「気づき」は「長所」だろうか。
履歴書やエントリーシートに書く「長所」の欄。「長所」でなくとも「アピールポイント」でもいい。果たして、「気づき」は、そのような人間の性格、性質を表すものといえるのだろうか。
新年を迎え、ひたひたと迫り来る就職活動解禁シーズン。今年もコロナ禍の影響でどうなることやらと心配しながら、ふと、ある疑問を思い出した。
「気づき」は、一体、何のカテゴリーに入るのかと。
面接官からすれば。些細なことにも「気づける」、そんな人間を採用したいと思うだろう。ド派手な能力ではないにしても、一緒に働く上では間違いなく必須能力の1つ。地味だが、現場では必ずや重宝がられる人物となるに違いない。そういう意味で、やはり、この「気づき」は、噛めば噛むほど味が出る「長所」といえるのかも。
今回、ご紹介するのは、そんな「気づき」のスペシャリスト。あらゆる先を見越して「気づく」能力は、主君である徳川家康をも凌ぐもの。
その名も「本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)」。
「鬼の作左(さくざ)」と呼ばれた、忠義厚い三河三奉行の1人である。
剛毅な性格ながらも、公平性を重視。武力一辺倒かと思いきや、意外にも奉行として活躍したとの評価も。
しかしながら。
最後は、この「気づき過ぎる」ところが裏目に出て、不遇の晩年を過ごすことに。
一体、彼の身に、何が起こったのか。
報われずに生涯を閉じたとされる本多重次。今回は、そんな彼の生き様を是非ともご紹介しよう。
徳川家康の天下取りを支えた苦労人
冒頭の画像は、福井県にある「丸岡城(まるおかじょう)」の傍に立つ石碑。
文面はコチラ。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥(こや)せ」
一見すると、標語のようだが。じつは、コレ、意外にも手紙なのだ。
一般的に、手紙といえば、現在の状況や心情などを書き連ねるもの。しかし、陣中で書かれたため、必要なことのみ簡潔に。余計なものをキレイに削ぎ落とした結果、この究極の短さとなったのである。ちなみに、この中に出てくる「お仙」とは、嫡子「仙千代(せんちよ、のちの「成重」)」の名前。
そして、この手紙の主こそ、今回の主役となる「本多重次」なのだ。
本多重次は、徳川家康の家臣である。
それも、享禄2(1529)年に生まれた重次は、7歳にして、既に徳川家康の祖父に当たる「松平清康(きよやす)」に仕えている。のちに「広忠(ひろただ)」、そして「家康」と3代にわたって仕えることから、その家臣歴は長いといえるだろう。
年齢は、重次の方が家康よりも一回りほど年上。家康の初陣にも、弟と付き従って参戦している。家臣ながらも、その厳格で剛毅な性格は、のちの天下人である家康の人格形成に、多大な影響を与えたとも。
永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」後、家康は今川氏から独立。ただ、未だ安定的な統治ができずに、永禄6(1563)年の「三河一向一揆」で不安定さが露呈する。もともと三河(愛知県)の一部は、本願寺勢力の地域。これが複雑に絡みつき、家臣らは家康側と、自らの宗派となる一揆側に分かれて対立することに。
この三河一向一揆は、家康の「人生最大の危機」の1つに数えられるほど。一揆側についた家臣の中には、のちに徳川十六神将に挙げられる武将も。そんなピンチの状況で、重次は迷わず改宗し、家康に付き従うのである。
重次のような忠義に厚い家臣らの力もあって、三河一向一揆も鎮圧。この困難を乗り越えた先に重次を待っていたのは、三河三奉行としてのポジションだった。家康は三河統治を安定させるため、岡崎(愛知県)に三奉行を置いたのである。これに抜擢されたのが、「天野康景(あまのやすかげ)」「高力清長(こうりききよなが)」そして、本多重次。非常にバランスの取れた顔ぶれだったようだ。
この三河三奉行時代、重次は「鬼の作左」と呼ばれていたという。ただ、先ほどからご紹介している通り、痒い所に手が届く、そんな「気づき」の達人の側面も持ち合わせている。
重次の「気づき」が大いに発揮されたのが、元亀3(1572)年、家康が武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」でのこと。織田信長の援軍も力及ばず、屈辱に震えて家康は敗走。なんとか、浜松城(静岡県)に戻ることはできたのだが。いかんせん、家康の頭には1つの憂慮すべき事項があった。
それが「兵糧」。
このあと、武田軍に浜松城を包囲されたとしても、そばには、我先にと討って出るほどの豪胆な家臣ばかり。そこに一抹の不安もなかったが。このまま籠城するとなれば、話は別。十分な兵糧が必要となる。しかし、家康はそこまでの準備をしていなかったのである。
これに反応したのが、重次。
信じられないことに、彼は既に「籠城」も見越して、三の丸に必要な兵糧を備蓄していたのだ。この見事な配慮に、さすがの家康も大いに感心したという。
あらゆる事態を想定して、動くことのできる稀有な人物。ひとえに「気づき」の達人だからこそできる芸当だろう。本多重次の有能さがキラリと光るエピソードである。
豊臣秀吉の怒りを買った重次の「気づき」
さて、ここまで読まれた方は、大いに疑問を持ったに違いない。
一体、どうして。「不遇の晩年」なのかと。
様々なシュチュエーションを想定しながら、行動できるというのに。何がどうなって、晩年に徳川家康から見捨てられなければならなかったというのか。
なかなか想像するのも難しい。しかし、それは、ひとえに。
ややこしい方が絡んだ「ある事情」があったから。
確かに、彼が絡めば、事情は一変。
そう、あのお方。徳川家康が天下人となる前に、先に天下を取った人物。
豊臣秀吉である。
天正14(1586)年、秀吉は未だ天下を掴んでいなかった。
かつての主君である織田信長が自刃し、並居る戦国武将の中から、ようやく頭一つ抜け出したところ。ただ、この天正14(1586)年の時点では、天下取りの道筋が、ある程度は見通すことができたといえる。
というのも、秀吉は着々と足場を固めていたからだ。この前年には四国を制覇し、関白にも就任。あとは、いかに戦をせずに、名だたる戦国武将らを臣従させるか。のちの統治のコトも考えれば、兵力を維持したままで、天下を取りたかったのである。
そこで目を付けたのが、かつて織田信長と同盟関係にあった家康のコト。
秀吉は、一度、家康と戦ったことがある。正確には、信長の次男である「信雄(のぶかつ)」と家康の連合軍と対峙したのだが。この「小牧・長久手の戦い」では、結果的に和睦を結んでいる。出来れば、再度、家康とは戦いたくない。そんな心理があったのだろう。
今回、秀吉が取った行動はというと。
なんと家康に、上洛を要求したのである。これは、つまり家康に臣従せよというコト。
加えて、さらなる驚くべき事情が。
秀吉は、ただ家康に上洛を迫ったワケではない。簡単にいえば、家康が断れないような懐柔策を出したのである。それは、自分の妹を家康の正室へと嫁がせて。その上、母である「大政所(おおまんどころ)」を人質として家康の元へと送ったのである。
この大政所の世話役だったのが、本多重次。
何を心配することがあるだろう。「気づき」の達人であれば、間違いない。丁寧に大政所の世話をしたのだろうと思いそうだが。じつに、この予測が一気に裏切られる。
重次の取った行動は、全くの逆。
じつは、秀吉の母を殺す準備だったのである。
「Why Japanese people⁈」
いかにも、あの絶叫が聞こえそうだが。
あの「気づき」の重次が、どうしてまた…と言葉が続かない。
しかし、よくよく考えれば。
「気づき」過ぎるせいで、このような行動を取ったとも考えられる。
全ては、主君である家康のためのこと。
なぜなら、秀吉が実母を送り込んだとて、天下取りのために、実母を犠牲にしないとは言い切れないからだ。戦国武将たるもの、目的のためなら大事な人質をも見殺しにする。そんな事例をイヤというほど見てきたのだろう。冷静に分析すれば、秀吉は、家康をまんまと上洛させ、そのまま葬り去ることもできる、そんな可能性すらある状況なのだ。
実際、どう転ぶかは分からない。
そう考えた重次は、家康の身に何かあった場合に備えて。大政所のいた屋敷の周囲に薪を積み上げたのである(諸説あり)。いざとなれば、いつでも火をつけて焼き殺せるようにと。
裏を返せば、それほど切迫した状況だったともいえるだろう。重次は必死だったのだ。しかし、現実には何も起きず。家康は上洛後、無事に帰還。大政所も秀吉の元へと帰っていく。杞憂で終わったと喜ぶべきところなのだが。
この事実が、秀吉に知られることに。
秀吉は怒り心頭。
この一件だけではない。これまでの重次の不備も責め立てて。秀吉は、家康に猛抗議をしたのである。秀吉の怒りは収まらず、小田原攻めの際には、重次に代わって嫡男の成重(あの手紙の仙千代)が参陣。よほどの因縁を残したのだろう。
結果的に、関東に移った家康は、重次に対して上総国古井戸(千葉県)での蟄居(ちっきょ、一定の場所から出れずに謹慎)を命じる。役を解かれて、じつに3000石を与えられたのみ。こうして、重次の晩年は、家康から見放された形に。
慶長元(1596)年7月16日。
本多重次死去。享年68。
非常に寂しい晩年であった。
最後に。
本多重次の取った行動には、1つの疑問がある。
それほどの「気づき」の達人なら、自分の行動に対するあらゆる結果も想定できたはずである。秀吉が、ほぼ次の天下人となることも十分理解していただろう。そして、そんな天下人の実母を焼き殺す準備がどれほど罪深いコトかも。
これらの事実が間違いなく秀吉に伝わることも。そして、秀吉の怒りを買うことも。そうなれば、自身の身に何らかの処分が下ることも。
全ての選択肢の「先」を見越していたはずである。
けれど、重次はあえての行動に出た。
「不遇」「見放された」などと評される晩年だが。
重次からすればそんな結果も織り込み済み。どうも、そんな気がしてならないのだ。
本多重次の基準は明確だ。想定されうる一番悲惨な結果を片方の天秤に乗せたとしても。もう片方の天秤には、家康の身の安全が乗っている。それは、絶対に覆すことのない「重み」。
数々の戦で、命を顧みなかった本多重次。その戦い方は、ある種の人生観を私たちに教えてくれる。一説には、片目を失い、片足を失い。指も何本か欠損しているという。しかし、そんなことなど、重次には取るに足らぬこと。それでも、最後まで考え抜いたのは、主君「家康」のことなのだ。
だから、本多重次の「長所」欄には是非とも、こう追記したい。
絶対に裏切らない。
見返りを求めない。
切なすぎるほどの「忠誠心」
写真撮影:大村健太
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 学研プラス 2011年8月
『徳川四天王と最強三河武士団』 井上岳則ら編 双葉社 2016年11月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
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