。
明治2(1869)年5月18日、ついに五稜郭は開城。戦いは新政府軍の勝利に終わる。しかし、そこに鉄之助の姿はなかった。
5月11日、旧幕府軍の指揮官として激戦を戦い抜いた土方歳三は戦死している。彼は死の数日前、鉄之助と市造を船に乗せ、江戸へと送り出していた。二人とも死ぬことよりも生きることを選んだ。そうさせたのは土方だった。そして、話は冒頭に戻る。
大垣に戻り、20歳で生涯を終えた市村鉄之助
さて、いよいよエピローグだ。
ところで大垣藩に戻った鉄之助の兄・鋠之助はどうしただろうか。彼は宇都宮城下の決戦で負傷し、けが人として治療を受けた後、故郷・大垣の地に帰っている。
市村家の菩提寺である大垣市の全昌寺ご住職・不破英明さんは、鋠之助のその後について次のように語る。「戊辰戦争での働きを認められた鋠之助は、屋敷と家禄を与えられました。結婚し、息子もできたそうです。ところが病に倒れ、明治5(1872)年に亡くなっています」
士族に取り立てられたとはいえ、徳川幕府はすでになく、自分でなんとかして家族を養わなくてはならない。そこで、鋠之助は商売を始めたようだ。慣れないことでいろいろと苦労も多かっただろうと思うが、そのことが彼の寿命を縮めたのかもしれないと考えると、なんだか切ない。
鉄之助は日野の土方の親類の家に数年間、匿(かくま)われていた。土方の写真を持ってきた人物として大事にされていたようだ。ところがどこから居所を知ったものか、兄・鋠之助から親類の家に手紙が来た。死期を悟った鋠之助はまだ幼い息子の後見人として弟を頼りにしたのだろう。鉄之助は大垣に戻った。生きている兄に会えたかどうかはわからない。
ところが鉄之助もまた、病魔に襲われる。そして、明治6(1873)年、市村鉄之助死去。20歳の若さだった。
鉄之助が明治10(1877)年の西南戦争に参加して死んだという説もあるが、それはフィクションである。
時代の“DREAM MAKER”として
現在、市村家の直系子孫は絶えて、その縁者が墓を守っている。ところが、だれも市村家の先祖が新選組隊士だったとは知らなかったという。渡辺市造がそうであったように、新選組であったことは大垣でも人に知られてはならない過去だったのだろう。
現代では新選組は政党の名前にも使われているほどで、その名に不快感を持つ人はほとんどいないと思うし、先祖が新選組だからといって子孫が不利益をこうむることはないだろう。しかし、明治、大正期には新政府軍の中心であった薩摩や長州の人間が政治の実権を握っていたこともあって、新選組に対する評価も低く、身内に新選組がいたことを口にするのもはばかられたようだ。関係者にとってはたいへん辛い時代だったにちがいない。
幕末という武士の世の終わりに、自分の信じる夢を追って生きた。身分制度が厳しく定められていた時代だったからこそ、夢を見られる場所がより強く求められていたのかもしれない。それが新選組だったのかも…
【取材・協力】
「土方歳三資料館」館長:土方 愛さん
〒191-0021 東京都日野市石田2丁目1−3
曹洞宗 全昌寺 住職:不破 英明さん
〒503-0923 岐阜県大垣市船町2丁目21
【参考文献】
『土方歳三資料館』土方歳三資料館
『月刊西美濃わが街』323 月刊西美濃わが街社
『土方歳三資料館日記』
『鉄之助と船で帰って来た隊士・渡辺市造~』
大垣市立図書館
▼映画化で話題の『燃えよ剣』はこちら
燃えよ剣 (文春e-book)