「人間(じんかん)50年 化天(げてん)のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」
民族芸能「幸若舞(こうわかまい)」の演目『敦盛(あつもり)』の一節。織田信長のお気に入りだったということで、耳にしたことがある人も多いでしょう。この舞のモデルになったのが『平家物語』に登場する、平敦盛(たいらの あつもり)の死を描いた『敦盛最期(あつもりの さいご)』です。
敦盛最期の背景
木曽義仲(きそ よしなか)によって京都から追い出された平家一門は、神戸に移ります。しかし神戸の本拠地を今度は鎌倉幕府軍に叩かれてしまい、平家一門は再び西へと逃げていきます。
平敦盛は、平清盛の甥にあたる人物で、当時数え17歳の超絶美少年でした。
熊谷直実が「逃げるな」と声をかけた男
鎌倉軍に熊谷直実(くまがい なおざね)という武士がいました。現在の埼玉県熊谷市を本拠地にしていた豪族で、熊谷駅前に銅像が立っています。
直実は、平家が馬ごと船に乗り込んで逃げていくのを見て「ああ、身分の高い奴がいれば戦って名を上げたいなぁ」と思い、海岸の方へ行きました。
するとそこに、上等な服を着て、立派な鎧兜を装備し、極上の馬に乗った武士が、船に乗るために海に入っているのを見かけました。
ここからが、教科書にも載っている部分です。
熊谷、
「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵(かたき)にを見せさせたまふものかな。返させたまへ」と扇を上げて招きければ、招かれてとつて返す。
熊谷直実が武者に声をかけます。
「そこにおられるのは、この戦の大将格の方と見受ける! 卑怯にも敵に背を向けて逃げるのですか! 引き返しなさい!」
戦の大将は、ただふんぞり返ってるだけでいいわけがありません。人を使うポジションの人には相応の責任が伴います。だから直実はその責任から逃げるのは卑怯だと煽って、引き返して来いと扇で招くしぐさをしました。
そしてその武者はそれに応じて引き返してきました!
兜を取ると、年端もいかない美少年だった!
汀(みぎわ)にうち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とつておさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふウのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしやうショウ)して、かねぐろなり。わが子の小次郎(こじらうロウ)がよはひ(ヨワイ)ほどにて容顔まことに美麗(びれい)なりければ、いづズくに刀を立べしともおぼえず。
武者が波打ち際まで引き返し海から上がろうとしたところを、熊谷さんは馬で近づいてむんずと掴んでドウッと落としました。すかさず取り押さえ、頸を切ろうと武者の兜を押しのけて顔を見れば、16か17歳ぐらいの少年でした。薄化粧をしてお歯黒をしています。
熊谷さんの息子と同い年ぐらいで、しかも超美少年だったので、どこに刀を差したものかと躊躇してしまいました。
「そもそも、いかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん」と申せば、「汝はたそ」 ととひ給ふ。
「物そのもので候はねども、武藏の国の住人(すみびと)、熊谷次郎直実」と名のり申す。
「さては、なんぢにあふては名のるまじゐぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ。見知らふずるぞ」
とぞのたまひひける
熊谷さんは少年武者に「そもそも、あなたはどういう人でいらっしゃいますか? お名乗りください。助けて差し上げましょう」と言いました。
すると少年武者は逆に「お前は誰だ?」尋ねたので、「私は大したものではございません。武蔵国の住人、熊谷直実と申します」と答えます。
「ならばお前に名乗る必要はない。私はお前にとっては良い敵だ。私が名乗らなくても、この首を取って他の人に聞いてみろ。私を知っているだろうよ」
どうにかしてこの美少年を助けたい
熊谷 「あつぱれ大将軍や、この人一人(いちにん)討ちたてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやうもなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそおもふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん、あはれ、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥・梶原五十騎ばかりで続いたり。
熊谷さんは「なんて立派な大将なんだろうか。このお方一人を討ち取ったとしても、平家方はもう負けている。ここから勝てるわけがない。逆に討ち取らなかったといって、源氏方は勝っているのだから、ここから負けるということもあるまい。
息子が軽い怪我を負っただけでもオレは心苦しく思うのに、このお方のお父上は、このお方が討たれたと聞いたら、どれほど嘆かれることだろうか。可哀想だ。ああ、助けてやりたい」と思いました。
後ろをキッと振り返ると、土肥実平(どい さねひら)と梶原景時(かじわら かげとき)が50騎ほど引き連れてやってきます。
熊谷泪(なみだ)をおさへて申けるは、 「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養(おんけんよう)をこそ仕り候はめ」 と申ければ、 「ただ、とくとく首をとれ」 とぞのたまひける。
熊谷さんは涙をこらえながら言いました。
「助けて差し上げたいのですが、オレの味方の軍が雲霞のようにわらわらいるのです。けっして逃げることはできないでしょう。他の者の手におかけするより、同じ事ならば、この直実の手におかけして、後の供養をいたします」
しかし少年は「はやく首を取れ」とだけ言いました。
熊谷あまりにいとほ(お)しくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな」
とかきくどき、袖を顔に押しあててさめざめとぞ泣きゐたる。
熊谷さんは少年武士をあまりに可哀想に思い、どこに刀を差してよいのかも分からず、目の前が真っ暗になって、すっかりパニックになってしまいました。前も後ろもわからない様子だったけれども、そうしているわけにもいかず、泣く泣く首を切りました。
「ああ、弓矢取る身(=武士階級)ほど残念なものはないだろう。武芸の家に生まれなければ、こんなにも辛い目に遭わなかったろうに。情けなくもお打ちしてしまった」
と、ぶつぶつと言い、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いていました。
敦盛最期 その後の話
教科書に載っているのはここまでですが、この後熊谷さんがどうなったかというと……。
熊谷さんは泣きながら、頸を包むために少年武士の服を取ろうとしました。すると錦の袋に大事そうに入った笛を腰に差していたのに気づきました。それで熊谷さんは昨晩音楽を奏でていたのはこの少年たちだったと悟ります。戦場に笛を持っていく人なんて坂東武者にはいません。なんて優雅な人々だろうと感心しました。
そして熊谷さんは自分の上司にあたる、大将の源義経さんにその笛を見せると、義経さんも涙を流しました。
そして後から熊谷さんは、少年の名前が平敦盛(たいらの あつもり)というのを知り、笛が由緒正しい来歴のものであることも知り、出家を決意するのでした。
この『敦盛最期』の物語は多くの人の胸をうち、後世では「幸若舞」や「能」の名曲として知られています。
熊谷直実が出家した理由
ちなみに熊谷直実が出家したのは事実ですが、『吾妻鏡』では源平合戦の後しばらく経った後。全然関係ない理由で御家人と喧嘩した勢いで出家しています。事実はともかくとして、敦盛と熊谷直実は『平家物語』の中の登場人物として今も知られています。
偉そうな武士かと思って兜を取れば、儚げな美少年。他の章では血も涙もない戦闘マシーンのように書かれている坂東武者も、深い愛情を持っている、という、ギャップによるインパクトの強さがあります。敦盛の高潔さと、熊谷直実の焦る心情、そして戦の空しさを語る、『平家物語』屈指の章です。