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永遠のふたり 白洲次郎と正子

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Culture
2024.05.15

口に残るはかぐわしき天女の香り。江戸庶民の憧れから生まれた”口臭”物語

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ほんの半日で人生を変えてしまう、そんな出来事が人生にはある。それは晴れた日の午後かもしれないし、うららかな陽気に誘われるように眠りに落ちた、瞬間の出来事かもしれない。

江戸時代の市井の雑事を記した『半日閑話』(はんにちかんわ)には、天女とキスをした男の話が紹介されている。男は天女をも魅惑する容貌だったのか。はたまた天女のきまぐれか? 

この見聞記録が真実なら、なんとも羨ましい話ではある。ところがこの話、どうやら裏がありそうなのである。まずはそのあらましを紹介しよう。

天女とキスした男

孫右衛門という男が自宅で昼寝していた折、天女が降りてきてキスをした。
辺りに人気はない。これはまた思いもよらぬ夢をみてしまった。人に話すのもなんだか気恥ずかしい。孫右衛門は口外せずに胸の内に留めておくことにした。

さて、その日より孫右衛門がものを言うたびに口からなんとも良い香りがするようになった。あたかも匂いの玉を含んだようである。人びとは不審に思った。そのうちの一人が言った。「貴殿は嗜みが深い。口のなかから常に芳しい香りが致します。奇特千万、まことに感心致します」そこで孫右衛門は事の次第を語ったという。

ところで孫右衛門はとりたてて美男ではない。愛嬌があるわけでもない。つまりどこにでもいる、ごく普通の男にすぎなかった。天女はどうして情をかけたのだろう。芳しい香りは孫右衛門が死ぬまで一生消えずに香りつづけたという。(「半日閑話」より)

天界の香りを求めて


目覚めのキスをまどろむ男に…と読めばロマンチックな場面だけれど、そもそも天女はなぜうだつが上がらない男にキスをしたのだろう。
そして男が口を開くたびに漂わせたという芳香! なんといっても天女直々、口移しで頂戴した香りである。それこそ天界の美しい情景を匂い玉に閉じこめたような、妖艶で神秘的な香りにちがいない。きっと得も言われぬ匂いがするはずだ。

この物語を収めた『半日閑話』は大田南畝による作とされ、江戸時代の市井の雑事を記した見聞録である。見聞録というからには、実際に見聞きしたことが記されているわけだが作者が誰からこの話を聞いたかは分からない。そんな幸運な男がいれば街は大賑わいになっているはずだけれど。

あるいは…作り話だったりして。

江戸の口臭事情

「病草紙 異本」(国立国会図書館デジタルコレクション) 

一説によれば、この天女とキスした男の話(正しくは「天女降て男に戯るゝ事」)は、大田南畝の創作だという。物語が生まれた背景には当時の口臭事情があった。

江戸時代、巷ではすでにさまざまな歯磨剤が売られていた。服装や髪型を整えるのとおなじように、歯磨きはとっくに庶民の嗜みになっていたのである。磨き砂や滑石に香料を加えたものや表紙に有名な文筆家の宣伝文を載せたものまであったというから、当時の人びとがいかに歯へ情熱を傾けていたかがわかる。
「お口の病気は万病のもと」という聞き古された言い回しを江戸の人びとが知っていたかは怪しいが、それでも口腔ケアが重要らしいことには気づいていたようである。

もし「口の中から良い匂いがする」というじつにシンプルな憧れが大田南畝にこの物語を書かせたとするなら、私があれほど夢に見た天女の芳しい香りは歯磨き粉の匂いだった、ということになる。そんなの幻滅だ。
それでも収穫はあった(と思いたい)。江戸の人びとがこれほどまでに口から良い匂いをさせることに心を砕いていた、ということが分かったのだから。

お口のマナーは守りましょう

じっさい、口臭についての記述は古い文献のなかにも見ることができる。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて描かれたとされる絵巻物『病草紙』は、当時の奇病や治療風景を克明に描いたもので、ここに口中の症状で苦しむ人が登場する。歯槽膿漏の男、虫歯の女など現代人にも聞き馴染みのある症状で顔をゆがめるさまは胸に来るものがある。そのうちの一つに、口臭のひどい女の絵がある。

この女性は顔も髪も美しく、宮中に勤めている。美貌のうわさを聞いて男性が会いに来たが、あまりに口が臭くて近寄れない。 土佐光長(画)「病草紙」(国立国会図書館デジタルコレクション)

歯を磨いているのが件の女性だろう。床に水を入れた椀が置いてある。まさに歯みがきのまっ最中のようだが、目の前の女性は鼻を押さえて笑っている。これはもうあきらかにバカにしている。笑いをまったく隠しきれていない。もう一人の女性も歯ブラシを指さしてなにか意地悪なことを言っているように見えなくもない。なんともいたたまれない場面なのだけれど、申し訳ないなと思いつつ笑えてしまうのだから、私もそうとう性格が悪い。

さいごに

天女とキスをするという物語が当時の口臭衛生と世相を反映した庶民の心から生まれた話なら、天女のお相手がぱっとしない男でも妙に納得できるというものだ。きっと市井の人びとは男の話と自分とを重ねて、天女のような女性との甘いひと時をを夢見たにちがいないから。

あるいはもし本当の話だったら(その可能性もなくはないので)、その場合は天女の気まぐれだった、ということで片付けてしまおうかな。

【参考図書】
大田南畝(著)、浜田義一郎(編集)「大田南畝全集〈第11巻〉」1988年

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書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。