日本文化の入り口マガジン和樂web
10月6日(木)
失敗しなくちゃ、成功はしないわよ。(ココ・シャネル)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
10月6日(木)

失敗しなくちゃ、成功はしないわよ。(ココ・シャネル)

読み物
Culture
2022.05.19

嘘か誠か? 戦国の大大名・今川義元のバカ殿エピソードの真実とは

この記事を書いた人

織田信長の天下統一へのデビュー戦となった「桶狭間(おけはざま)の戦い」に敗れ、戦死した戦国大名が今川義元(いまがわよしもと)です。織田の軍勢に囲まれて、今まさに首を取られるというシーンが浮世絵になっているなんて、なんだか気の毒。

アイキャッチ画像、中央の男性ですね!

今川義元といえば、顔におしろい歯にはお歯黒の公家風メイクで、馬ではなく輿(こし)に乗って戦場へ行き、襲われやすい谷間に陣を張って宴会をしているところを討たれたバカ殿様。時代劇などでは長らくそんな風に描かれてきましたが、実は「東海の大大名」今川氏の黄金期を築いたともいわれる人物でもあります。

バカ殿エピソードの真偽、本当はどんな大名だったのか、後世にぱっとしない人物として描かれた理由とは? 今川義元について解説します。

桶狭間の戦いでのバカ殿伝説は嘘、本当?

1.メイクをしていたのは……本当!

ただし戦国時代には、敵に首を取られたときに見苦しくないようにと化粧をして戦に赴くのは、ある程度の武将になれば珍しいことではなかったそうです。お歯黒はもともとは貴族の成人(既婚)女性がする化粧でしたが、高貴な身分を表すとして男性もすることがありました。

義元の母は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘で、公家の出身。今川家はもともと公家と交流が深く、義元が和歌や蹴鞠(けまり)といった貴族文化に親しんでいたのは本当です。

東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧 著者:芳盛 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

2.馬ではなく輿に乗っていたのは……本当!

義元が桶狭間の戦いに出陣するときに、輿に乗っていたのは本当。輿が近くにあったことから織田勢は総大将に狙いを定めることができたようです。
けれども、よくいわれる「肥満すぎて馬に乗れなかった」というのは後から脚色されたエピソード。

輿はもともと天皇や皇后などのごく限られた高貴な人だけが乗ることのできたもの。やがて京都の足利将軍家などでも使われるようになっていきました。義元が輿に乗って戦に赴いたのは、「今川家は塗輿(ぬりごし)を使うことを許されている名家であるぞ」と織田勢にアピールするためだったのかもしれません。

3.谷間に陣を張って宴会をしていた……たぶん嘘

義元が陣を張ったのは「桶狭間山」という丘であり、谷ではなかったという説が有力です。
部下の松平元康(のちの徳川家康)が織田勢の砦を攻略したという知らせを受けて、機嫌よく謡(うたい)を口ずさんだと伝えられていますが、宴会をしていたというのはおそらくどこかで尾ひれがついたもの。

義元は歴戦の武将であり、陣を張るべき場所も兵糧の大切さも知り尽くしていたはず。ただ天気が急変し豪雨になって、視界や足元が悪くなったところを織田勢の急襲にあい、応戦するのが遅れたのだろうと考えられています。

義元は、後世に描かれたようなバカ殿様ではありませんでした。
では、本当はどんな人物だったのでしょう。

ちなみに「今川焼」とも関係あるとかないとか。

名門今川氏に生まれるも、一度は出家

今川氏は室町幕府の将軍足利氏の支流にあたる武士の名家。現在の静岡県にあたる駿河(するが)を統治する守護職(しゅごしき)を代々つとめ、義元の父である氏親(うじちか)の代に隣国の遠江(とうとうみ)までを支配する大名となりました。

義元は1519(永正16)年に氏親と正室との間に生まれました。幼名は芳菊丸(ほうぎくまる、方菊丸とも)。すでに複数の兄がいたため、後継者争いの火種を消そうとしたのか、数え年4歳になる頃に寺へと入れられています。

このときに教育係として選ばれたのが、今川氏の重臣の子でもあった禅僧の太原崇孚(たいげんすうふ)、またの名を雪斎(せっさい)。のちに義元のブレーンとなる人物です。
少年時代の義元は雪斎とともに上洛し、京都の建仁寺や妙心寺で修行を積んでいます。

〔大日本沿海輿地全図 〕. 第100図 甲斐・駿河(甲斐・山中村・南部宿・駿河・富士山・佐野村) 著者:伊能忠敬 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

異母兄との家督争いに勝ち、戦国大名へ

ところが1526(大永6)年に氏親が亡くなり、1536(天文5)年には家督を継いでいた兄の氏輝(うじてる)も早世。後継者に選ばれたのは、すでに出家をして栴岳承芳 (せんがくしょうほう)という名の僧になっていた18歳の義元でした。
しかし、異母兄で同じく僧となっていた玄広恵探 (げんこうえたん)が家督争いに名乗りを上げて、「花蔵(花倉)の乱」が勃発します。

義元には、夫氏親亡き後に病弱だった息子氏輝を支え、女大名と呼ばれる活躍をしていた母寿桂尼(じゅけいに)の後押しがありました。また、隣国の相模(さがみ)を治めていた北条氏綱(ほうじょううじつな)も義元を支援。花蔵の乱に勝利した義元は、戦国大名として歴史の表舞台へと登場します。

室町幕府12代将軍の足利義晴(よしはる)の名から一字をたまわって今川義元と名を改めるのは、正確には家督相続のために僧から還俗したこの頃からです。

人生何が起こるかわからない!

相模・甲斐・駿河 三国同盟の実現

義元は家督を継いだ翌1537(天文6)年に、甲斐(かい)の武田氏から正室を迎え、同盟関係を結んでいます。しかしそのために、花蔵の乱で義元を助けたはずの北条氏との関係は不穏なものに。義元の祖母は北条氏から嫁いできた女性で、その絆によって義元が家督を継ぐ前には、ともに武田氏と戦うこともあったのですが……。一転、北条氏が駿河国の東側に攻め入り、「河東一乱(かとういちらん)」という戦へと発展します。

隣接する三国のうち二国が手を結べば、もう一国が警戒をするのは仕方のないこと。この油断できない状況を打破したのが、今川義元、北条氏綱の後を継いだ氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ、のちの武田信玄)がお互いの子ども同士を結婚させることで和平協定を結んだ、いわゆる「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」です。実現に暗躍したとされるのが義元の軍師、雪斎でした。

三河併合で、幼少期の家康を人質に

甲斐の武田氏、相模の北条氏の動きに気を配りながら、義元は西へも兵を進めています。
一時は現在の愛知県にあたる三河(みかわ)から尾張(おわり)の国境付近まで勢力を伸ばし、岡崎城主松平氏の後継ぎだった6歳の竹千代(のちの徳川家康)を人質にしたというエピソードは有名です。

このときの三河は、尾張の織田氏からも侵攻の危機にありました。そのため松平氏は自ら今川氏を選んで、庇護下に入る選択をしたという見方もあります。
実際、義元は竹千代が元服(成人)したときに自分の名から一字を与え松平元信(もとのぶ)、結婚後は元康(もとやす)と名乗らせています。自分の姪と結婚させていることからも、ただの人質というよりは信頼できる家臣へと育てようとしていたのではないでしょうか。

徳川家康と今川義元がそんな関係だったとは!

駿河黄金期と『今川仮名目録』追加

義元はこうして領地を守り拡大していきながら、検地の実施や鉱山の開発も行いました。商人たちの中から商人頭を選んで取りまとめを任せたことで、東海道沿いや駿河港などでは商いも活気づき、領国を経済的に豊かな国へと発展させています。
また、武士の台頭により凋落しつつあった公家が義元を頼って京都から移り住むケースも多く、雅な貴族文化が花開いて、駿河は黄金期と呼ばれる時代を迎えるのです。

戦国武将たちが茶の湯に一時の平和を求めたことは有名ですが、ほかにも人気のあったものに連歌があります。連歌は和歌の五・七・五の上の句を一人が詠み、それを受けて七・七の下の句を別の人が詠み連ねていくもの。戦国時代には戦勝祈願を込めた連歌を神に奉納する「祈祷連歌」が流行しました。義元も戦の前にはきっと家臣たちとともに連歌を通して勝利を祈り、士気を高めたことでしょう。

この頃の義元の自信、そして「幕府からの独立志向」を示しているともいわれるものに、1553(天文22)年に制定された『今川仮名目録』追加21カ条があります。
『今川仮名目録』というのは義元の父氏親が1526(大永6)年に亡くなる直前に、家臣団や領国の民をまとめるために定めた今川氏独自の法律で、一般的には分国法または戦国家法と呼ばれるもの。
義元はそこに時代にのっとった条文を追加するにあたり、「自分の力量を持って国の法度を申しつける」という堂々とした一文を使用しました。

桶狭間での死、戦国大名今川氏の滅亡

義元が桶狭間の戦いで戦死したのは、1560(永禄3)年、42歳のとき。
今川家の家督はすでに長男の氏真(うじざね)に譲られていましたが、氏真は和歌や蹴鞠を好むばかりで戦国大名としては頼りにならなかったようです。義元亡き後の今川家からは次々と人が離脱していきました。松平元康も三河の岡崎城へ戻り、義元からもらった元の字を捨て、名を家康と改めています。

武田信玄が三国同盟を破って駿河に侵攻し、今川氏が領地を失ったのは1568(永禄11)年のこと。
こうして今川氏の名は戦国の地図からは消えるのですが、実は家康は最終的に、知り合いを頼って転々としていた氏真を保護して屋敷を与え、生活に困らないよう面倒を見ています。のちに子孫は徳川幕府の儀式などを司る高家(こうけ)の職につき、存続していきました。

義元への恩は忘れていなかったのですね!

1572(元亀3)年、30歳頃の徳川家康 
徳川治績年間紀事・初代安国院殿家康公 著者:大蘇芳年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

愚かな人物として描かれたのはなぜ?

義元があまりよいイメージで描かれなかった理由に、この家康との浅からぬ縁があります。
江戸時代の家康は神様として祀られるほどの存在で、天下取りに関わるエピソードは本に書いたり芝居で演じたりすることが禁じられていました。それでも人々の関心は高く、時代設定を変えたり登場人物の名前をもじったりして、パロディに仕立てた作品が登場するほど。

「家康公の上司だった大名?」
「幼い家康公を人質にしたなんて、恐れ多いことをしたものだ」

おそらくは、そんなお上への忖度があったのではないでしょうか。
後世に誤解された戦国大名ナンバーワンといえそうな、今川義元について紹介しました。

アイキャッチ:「大日本歴史錦繪」より桶狭間合戦(国立国会図書館デジタルコレクションより)
*中央の「稲川治部太夫源義元」が今川義元

参考書籍:
新説戦乱の日本史 桶狭間の戦い(小学館)
復権!今川義元公の実像に迫る(静岡新聞社)
人物叢書 今川義元(吉川弘文館)
今川氏研究の最前線(洋泉社)
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)

ゲーム内で今川義元が「蹴鞠ろうぞ」と言っていた謎が解けました!


【Switch】戦国無双4 DX

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。