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2022.06.06

彬子女王殿下・黒川光博さん・黒川光隆さんが語る、寬仁親王殿下の思い出『ひげの殿下日記』特別鼎談

この記事を書いた人

2012年に薨去された、寬仁親王殿下(ともひとしんのうでんか)。薨去から10年にあたる2022年6月、殿下が生前に書き続けてこられたエッセイが出版されました。タイトルは『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』。1980年から2011年にかけて発刊された、寬仁親王殿下が会長を務める柏朋会(はくほうかい)の会報誌『ザ・トド』、この誌面に掲載されたエッセイ「とどのおしゃべり」を再構成した書籍です。

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この記事では、書籍の巻末に収録した、彬子女王殿下と黒川光博さん(〝寬仁親王殿下先輩〟株式会社虎屋会長)、黒川光隆さん(〝寬仁親王殿下学友〟学習院同窓会桜友会副会長)による、特別鼎談をお届けします。

写真左から、彬子女王殿下、黒川光博さん、黒川光隆さん

彬子女王殿下

1981年12月20日、寬仁親王の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授他。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。『赤と青のガウン オックスフォード留学記』(PHP研究所)『京都 ものがたりの道』(毎日新聞出版)『日本美のこころ』『日本美のこころ 最後の職人ものがたり』(ともに小学館)など著書多数。

黒川光博さん

1943年東京都生まれ。虎屋十七代。学習院大学卒業後、銀行勤務を経て1969年虎屋入社。1991年同社代表取締役社長、2020年同社会長就任。寬仁親王殿下のご著書『今ベールを脱ぐ ジェントルマンの極意』(小学館)には殿下との服飾談義が収録されている。

黒川光隆さん

1945年東京都生まれ。虎屋十六代の次男として生まれる。学習院大学卒業後、広告代理店勤務。学習院同窓会桜友会副会長、日本スポーツ芸術協会理事長、日本動物福祉協会理事長など多くの役職を歴任。寬仁親王殿下のご学友として、長きにわたり友情を育んだ。

鼎談〝ひげの殿下〟寬仁親王殿下の思い出

彬子女王殿下(以下敬称略・彬子女王): 父の親友の黒川光博おじちゃまと黒川光隆おじちゃまにお話をうかがえますこと、とてもうれしく思います。

黒川光隆さん(以下敬称略・光隆): 噓をつくつもりもありませんし、オーバーに言うつもりもありませんけれども、私がお話しすることは活字にはできないと思います(笑)。私は、殿下と学習院の同級で、幼いころから親しくさせていただきました。大学卒業四十周年のとき、同窓会のテーマをなににしようかということで、殿下をトップにして、私がサブで、二十人ぐらいのメンバーを募って、ここ(現三笠宮東邸)で毎回、会議をしておりました。殿下のお考えでは、ここは公邸なのですよね。この応接室の向こう側はプライベート空間ですが、「公邸である以上、税金を払っているのだから使っていい。そんなに遠慮して気にする必要ないのだよ」とおっしゃってくださいまして、非常に贅沢ですけれども宮邸を幹事会の打ち合わせの場にしてくださいました。

 学習院大学を卒業した同窓生に、学習院のなにが一番胸に残っているかと尋ねましたら、多くの人が安倍能成先生の「正直第一」という言葉である、と。それでは、我々の同窓会のテーマは、安倍院長の「正直第一」にしましょう、となり、同窓会案内状の一面に取り上げました。

 卒業四十周年ということで、みんな年寄りになってきましたから(笑)、若い学生からもエールをもらおうというアイディアが出まして、殿下がいろんな形で応援されていた学習院の現役の応援団に同窓会に来てもらって、応援のエールをもらいました。殿下は応援団の名誉顧問でいらっしゃいましたよね。

彬子女王: そうですね。高等科のときでしたか、応援団長をしてらっしゃって。色紙などに、なにか言葉を書いてほしいと言われたときには、必ず「正直」と書いておられました。

黒川光博さん(以下敬称略・光博): 弟は同級生でしたが、私は年長なので殿下と親しくさせていただくようになったのは中学生のころからでした。軽井沢の家の近くに広っぱがあるのですが、そこで野球をしようということになり、弟が、「宮様をお連れするから」と。……いえ、〝正直〟に申し上げれば、そのような言葉を当時は使っておりませんで(笑)、「三笠を連れてくるから」という感じでした。そこでお話をしたり、一緒に野球をしたりしたのですが、当時は「三笠という男は、なんか弱々しいんだよな(笑)」と弟たちが言っていたのを思い出します。

彬子女王: 父ご本人も虚弱体質だったとおっしゃっていましたね。

光博: 最初にどのようなお話をさせていただいたかは全然覚えていないですけれども、お歳を重ねられていくうちに、弟たちが言っていた「弱々しい」という雰囲気が、どんどん変わっていかれました。本来のお姿が出てこられたのだと思います。

彬子女王: 父は光博おじちゃまのことを尊敬しておられました。光博おじちゃまの言うことだけは素直に聞かれていました(笑)。

光博: 話の時系列が飛び飛びになるのかもしれませんが、殿下は本当に議論好きでいらっしゃったし、筆が非常に立つ方だという印象があります。私は殿下に反発される意見を何度も申し上げたことがあって、「そんなことはない」「いいや、それはおかしい」というやりとりがかなりありました。

 英国にご留学されていたときに、一番手紙のやりとりをなさったのはお母さま殿下でいらっしゃったのですが、次は私なんです。今のようにメールがある時代とは違いますので、手紙で行ったり来たり、一〇〇通を超しました。

 トモさまが留学中に駐車違反で捕まったと日本の新聞に出たことがありました。私はそれに対して、そういうことはおやめくださいと申し上げたのですが、すると、「おまわりさんに捕まったのではなくて、駐車違反の見回りの人に切符を切られただけ」とおっしゃる(笑)。「どのように捕まったかの事実を今、問題にしているのではなく、よくないことをしている日本の皇族みたいな恰好で新聞に出ているのですよ」とご返事を差し上げたところ「そんなのはおかしい」「いやいや、そのようなことが取り上げられてしまうことが問題なんだ、あなた……」と、話が行ったり来たり(笑)。そういうことが何度もありました。

彬子女王: 私も留学中、同じようなことが何度もありました(笑)。意見が合わなくて手紙で何往復も。

光博: 議論が大好きでいらっしゃいましたね。

彬子女王: だから、あまり議論ができない子どもには興味がおありにならないようでした。子どものころは父との思い出があまりないような気がします。たぶん会話が成り立たないからということなのだと思うのですけれど、成長して、議論ができるようになってから、構われるようになった気がいたします。

光隆: 私たち同級生の間でも、よく議論はしていましたし、同窓会の打ち合わせでも、ひとりひとりが必ずなにか発言するという暗黙のルールがありました。「意見がないんだったらもう帰っていいよ。いても無駄だから」というわけです。だから、なにかひと言、会議に出たら必ず意見を言うこと。それを殿下は大歓迎されていました。

試験は丸暗記で

光博: 学生時代、殿下と弟は、それこそ遊ぶときも勉強するときも一緒でした。彼らは試験になると友達がガラッと替わるんですよ(笑)。今までわーわーやっていた仲間はいなくなり、会ったこともないような、ものすごく勉強ができそうな友達が数人来るんです。彼らから勉強を教わっていたのかどうかわかりませんけれども、試験になると友達がガラッと替わっていたのは印象的でした。

光隆: 試験のときはわが家で、ずっと勉強をしておられました。私が、どうもこのへんが出そうだという情報を仕入れて、電話で話すと長々と大変なことになるから家に来てもらうわけです。それに基づいて試験の対策をする。殿下は丸暗記が得意なんです。

彬子女王: そうなんですよ。本当に。

光隆: ひたすら覚えられるんですね。それで、印象的なのは、高校も大学のときもそうですけれども、試験のときは答案を一番早く出すんですよ。私は最後なんです。それで、「なにやってんだ」「人の見てんのか」とか言われるわけです。まわりに誰もいなくなっても六十分であれば、私は六十分フルに使ってそこにいるわけです。試験の問いがわからなくても、とにかく知っていることを裏面に書く(笑)。私はそういうやりかたで乗り越えたのですが、殿下はもうわからなかったら、一番先に答案出して出ていっちゃうんです。ゼロでもいいよ、という感じで。「そうすると落ちるよ」と言うわけですが、全然気にされてなくて。最後四年生のときはずいぶん苦労されましたけれども(笑)。

彬子女王: 大学で、政治経済かなにかの単位を落とすと、もう卒業できないというときに、その授業の先生の先生に予想問題を作ってもらい、六問ぐらいあったそうなのですけれども、とにかくそれを丸暗記されて。それで二問はそこから出て書いたのだけれど、五問中三問は答えないと合格できない。二問は丸暗記で完璧にその答えを書いて、あとは「あなたの先生に予想問題を作ってもらって、二問は当たりました。でも残りの三問が当たらなかったので、自分はこれ以外のことをなにも覚えていないので書けません」って書いて出したと聞きました。

光隆: そうなんです。

彬子女王: でも「それで受かった」と。よき時代ですね(笑)。ゴールを設定すると、そこまで一直線に行こうとするのは、私も似ているかもしれません。すぐに結論を出したがる。でも、回り道をしても「筋が通っていればいい」というポリシーも父の中にはおありでしたし、筋を通すことを大事にされていました。普通の親なら許してくれなそうなことでも、父の中で納得し、理論や理屈が通っていれば「やればいいじゃないか」とおっしゃってくださるところが多くて、私もやはり筋が通らないことが好きではありません。なにかと筋を通したくなってしまいます(笑)。

光博: 納得されるまで、筋を通されたい方でしたね。さきほどの手紙のやりとりの話の続きですが、私が、当時、流行っていたデール・カーネギーの『人を動かす』という本を読み、非常に共感を覚えたので、「読んでください」とお送りしたのです。すると「こんなつまらない本送ってくるな」と。「つまらなくないでしょう」と、こちらも負けじとご返事をすれば、「こんなあたりまえのことが書いてある本のどこがおもしろいんだ」「どこがおもしろいというより、大切なことが書いてあると私は思って非常に共感したのだから、絶対ちゃんとお読みになったほうがいいです」「いや、こんなのを読んでも意味がない」と何度も往復しました(笑)。

みんなと一緒に考えよう

光隆: 殿下は「みんなと一緒に考えよう」「みんなと仲間なのだ」という気持ちを人一倍強くお持ちだったと思います。私はスキー部ではありませんでしたが、長野県の白馬に黒菱小屋というところがあって、そこでスキー部の人たちが合宿をするんですね。殿下はスキー部では、競技ではない、いわゆるスキーのデモンストレーションというか指導するほうをしておられて、二週間、三週間みんなで籠って合宿をするのです。我々、部員じゃない者は最後のほうに、そこに参加して彼らにスキーを習ったりするのですけれども、殿下は、学生時代の運動部を通して、みんなでひとつの目的に向かっていくことを意識され、その中で、指導者はどうあるべきかということを、お考えになられたのではないかと思います。

光博: 大学のスキー部は、体育会だから上下関係もある中で、普通に過ごされ、鍛えられて強くなられたのではないかと思います。当時私たちは学生でしたので、敬語でお話ししているわけでもなくて、「三笠」「三笠」と言い、「おい」「おまえ」の仲ですよね。そこで持っておられた強さがどんどん芽生えてこられたというか。私は年長でしたから、ある程度、先輩目線でした。私の友人もスキー部に入っていて、あるときスキーのトレーニングが終わった後、飲み会の二次会にみんなで行くことになったようですが、その友達は、私がいる集まりのほうに来ると言う。それで、殿下は「なんでそっちに行くんだ」と怒られるのですけれど、私は「なに言ってるんだ?

 一次会までは全員参加かもしれないけれど、二次会は本人が好きなところに行ったっていいじゃないか」と言い、殿下は「それは違う」と。こちらも「違うもなにもないだろう」と、そんなやりとりがあって。

 卒業してから、ある先輩に「殿下は出るところに出られたら宮様なんだぞ。君も学生じゃないんだから、それをちゃんとわきまえるように」と言われたのです。それで「ああ、そうか」と思いまして、それからそういうつもりでお話を申し上げるようになりました。ふたりだけのときはもう少し楽にしゃべっていたかもしれないですが、ほかの方がいるときには「殿下」と申し上げていましたし、そういう立ち位置は自然と意識するようになりました。ただ、議論はずっと続いていましたね。

皇族として

光隆: 殿下にはよく「お前は右だ、右翼だ」と言われていました(笑)。私は虎屋という店の伝統の中に生まれましたが、虎屋には奈良朝ぐらいから皇室との関わりがあり、今日まで一〇〇〇年以上続いてきたという説があるくらいです。皇室がこれだけ長く続いている国は世界中探してもどこにもありません。そのことだけは殿下もはっきり認識されていたと思います。

光博: 殿下が皇籍離脱をしたいとおっしゃったとき、私は直接申し上げなかったですけれども、「なにをおっしゃるのか」と心の中では思いました。殿下はかなり自由に振る舞っていらっしゃったと思いますし、皇室におられるということで、おできになった福祉活動もおありだったと思うのです。ご自分のお考えどおりに、いろいろなことをなさっていらっしゃり、我々と遊ぶときも自由にしておられましたから。ですが、皇籍を離脱したいという発言に関しては、あまり長く続いた話ではなかったと思います。一回新聞に出て、様々な意見をまわりから言われ、それで殿下ご自身の中からも消えていったのではないでしょうか。そのようなことがあった後、殿下よりも弟宮さまがもっと皇族であられることに抵抗感を持っていらっしゃって、そのことを殿下は気にしておられた。「皇族でいながらああいう態度をとるべきでない」とよくおっしゃっておられたのですが、「皇籍離脱をしたい」とご発言されていた殿下が、「一体なにをおっしゃるのか」(笑)と思った記憶があります。

福祉への思い

光隆: 今でこそ「共生の時代」「共に生きよう」ということを、新聞をはじめいろいろなところで目にしますけれども、このことを最初にはっきりおっしゃったのは殿下でした。みなさんご存じではないかもしれませんけれども、三十年ほど前に、殿下と片岡みどりさんのおふたりが「共生社会」という言葉を言われはじめたのです。スキーの障がい者の方もいれば、車椅子のテニスの人もいるし、いろいろな人たちと自分も一緒になって、教えたり、参加したり、大会を作ってみたり、障がい者の人たちに対しての温かい目線を持っておられたなと思うのです。

 このようなことは急にできることではなくて、三笠宮家が素晴らしいファミリーだから、それを殿下が先頭になって形にされたという気がいたします。障がい者のスキーの指導方法も、ほとんど殿下が開発したようなものです。今、障がい者と皇室の方々との接点がメディアで紹介されますけれども、具体的にその中に溶け込んでなにかをなさったっていうのは、私は殿下が最初だろうと思います。

光博: そうですね。

光隆: 今は、どの宮様方も手話をなさいますけれども、最初にお子さまたちにも手話ができるようにとなさったのも殿下です。皇室のあるべき姿を求めていらっしゃったのではないかと思います。陛下をお守りする皇族たちの義務のひとつではないかとお考えになられていたと思うのです。

彬子女王: 私の場合は、日常的に障害を持っている方が出入りされていたので、それがなにか特別なことという意識は子どものころからまったくありませんでした。障害のある方々に本当に子どものころから一緒に遊んでもらいました。脳性麻痺の方で、音楽を作るのが上手な人に「こういう音楽を聴きたい」と言うと子どもの曲を集めたテープを作ってくれて、それをよく聴いていたことも覚えています。

光博: 殿下は、たとえば車椅子の方に対して、「あなたは歩けないもんな」というようなことをご本人に平気でおっしゃっていました。障がい者の方々も「そうはっきり言われたことはなかったけど、そうなんだよね」と笑って、友情が生まれる。さきほどの「正直」という言葉と共通していると思いますけれど、なんでもすごくはっきりとおっしゃるのです。「彼らは障害を持っている。だけど、それは彼らだけじゃなく、光博さんたちだって、できないことはあるじゃないですか。それも障害といえば障害ですよ」と、そういう目線をお若いときからお持ちだったのは、すごいですよね。

光隆: 障がい者のファッションショーや車椅子ファッションショーなど、いろいろなことをおやりになられましたよね。車椅子の人たちも外に出ていくためにはもっとおしゃれにならなくちゃいけない。そのために、みんなでそういうことを考えようじゃないか、と。車椅子の人もダンスすることがあるかもしれないから、一緒にダンス講習会をしようよ、と代官山で開催されました。要するに、共生社会という以上、みんなで同じ目線でなにかを考えよう、ということが徹底されて、それがおできになったことは、私は同級生として本当に誇りです。

彬子女王: 国民の中に自ら飛び込んでいって、彼らが求めることをするのが皇族の仕事だとおっしゃっていました。父がそうやって動いてこられたのをずっと見てきましたから、自分にはできないと思っていました。だから、こつこつ積み重ねられる研究の仕事を選んだというところもあります。
でも、その研究をしている中で、さまざまな出会いがあり、日本美術の関係者の方々や省庁の方々、作家さんや職人さんたちにお話をうかがう中で、このままだと日本美術が失われてしまうのではないかと感じるようになり、これはなんとかしなければならないのではないかと、子どもたちに日本文化を伝えるための心游舎をはじめました。父のようなことはしないと思っていたのに、結局、気がついたら父と同じようなことをしているなと思います。でも、やはり、それを浸透させていくことの困難さを感じますね。

光博: 殿下は「自分がやらなかったら誰がやるんだ」という気概をお持ちでいらっしゃったし、私も「ちょっと手伝ってよ」というお話をいただいたりしました。しかし、世間の方々に、ご自身が取り組まれていらっしゃった活動を知ってもらいたいというお気持ちや行動が、もっとおありになってもよかったのかなと思います。

柏朋会(はくほうかい) 会報誌『ザ・トド』より

徹底的なご性格

彬子女王: 柏朋会はご結婚される前からですから、三十年以上続いて、『ザ・トド』にもご寄稿されました。今回あらためて読み直してみて、しゃべっていらっしゃることをそのまま書いてある感じがいたしました。

光隆: 殿下そのものですよね。

光博: 文章をお書きになられるときは、徹底的に調べられることもおありでした。トモさまに名誉総裁をお願いしておりました全国菓子大博覧会はほぼ四年に一度、全国の地域持ち回りで行われています。

 ご挨拶をなさる際には、開催される地域のお菓子屋さんに関する資料を集められ、一生懸命お調べになっていらっしゃいました。彬子さまのご活動を拝見しておりますと、徹底してなさっていた殿下のご性格に似ておられるな、と思うことが度々あります。

彬子女王: そうですね。とことん突き詰めていきますね。

光博: ですから、きっと、今、お子さま方が、ご自分と同じようにいろいろな活動をされていることを、すごく喜ばれていると思いますよ。彬子さまと瑶子さまのお二方がお生まれになったときのお喜びはすごく感じました。ちゃんとおむつ替えておられますか? というような話はしたことがなかったですけれども(笑)。

彬子女王: 替えておられなかったでしょうからね(笑)。お風呂に入れるのだけはしていたと『ザ・トド』にも書かれていましたね。私がたぶん初等科の一年生か二年生か、そのぐらいのときに、手術をされて傷跡ができてからは、一緒にお風呂に入らなくなりました。

光博: お二方の成人式のときのパーティーのご案内状は今でも取ってあります。彬子さまのときも、瑶子さまのときも二回お呼ばれして、お子さまたちのご成長ということに対しては、ものすごく喜んでおられたなあ。

光隆: お子さまたちがお小さいころ、出張されるといつでも手紙を書いておられたんですよ。

彬子女王: そうでしたね。

光隆: 本当にまめに書いておられました。

彬子女王: 手紙とファックスと。

光隆: つねにコミュニケーションを大事にしようということをお考えになっておられたから。

彬子女王: で、すぐに返事を返さないと怒られますから(笑)。

三笠宮家というファミリー

光隆: お亡くなりになられた大殿下(三笠宮崇仁親王殿下)も含めて、三笠宮家は本当にいいファミリーでした。大殿下は漢文をすごくご理解されていて、我々は高校のときに一番点が取れなかったのが漢文だったのですけれども、殿下は大殿下に漢文を学ぶポイントを教えられたみたいで、それで殿下だけはものすごく漢文ができたのです。

彬子女王: お得意でしたね。

光隆: ほかの授業はね……(笑)ですが、漢文だけは素晴らしかった。

光博: いいご家族だったと、本当に思いますよ。

光隆: いいご家族でしたね。

彬子女王: 祖父が帰ってこられると、父の友人、叔父の友人が酔っ払って床に倒れていて、お酒の瓶も転がっていて、それを乗り越えながら寝室まで行ったというお話もうかがったことがあります。

光隆: 私たちは倒れていないですね(笑)。

光博: 御殿にお邪魔していたときに、トモさまが大殿下に「みんなでちょっと中華料理食いに行きたいんだけど、どこか安くていいところないかな」と尋ねられたのです。しばらく経つと大殿下が「トモちゃん、こんなところはどうかな?」と、言いに来てくださいました。二、三軒調べてくださっていて。トモさまのほうは、偉そうに「ああ、どうもありがと」というような感じで(笑)。

光隆: 大殿下がご丁寧にね。

彬子女王: 二、三軒というところが、おじいちゃまらしいなと感じます。私も子どものころに、なにかわからないことがあっておうかがいすると、百科事典や辞典などいろいろな資料から調べてくださって、「ここにはこういうことが書いてある。こっちにはこう書いてある」と必ず二、三点資料をくださいました。ひとつの答えをくださるわけではなくて。たぶん、お料理屋さんも「ここに行ったらいいよ」ということではなくて、二、三軒の中から選びなさい、ということなのですよね。

光博: それなりに安いところとか、君ら学生が行くんだったらこの程度じゃないか、とか。私は、大殿下と理髪店もご一緒だったんです。南門からお出になると歩いて十分ぐらいのところにあって、大殿下はひとりでぶらりといらっしゃっていました。当時、総理大臣もそこに来ていたことがあって、その人には、山ほど護衛が付いていたのですが、大殿下にはお付きの方もいらっしゃらず、おひとりで気楽に来られていました。

彬子女王: 漢文の話とつながると思うのですけれど、ドイツ語の翻訳をしなきゃいけないみたいなお宿題があり、祖父はドイツ語がお得意でいらっしゃるから、父から「これやっといてくれ」と渡されて、奥の間で父は雑誌かなんか寝転んで読みながらずっと待っていらしたそうなのです。おじいちゃまも最初は「ええ?」と思っていらっしゃるのだけれど、そのうちお楽しくなってしまわれた。それで、できあがったものを「できたよ」と渡されて、翌日、父が教室で滔々とそれを読み上げたら、先生に「よくできているけれども、ここの解釈がちょっと違う」みたいなことを言われて、「これはおまえよりも何十年もドイツ語をやっている親父が訳したものだから、おまえのほうが間違っている」と父が反論されて(笑)、「貴様ー! あとで職員室に来い」と怒られたのだけど、職員室で「申し訳なかった」と謝られたという話は聞いたことがありますね。

光博: そのように普通のご家庭とまったく変わらないような生活をしてらっしゃったのは、みなさんご存じないでしょうね。

彬子女王: 今、三笠宮殿下のご事跡を調査しておりまして、妃殿下からいろいろお話をうかがっているのですけれども、長者丸という上大崎の仮のおうちにずっといらっしゃったので、今のご本邸が戦後国費で建てられた第一号なのです。

光博: そうなのですか。

彬子女王: ご本邸にお引越しになられたときに、おじいちゃまが「蛇口からお湯が出る」とすごく喜ばれたということをうかがいました。

光隆: とにかく子どもたちが成人するまでは長者丸にいらっしゃりたいということを、私は、大殿下からお聞きしたことがあります。ご本邸になると、どうしても守衛さんがいるわけで、友達も簡単には来られなくなってしまうから、可能な限り長者丸にいたいんだというお話をずいぶんお聞きしました。なにがよかったかというと、夜、あそこの塀を乗り越えてみんな入るのです(笑)。

光博: 夜は、大きな門が閉まっているからね。

光隆: それを乗り越えて入っていく。「しーっ」という感じでね。そういう経験があります(笑)。

病との向き合い方

光博: ガラリと話が変わってしまいますけれども、殿下がご病気で何回も入院をなさって、その都度お見舞いにうかがい、いろいろなお話をさせていただきました。

 そのときにすごいなと思いましたのは、お医者さまに「なんでここを切るんだ?」「なんで手術したあとは三日間は安静にしろ、五日間は安静にしろと言うんだ?」「動いたらどうなるんだ?」というようなことを細かく尋ねられるのです。お医者さまは「この病気の術後にはこのぐらいの安静期間が必要なんです」と過去の前例でものを言う。すると、「じゃあ、俺が実験台になるから手術した明日から動くぞ」とおっしゃって。「もし、それで駄目だったら、あなたのおっしゃるように静かにするけれど、動くことができるのだったら早くから動いていいじゃないか」と、そのようなことを、いつも思われたり、口にしたりしてらっしゃいましたよね。

彬子女王: 「おまえは癌になったことないだろ?」って。

光博: 私だと「お医者さんの言うとおりにします」と思うようなことでも、もちろん議論はしなかったですが、そのへんはトモさまらしいというか。

彬子女王: 飲み物を飲んではいけないけれど、うがいならいいと言われたから、お茶か紅茶かコーヒーだったか忘れましたけれど、それでうがいをしてちょっと飲む(笑)。

光隆: もう十数年前なんですけれども、私が心筋梗塞で倒れて大手術をしたことがあります。胸を開けなくちゃいけなくて、血管を引っ張ってきて、かろうじてこうして元気になれたのですけれども、そのときの殿下のお見舞いがすごいんだな。心筋梗塞の原因は煙草とお酒と言われていたんです。そしたら見事にね、恩賜の煙草という、今はもうないのですが、菊の御紋が付いた煙草を何ケースか、それと一升瓶をお見舞いって(笑)。それが届くんですよ。

彬子女王: ええ、そういう方です(笑)。

光博: また話が変わりますが、殿下にあることを問われて「お答えするのには数日待ってください」と申し上げたことがありました。手術で、声を残すか、口からものを入れることを残すか、どちらを選ぶか。「あなたならどう考える? どちらか決めてよ」と言われました。「そんな重大なこと決められませんよ」とその日は申し上げまして、数日経ってから「声はもしかしたらどうにかなるかもしれませんが、やはり口からものを入れることは非常に大切です。そちらを残されるべきじゃないですか。これは私の意見ですけれども」と申し上げました。結果としてはヴァイブレーターで声を出されることになりまして、そのヴァイブレーターひとつにしても、何十種類もの機種を試されました。

彬子女王: そうでしたね。

光博: このぐらいの人数でしゃべるときはこれがいいとか、大勢の人のときはこれだとか、全部徹底して試されて。「今日は何人ぐらい集まるんだ?」って聞かれて、「四、五人はいますね」と申し上げると、「じゃあ、こっちを持っていこう」と。もう、そうなったらなったで、そこをまた徹底的に追求をしていかれる方でした。

光隆: そのときに、ボイストレーニングが必要になるのですけれども、相手がいないとトレーニングにならないので、そのために、さきほどから出てくる同級生の仲間に連絡があって、何人かがここにお邪魔して、いろんなお話をしながらボイストレーニングをされました。最後は酒を飲み……、いや、トレーニングと言っても酒を飲み(笑)。それでトレーナーのほうが酔っ払っちゃって、今日はこれで失礼いたしますなんて言って帰るという。

光博: それは専門家がいるの? 

光隆: いないの。私たちがトレーナーで、おしゃべりするだけ。

彬子女王: 役割分担がなされていたのだなって思いますよ(笑)。光博おじちゃまはボイストレーニングには呼ばない。ちゃー(光隆)おじは呼ぶ。

光博: それは御殿で療養されていらっしゃるころだったと思いますが、突然夕方に事務官の方からご連絡があり、「殿下がお呼びでいらっしゃいますから」と言われて。「その時間には予定があるのでうかがえませんが、後でうかがいます」と答えて夜にうかがいました。殿下が床のマットに寝ていらっしゃいました横で、夜中までずっと話をしました。いつまでも話は尽きず、「遅くなりましたから」と申し上げると「いや、遅くなったって……」とおっしゃる。彬子さまがまだ留学なさっているときだったと思いますが、夜中の十二時を過ぎて一時半とかそういう時間まで、話をさせていただいたことがありました。

 もうひとつ、忘れられない思い出もあります。元旦にお召し上がりいただく「菱葩」を御所にお納めしていたときのことです。

彬子女王: 菱葩は、お正月の和菓子の花びら餅の原型ですね。

光博: はい。菱葩は宮中の正月料理の祝膳のひとつですが、召し上がっていただくのが、元旦で、必ず二日から三日になると、殿下から「今年の出来具合はどうだった」とお電話をいただいていました。殿下のお話をうかがわないと、うちの工場で作っている者も安心できない。「今年のはこうだった」「今年のはここがよかったけど、こんなだったぞ」と。

 それで、あるときに「どのような状況でみなさまが召し上がっていらっしゃるのかをお教えください」とお聞きしたのです。それで、たとえばの時間ですが、九時五十七分に皇族方がお部屋に入られて、十時一分に両陛下がお出ましになるというようなタイムスケジュールを書いたものを見せていただき、何時何分にこうして召し上がる、ということを全部教えていただいたのです。

 さらに、陛下を含めて男の宮様方は菱葩を手で持って召し上がってもいいけれど、女性の宮様方はお箸で召し上がる。だから箸でも切れなきゃいけない、というお話など、いろいろ細かく教えてくださいました。それで、「よーし、来年からはもうなんにもおっしゃられないものを作ります」と申し上げて、工場の製造者にその話をして、作ったものをどのように保管をして、いつ、どのようにお納めをすればよいか、と、宮内庁の大膳課と相談してもらいまして、それ以降、毎年同じものができるようになったと思います。

彬子女王: 何年か前に、お正月に黒川家に呼んでいただいたことがあって、それで、私が、今年の菱葩はどうだった、こうだったという話をしましたところ、「すごい久しぶりだ」と懐かしく感じてくださいました(笑)。やはり、父とは似ているところがあるのでしょうね。

『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』


出版社:小学館
著者:寬仁親王殿下
監修者:彬子女王殿下
発売日:2022年6月1日
価格:4000円+税
ページ数:608ページ

撮影 三浦憲治(鼎談分)
ヘア&メーク 高城裕子