Culture
2022.02.05

シルクロードは日本にもあった!近代日本を支えた「お蚕様」を訪ねて八王子と横浜へ

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シルクロード(絹の道)、といえば、中国や日本とヨーロッパを結ぶ長大な歴史回廊。中央アジアの異国情緒豊かな街道が思い浮かびます。しかし、実は日本にもかつてありました! シルクロードが。

それは、東京都八王子市と神奈川県横浜市を結んだ道。幕末、北関東や長野から八王子に集められた生糸や絹製品は、開港した横浜へと運ばれました。時代が下ってこの道は、日本のシルクロード、「絹の道」と呼ばれるようになったのです。開発によりほとんど道は姿を消してしまいましたが、昔ながらの風景が見られる「絹の道」が1kmほどだけ残されています。

そこには、どのような景色が広がっているのでしょうか? 起点となる八王子から「絹の道」を目指し、そして生糸や絹が海外へと運ばれた横浜へも足を延ばします。まずは新しい博物館もオープンした八王子へ。

八王子って江戸時代に隕石が落ちてきたんですよね!

あの人の実家と八王子

ところで、そもそも八王子ってどこ? 関東の人でなければ、そう思われるでしょう。

新宿から西へ、JR中央線の快速で40~50分。多摩地方の八王子は、東京都心から見れば、ちょっと遠い街。都心より気温が1、2度低く、冬、都心で降っていなくても、八王子では雪が降っているということもしばしば。いわば「東京の田舎」(八王子のみなさん、ゴメンナサイ!)のようなイメージを持たれている街なのですが、実は大都市です。

国土地理院ウェブサイトより

最近は、フワちゃん、元AKB48の高橋みなみ、カリスマホストROLAND、ひろみ……という顔ぶれの「八王子会」でも有名に。特に女性の間では「ROLAND様の店がある街」として知られているようです。

しかし、音楽ファンにとっては、いや、そうでなくても、ユーミンこと松任谷由実の故郷として、八王子は知られているはず。ご実家が呉服店ということも有名です。ご実家の荒井呉服店は大正元(1912)年の創業。この2年半ほど、建物の建て替えで別の場所にお店を構えていましたが、2021年10月28日に新装オープン。以前とは、がらりと変わった店構えとなっています。

荒井呉服店の初期店舗(画像提供:荒井呉服店)

現在の荒井呉服店

ユーミンの実家が呉服店であることは、八王子の歴史を物語っています。八王子は古くから織物の里でした。織物の原料となる生糸が、蚕がつくる繭からとられることはご承知のとおり。蚕のための桑の栽培、そして養蚕や織物が盛んだったことから八王子は「桑都(そうと)」と呼ばれてきました。

「ユーミンの実家=呉服店=八王子は織物の街」の公式で覚えておきます。

2021年6月開館 八王子博物館

「現在、八王子の呉服店は6、7軒、織物工場は約20軒でしょうか」と話すのは、八王子博物館の美甘(みかも)由紀子さん。

八王子博物館(愛称・はちはく)の入口

『新八王子市史 通史編4 近世(下)』によると、八王子はすでに19世紀初めには「桑都」と呼ばれていて、周辺地域を含め八王子の人たちは「桑を植え、その葉で蚕を育て、繭をとり、その繭から糸を繰って生糸にし、その糸を染めて絹織物」を織っていました。

現在、養蚕農家は1軒のみとなり、織物工場の数も減少しましたが、養蚕や絹織物は八王子を築いた伝統的な産業です。2020年、都内で唯一の「日本遺産」として「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」が認定され、そのストーリーを紹介するためもあり、2021年6月、八王子博物館が八王子駅南口に直結したサザンスカイタワー八王子の3階にオープンしました。

館内には、高尾山や八王子城などともに養蚕や織物についてのコーナーも数多くあります。蚕の卵を産み付けた種紙(たねがみ)、戦前に織られた着物地、そして、もちろん「絹の道」についても解説されています。

種紙。数字が書かれたそれぞれの枠内に蚕の卵が産み付けられている

八王子の製糸業の基礎を築いた人物として、1877(明治10)年に器械製糸工場を操業した萩原彦七という人が紹介されていました。明治時代初め、日本の生糸は、農家が手作業で繭から糸をとっていたため、糸の太さが一定せず品質が悪かったのですが、器械製糸工場の設立によって、品質が一定したのです。

彦七の工場の規模は一時期、日本一となり、1899(明治33)年には彦七が中心となって八王子を流れる浅川に木橋が架けられました。現在も萩原橋として名前は残っています。しかし、その翌年、工場は経営不振となり、信州の製糸会社に買収されてしまいました。

館内には機織り機もあり、博物館の方が機織りをみせてくれます。足元のペダルを踏みながら、シャトルや杼(ひ)と呼ばれるよこ糸が巻かれた木の道具をたて糸の間にシャーと通しトントンと糸を叩いて締める。という作業は見たことがあると思いますが、近くで見ると、たて糸のセッティングがものすごいことに気づきます。

右に4つあり、たて糸を上下に動かしているのが綜絖。左手で持ってトントンとしているのが筬

ペダルを踏むと、綜絖(そうこう)と呼ばれる装置によってたて糸が上下にわかれる仕組みとなっています。よこ糸をトントンするのは筬(おさ)という櫛状の板です。で、たて糸は綜絖と筬に1本1本通さなければなりません。「シャー、トントン」の作業が難しそうと思っていたら、それ以前のセッティングは気が遠くなりそうな作業だったのです。ぜひ、機織り機を見るときは、たて糸に注目してください。

筬。ミリ単位の櫛状のすき間に、たて糸を通す

ちなみに、八王子の多くの小学校では3年生で蚕を授業で育てるとのこと。八王子市民は蚕や養蚕業などのことをよく知っているようです。「八王子会」の人たちやユーミンも蚕に親しんだのでしょうか? 桑都日本遺産センター 八王子博物館の詳細やイベントについては同館サイトでご確認を。
桑都日本遺産センター 八王子博物館

行ってみたいです!

養蚕が盛んだったわけは?

八王子で盛んだった養蚕業は、近世以降、日本各地でも盛んにおこなわれていました。1922(大正11)年には、日本の輸出総額の48.9%を生糸・絹織物が占め、「日本で養蚕が最もさかんだった昭和の初め、日本の農家の約四十パーセントに当たる二百二十一万戸で蚕を飼って」(『蚕──絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏/晶文社)いました。

これほど養蚕が盛んだったわけは、「繭を売るとすぐに現金が手に入る」(同書)から。農家、特に土地がやせていて農作物の収穫に恵まれていない農家にとっては貴重な収入源となりました。蚕は卵からかえって約1ヵ月で繭をつくります。その成長の早さも魅力でしょう。

蚕については、図書館にある児童向け書籍が写真や図も多く、わかりやすいです。『大研究カイコ図鑑』(国土社)によると、蚕は脱皮を繰り返す昆虫。卵からかえった蚕は「1令」と呼ばれ、1回脱皮をすると「2令」、また脱皮すると「3令」となり、「5令」になると繭をつくります。「1令」から「5令」になるのが25~30日。体の大きさは約15000倍にもなります。「5令」になって5~7日すると糸を吐き始め、2~3日かけて繭を作ります。

蚕は温度や湿度の影響を受けやすいので、飼うのは簡単ではありません。えさの桑の良し悪しも蚕の成長に大きな影響を与えます。まさに“わが子”を育てるように、蚕は飼われていました。大きな収益をもたらしてくれる蚕は、「お蚕様」として大切に扱われていたのです。

お+様づけで呼びたくなるほど、人々の生活を支えていたのですね。

2022年2月15日まで限定販売 シュリーまんとは?

蚕からとられた生糸や絹織物などが運ばれた「絹の道」へといよいよ出発、ですが、現在、八王子で話題となっている「シュリーまん」のことも紹介したいと思います。

「シュリーまん」と聞いて、トロイ遺跡を発掘したドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)を思い浮かべた人は考古学通もしくは歴史通。2022年1月6日、シュリーマンは生誕200年を迎えました。それにちなみ、街おこしとして考えられたのが「シュリーまん」。2021年10月から2022年2月15日まで、八王子名物「都まんじゅう」を販売する「つるや製菓」で販売されています。

「シュリーまん」のみの販売は行っておらず、「都まんじゅう」の中に「シュリーまん」が入っている。写真は10個入り(400円)。うち2個が「シュリーまん」

でも、なぜシュリーマンなのか? 実は1865(慶応元)年6月、43歳だったシュリーマンは来日し約1ヵ月滞在。そのとき、八王子も訪問しているのです。そのときのことは、『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子訳 講談社学術文庫)に記されています。かねてから日本を「訪れたいという思いに身を焦がしていた」シュリーマンは、横浜滞在中、「絹の生産地である大きな手工芸の町八王子へイギリス人六人と連れ立って」行きます。

(八王子は)人口は二万くらい。(中略)家々は木造二階建てで、時折見かける耐火性の「練り土」の家は銀行か役所であった。たいていの家に絹の手織機があり、絹織物の店を出している。道幅二十六メートル、約一マイル[二キロメートル]近くもつづく大通りにそって、ところどころに車井戸がある。『シュリーマン旅行記 清国・日本』


なお、シュリーマンがトロイ遺跡を発掘するのは、その後49歳のときのことです。

「シュリーまん」の企画を考案したのは、八王子市にある創価大学文学部の学生たち。つるや製菓で「シュリーまん」は大きな反響を呼んでいて、店長さんからも感謝の言葉をいただいているとのこと。また、「くまざわ書店八王子店」に「シュリーマン・学生選書コーナー」が設けられるなど、「シュリーまん」だけではなく、シュリーマン関連のイベントも盛り上がっているようです。

2022年はシュリーマン生誕200年であることも、ぜひ覚えておいてください。

あ、はい、覚えておきます…。


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「絹の道」の起点 大塚山公園へ

さて、いよいよ「絹の道」へ! 鑓水(やりみず)という地区にある大塚山公園から約1.5kmの道が「絹の道」として史跡に指定されていて、そのうち昔の面影が残されているのは約1kmです。大塚山公園までは、八王子駅南口から歩いて1~1時間半ほど。

国土地理院ウェブサイトより。青く記したところが「絹の道」。その起点「△」のあたりが大塚山公園

八王子駅南口を出発し15分ほどで国道16号線に合流します。この国道16号線がだいたいかつての「絹の道」だとされますが、「絹の道」にもいろいろなルートがあったようです。

栄華の夢の跡 道了堂

大塚山公園には「絹の道」と刻まれた石碑が立っています。1957(昭和32)年に立てられたもので、建立した中心人物は橋本義夫(1902~85)。「文章は一部の特権階級のものではなく、万人のものであるべきだ」と主張する「ふだん記(ぎ)」運動の指導者で、郷土の歴史や無名の人物などを発掘する活動を行っていました。

「絹の道」碑。左面には「日本蚕糸業史跡」と刻まれている

かつて浜街道(横浜街道)と呼ばれた八王子から横浜へと通じる道が「絹の道」と称されるようになったのは、橋本義夫の功績が大きかったと言えます。「絹の道」は、1996(平成8)年、文化庁選定の「歴史の道百選」にも選ばれました。

石碑の横には石段があり、その上にはかつて道了堂と呼ばれた建物がありました。鑓水と呼ばれるこの地域の商人を中心に、鑓水の永泉寺の住職が道了尊を勧請し、1874(明治7)年に創建されたものです。道了尊とは、小田原の大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ)の守護神とされる妙覚道了(みょうがくどうりょう)のこと。寺を永久にまもるため、天狗の姿となっています。

説明版にはかつての道了堂の絵が描かれていて、いくつもの建物があったことがわかります。「鑓水商人たちがもっとも華々しい活動を展開していたといわれる明治十~二十年代にかけての道了堂は、鑓水生糸商人のシンボル」(『新八王子市史 通史編5』)でした。

説明版の道了堂の絵。当時の栄華が偲ばれる

しかしその後、生糸商人たちは没落していき、道了堂もしだいに荒廃してきます。1983(昭和58)年には倒壊しかけた堂が撤去されました。今は礎石やいくつかの灯籠などが残るのみです。では、なぜ生糸商人たちはそのような歴史を辿ったのか? それを探りに「絹の道」を歩いた先にある「絹の道資料館」を目指します。

現在の道了堂跡

「絹の道」を歩いて「絹の道資料館」へ

道了堂跡の前に続く「絹の道」は、左右を竹やぶや林に囲まれた下り道で、道幅は2~3mほど。落ち葉を踏みしめながら静かな山道を歩いていきます。この「絹の道」は尾根に続く道。シュリーマンもこの道を進んだのでしょうか。途中、視界が開け、ぽつりぽつりと家並みやビルなども見えました。

こんなに山深い場所もあるんですね!



昔の面影を残した「絹の道」の散策は20分ほど。舗装道路に出たすぐ先に現れたのが「絹の道資料館」です。かつての鑓水の生糸商人、八木下要右衛門(やぎしたようえもん)の家屋跡に、生糸商人の屋敷をイメージして建てられ、1990(平成2)年3月に開館しました。


山間の小村である鑓水では、養蚕や農業などが生業とされていて、周辺の村々から集荷した糸を八王子の市で売る生糸商人がいましたが、横浜開港を機に、八王子の糸を買い取り横浜へと運んで売って利益を上げる者が現れ、のちに「鑓水商人」と呼ばれるようになります。

「絹の道資料館」では蚕の一生や製紙業・絹産業の歴史など幅広く展示。繭は煮て生糸をとる


養蚕が「お金になる」ため盛んだったことは前述のとおり。幕末、日本が開国され、横浜などで交易が始まると、日本からの主要輸出品は生糸と茶でした。特に生糸は、当時ヨーロッパで蚕の病気が広がって生糸生産量が減少していたこともあり、日本の生糸が求められました。ただし、品質が悪かったため、明治政府は器械製糸工場の建設を急ぎ、1972(明治5)年、群馬に富岡製糸場を設立。その5年後に、八王子博物館のところで紹介した萩原彦七が八王子で製糸工場の操業を始めたわけです。
絹の道資料館

呪われた? 「絹の道」

「絹の道資料館」には、鑓水商人の系譜も簡単に紹介されていますが、八木下要右衛門家は4代目の頃に没落しています。『多摩の百年 下──絹の道──』(朝日新聞東京本社社会部/朝日新聞社)には、鑓水商人の栄枯盛衰も紹介されていて、2代目要右衛門は夜盗によって殺されたとのこと(一説には3代目に殺されたとも)。要右衛門は生糸商人のほか質屋もしていたので、「金貸し業者に対する庶民の怨念も感じられる」と同書は書いています。

生糸は相場の好況、不況に大きく左右されたため、大儲けする者も、没落する者もいました。“やり手”でなければ商売で成功しなかったようです。しかし、江戸の商人などがやがて生糸や織物の取引きを牛耳っていき、時代の急激な変化に乗り遅れてしまった鑓水商人は、花火のように消えてしまいました。

鑓水商人たちの裏の顔や「絹の道」での事件の数々については、その名も『呪われたシルク・ロード』(角川書店)に詳しく描かれています。著者は角川書店創業者の角川源義(げんよし)の長女、辺見じゅん(1939~2011)です。

大金が動いた生糸商人たちの世界は生々しいものですが、その一方で、自由民権運動につながる知識やキリスト教なども、生糸や絹の商人、養蚕家を兼ねる豪農により、「絹の道」から伝えられたと「絹の道資料館」では紹介されています。「絹の道」は人間の思想から業欲まで、表も裏も、あらゆるものが行き交っていたのです。

深い、深いぞ絹の道!

横浜のシルク博物館

最後に「絹の道」の終着点、横浜も訪ねました。横浜には1959(昭和34)年3月に開館したシルク博物館があります。大桟橋のすぐ近く、山下公園横に建つシルクセンターの2階にある博物館には、蚕の成長、繭から糸ができるまで、織りと染めなど、さまざまな過程が展示されていて、機織りの体験もできます。

うってかわって都会のど真ん中にも!


「ちょうど、蚕が繭を作っているところです」と学芸員の石鍋由美子さんにうながされて、四角い小さな枠がいくつも組まれた装置を見にいくと、うっすらとした繭があり中に蚕が見えます。まさに繭を作っている途中。その横では、枠を伝っている蚕がいます。蚕をちゃんと見るのが初めての著者。その大きさにびっくりです。蚕は上へと移動する性質があり、空いている枠の中に納まって繭を作り始めるとのことですが、中にはなかなか枠に入らない蚕もいるそうです。

蚕を間近で見られるのはシルク博物館ならでは

繭から糸をとる工程も見られます。繭は熱風乾燥するなどして、中の蛹(さなぎ)が繭を破って出てこないように殺します。繭は粒(りゅう)という単位で数えます。繭1粒から約1300mの生糸がとれ、通常7粒を一緒に生糸をとりますが、取引内容によって、つまり求められる生糸の太さなどによって、その数は変わるそうです。

糸はとても細いが丈夫。指で触れるとよくわかる

殺された蛹は家畜のエサになったり、貴重なタンパク源として人の食用にもなるとのこと。蚕はほとんどすべてが活用できて、捨てるところがないのです。

上の階には、シルクのあゆみの展示があり、世界の衣装や日本の古代から現代までの衣装が見られます。蚕の歴史は、4500年前の中国にまでさかのぼります。ここから「シルクロード」を通ってヨーロッパなどへ運ばれました。日本には弥生時代、朝鮮半島から入ってきたとされます。

昭和の始めに220万戸あったとされる養蚕農家は、その後、不況や戦争などが原因で減少していきました。2020年には228戸のみとなっています。現在は、中国やインド、ベトナムなどが主要な養蚕業の国。絹製品を作ると、日本製は中国製の10倍くらいの値段となってしまうとのことです。しかし、日本の蚕は優れた品種で技術力も高く、養蚕業を見直す動きも進められています。

絹のすべてが学べ、見学できるシルク博物館にはショップもあり、さまざまなシルク製品が販売されています。また、さまざまなワークショップなども開催されていますので、同館サイトをご参照ください。
シルク博物館

「お蚕様」が世界を救う?

生糸はタンパク質からできていて、保湿性や保温性に優れ、人間の体にもよくなじみます。そのため、手術用の糸や人工血管などの医療分野でも、生糸は活用されています。粉末にしたシルクパウダーは、化粧品や健康食品などに幅広く利用されています。

さらに、蚕でアルツハイマー病などの認知症の改善に挑戦したり、さまざまな感染症に対するワクチンを作ったりする研究も進められているとのことです(『カイコの科学』日本蚕糸学会/朝倉書店)。

蚕は、八王子や日本の農家に現金収入をもたらしてくれただけではなく、八王子の町、そして日本の発展にも大きく寄与してきました。しかしそれだけではなく、これからも蚕や生糸の持つ可能性は、とてつもなく高いのです。

「お蚕様」のことは、もっとよく知って、もっと大切にして、そして、もっともっと感謝しなければならないようです。

書いた人

1968年、北海道オホーツクの方で生まれる。大学卒業後、アフリカのザイール(現コンゴ)で仕事をするものの、半年後に暴動でカラシニコフ銃をつきつけられ帰国。その後、南フランスのマルセイユで3年半、日本の旅行会社で3年働き、旅行関連を中心に執筆を開始する。日本各地や都内の路地裏をさまよい歩く、または右往左往する日々を送っている。