どうして浦島太郎の舞台は丘でも山でもなく、海だったのか。古くから水辺は、異様な存在が現れたり不思議な現象が起こりやすい異世界への境界とされてきた。水辺は、この世ではない別の場所へつながっていると考えられてきたのだ。
ある者は境界の向こう側から侵入し、ある者は境界を踏み越えて異界へと分け入っていく。日本の中世小説はそんな水辺の世界をどのように描いてきたのだろうか。今回は水辺で繰り広げる古い物語をたどりながら、生者と死者が入り混じる不思議な世界を紐解いていきたい。
恋の執念って恐ろしい。夜の海を泳いで渡る女の狂気
『日本伝説体系』に「海を通う女」という話がある。この女の執念を知ったら読者は身を震わせずにはいられないはずだ。
若い番匠は仕事先に出向いた土地で、島の美しい女に惚れられてしまう。「あなたの妻になりたいから連れて帰って」という女に、「僕のところまで百晩通い続けることができたなら」と答えてしまったのが悲劇のはじまりだ。
女は約束通り毎晩、雨が降っても風が吹いても男を訪ねてきた。船もないのにどうやって来るのだろう。男が不審に思っていると、女は山腹の燈明を目印に真暗闇の海を泳いで来ているのだとわかった。それが何十夜も続くと、さすがに怖くなってくる。そこで九十九夜、残り一日という大暴風の日、男は燈明を消してしまう。案の定、女は訪ねてこなかった。
翌朝、海辺で女が打ち上げられて死んでいるのが見つかった。その体は全身が鱗でおおわれ、恐ろしい蛇の姿だったという。
大波にのみこまれた男と女の忍び逢い
激しい恋情にかられて海を渡った女はほかにもいる。『比良八荒の女(ひらはつこうのおんな)』の娘が想いを寄せた相手は、お坊さん。恋をすると人は大胆になるもので、この娘はたらいの舟に乗って燈台の灯りを頼りに連日お坊さんのところへ通った。
しかし愛が重すぎたのだろう。お坊さんが燈台の灯りを消したために、たらいがひっくり返り娘は波にのまれてしまう。岸に打ち上げられたとき、娘のわきには櫛をくわえた大蛇がわだかまっていたという。
『竜王町のむかし話』にも同じモチーフをみることができる。ここでは恋の相手は、奉納相撲に出向いた力士ということになっている。
暗夜の橋の下にご注意
『今昔物語集』には水辺で起きたこんな奇譚がおさめられている。
それは東国から京へのぼっている途中での出来事だった。近江の瀬田の唐橋のあたりに来ると陽が沈みはじめたので、旅人は一軒のあばら家に宿を借りることにした。夜更け、部屋の隅に置かれた鞍櫃の蓋が開こうとしているのに気づいた旅人は、不安になって馬に鞍を置くと、その場を逃げ出した。
すると後から鬼が恐ろしい形相で旅人を追いかけてくる。これは馬でも逃げ切れそうにない。旅人は瀬田橋の下の、柱の陰に隠れてやり過ごそうとする。助かりますようにと祈る旅人の頭の上で鬼が「どこにいる」と叫んでいる。ここなら安心、息をひそませている旅人の下から声がした。「ここに居ります」声は旅人の足もとの水面からだった。
水になって流れる美女
水にまつわるちょっと変わった物語を14世紀前半に制作されたとされる絵巻『長谷雄草紙(はせおそうし)』から紹介しよう。
物語は平安時代の有名な学者、紀長谷雄と朱雀門に棲む鬼が双六(すごろく)勝負をするというもの。鬼は長谷雄に双六で賭けをしようともちかける。「双六で私が負ければ絶世の美女を差し上げる。もし私が勝てば長谷雄のすべてをもらう」
後日、勝負に勝った長谷雄のもとに鬼が美女を連れて再び現れた。この美女は外見だけでなく、人柄も素晴らしかったようで長谷雄は次第に強く心を惹かれていく。しかし鬼が去り際に「百日間は決して女に手を触れてはならない。」と言い残した言葉がひっかかる。それでも、ついに我慢の限界と美女を抱こうとした瞬間、なんと美女の体は崩れて、水となり流れてしまったのだった。絵巻には、今まさに溶けた美女が流れていく様子が描かれている。
異界からの来訪者たち
愛する男のもとへ海を泳いで通う女、橋で鬼に出くわした旅人、溶けて流れていった美女。こうして水を題材にした伝承を並べてみると、水という共通のモチーフには何かに対する畏怖のようなものがあると思わずにはいられない。
そういえば「浦島太郎」が向かったのも丘でも山でもなく、海だった。水底がどこに通じているのか私たちはよく知っている。あのよく話す亀が、伝承によれば竜宮という謎めいた場所からやってきたことも知っている。あるいは「桃太郎」も川を流れてきた一人だが、いったい誰がどこから桃を流したのかについて語られることはない。
水というのは、いつもあちらからこちらの世界へと突然、何かをもたらすばかりで真相は流してしまうのだ。『海を通う女』や『比良八荒の女』など浜辺へ打ち上げられた女たちが蛇の姿をしていたことから想像するに、彼女たちもまた、浦島の亀のように異界からの来訪者だったのだろうか。
生者と死者の入り混じる水辺
海中や沼の底にある世界と聞いて思い浮かべるのは、やはり龍宮だろう。龍宮とはその名の通り龍王の棲む宮殿のことで、もともとはインドや中国からやってきたものだ。これが日本では平安時代頃から仏典などを通じて流布し、水底にある楽園的世界のイメージとなって定着していったという。しかし、それ以前にも日本人は海のなかに異界を見ていた。
たとえば山幸彦(ヒコホホデミノミコト)が失った兄の釣り鉤を探して海中の世界、「わたつみの国」へ行ったように、日本にはかねてから海中異界観が浸透していた。娘たちをのみこみ、浦島太郎を楽しませた(結果はさておき)水底が楽園なのか恐ろしい場所なのかは分からないが、すくなくとも水辺は人間を優しく招き入れるばかりでないことは確かなようだ。
旅人が鬼と出くわした橋もまた異界に通じる場所のひとつ。
橋はハシ(端)に由来するとされ、古くから異なる二つの世界を媒介する両義的な空間とされてきた。そしてここには、水もある。
ところで隠れ場所が見つかった旅人のその後が気になる。じつはこの話、原文は欠文になっているのだ。旅人の結末が分からないというのが、また一段と怪異の恐怖を物語っている。
さいごに
水辺は神聖な場所でありながら、ときに内と外という境界になり、同時に異界へとつながり異質な者を招いたりもする。こうした既存の観念に男女の愛の葛藤や愛執などが飾られて、その時代の人びとに好まれるように文芸想像力や流行を投影されて作られたドラマが、いま私たちの読むことのできる中世の水辺の物語なのだろう。水にまつわる古い物語は、私たちにとってもっとも身近な生活空間に対しての様々なありようを語ってくれる。
日本の中世小説はおもしろい。
狂おしいほどの恋情のために蛇体となった娘や想い人のために必死にたらい舟を漕いだ女たちの無念さと哀愁は日本ならではだ。それに、なんといっても彼女たちの尋常じゃないところがまたいい。
参考文献:『異界と日本人 絵物語の想像力』 小松和彦、2003年、角川選書