Culture
2022.06.01

薨去から10年。彬子女王殿下が綴る、寬仁親王殿下との思い出

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2012年に薨去された、寬仁親王殿下(ともひとしんのうでんか)。薨去から10年にあたる2022年、殿下が生前に書き続けてこられたエッセイ『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』が発売されます。これにあわせ、彬子女王殿下が寬仁親王殿下との思い出を綴られたエッセイをご寄稿くださりました。

寬仁親王殿下との思い出

文・彬子女王
先日、三笠宮妃殿下に一番古い御記憶は何か伺った後、そういえば、私の一番古い記憶はなんだろうと、記憶の糸を手繰った。

1歳2ヶ月でスキーに初めて連れていかれたときの記憶は残念ながらない。父の指を噛んで喜んでいた記憶もない。ぼんやりと思い出せるのは、3歳の年に1年だけ通った松濤幼稚園の景色。園舎に上がる外階段だった坂に、人工芝の緑のマットが敷いてあったことと、坂を上り切ると目の前に園庭とガラスのドアのはまった教室が見えたことは、記憶の片隅にある。そして、父の日のプレゼントとしてカセットテープを録音するために、一人ずつ窓のない部屋に呼ばれ、椅子に座らされて先生に質問をされたこと、そしてカセットテープのラベルに、灰色と紫色のクレヨンを使って父の似顔絵(多分)を描いたことはなんとなく覚えている。「一番古い」と明確に言えるエピソードではないのだけれど、3歳半であった6月のできごとだとはっきり思い出せる記憶としては、これだろうか。

この父の日のエピソードが、この度上梓した、父が30年以上にわたって書かれたコラムをまとめた『ひげの殿下日記』にある。「あっこの育児日誌 最新版」の章に、その父の日のテープの書き起こしが載っているのである。会話の内容は、「こんなことを言っていたのか?」と思うものだったが、最後に私が完璧な英語の発音で、「サンキュー!」と言ったと書いてあり、そういえば、そうだった気がすると思い出した。先生と私の会話がかみ合っていないところなどを冷静に分析されているし、手放しで娘をべた褒めされているわけでもないのだが、このカセットテープのプレゼントがとてもおうれしかったのであろうことは伝わってくる。私の一番古い記憶の一部が、父のよき思い出として書き残されていることを、本を読みながら改めてありがたく思うのである。

父が「議論のできない子どもに興味はない」方だったことは知っている。ご自身でもよく仰っていたし、私自身、子どもの頃の父との思い出と言うのはさほど多くはなく、とにかくお忙しくて、あまり家におられなかったことをよく覚えている。だから、父のコラムを読み返したとき、子育てに協力していたとは言えないまでも、子どもたちのことを思っていたよりも気にかけ、世話を焼いておられた様子がわかり、意外だった。

それでもやはり、父との関係が密になっていくのは、「議論のできる」中等科生になった頃からだろうか。特に、年末に家族で出かけるキロロでのスキー合宿の前に、「足慣らし」と称して出かけられる12月半ばのスキー行に私が同行するという、父娘二人旅(当然事務官や警察はついてくるけれど)が恒例化するようになってからは、会話をする機会が増えていったように思う。でも我々の会話は、親子と言うよりは、先輩・後輩のようだったような気がする。父は私のことを、娘としてというよりは、一人の人間として、「対等に」接してくださっていたように思うからである。

父とは数え切れないくらいの議論を繰り返し、言い合いもしたし、喧嘩もした。でも父が、「父親の言うことが聞けないのか!」などと、高圧的に自分の意見を通されるようなことは一度もなかった。意見が食い違っても、筋道を立てて私がきちんと説明し、ご自身が納得されれば、普通の父親なら許さないのではないかと思うことでも、あっさり認めてくださった。お願い事があるときは、すべての外堀を埋め、父の了解さえ得られれば動き出すという状態になってから私が話すので、「お前がそういう話を俺に持ってくるっていうことは、もう決まってるんだろ」と、苦笑いだった。父のあまりに思いやりのない言動に腹が立ち、私が激怒してそのまま京都に帰り、しばらく経ってから宮邸の階段でばったり行き会った時には、「コノマエハオコラセテスミマセンデシタ」としょんぼりして言われ、逆に面食らったこともある。

一番象徴的だと思うのが、一般参賀に対する方針だろうか。一般参賀に内廷外皇族も参列を許されるようになったのは、平成の御代になってからである。父は、一般参賀というものは天皇ご一家(内廷皇族)のためのものであり、内廷外皇族はただの供奉であるという御考えだった。最初のうちは父も参列しておられたが、あるとき、目の前の参賀客の方が「殿下~!」と父に手を振っているのが見えたという。そこで父は、天皇ご一家のための行事に、自分に会いにくるような人がいては失礼にあたると、翌年から一般参賀への参列を取りやめられた。以来、寛仁親王家は参列しないと言うことになったので、私も成年皇族になり、新年行事に参列するようになっても、一般参賀は参列したことがなかったのである。

でも、私が留学から帰国した翌年の年末近くだったと思うが、父に突然「一般参賀に出ないのは俺の方針だ。お前に強制させるものでもないから、自分で決めろ」と言われたのである。私もしばし考え、「せっかく経験させて頂けることなら、経験させて頂きたい」と申し上げた。「そうか。じゃあ、行ってこい」と言われ、初めて参列した2011年の一般参賀の景色を私は一生忘れることはないだろう。

両陛下がお出ましの瞬間の地響きのような歓声、一面で振られる日の丸の小旗。背筋がぞくぞくするような感動を覚えた。陛下のお言葉を聞いて、涙しているお年寄りも目の前にいる。その瞬間、私は皇族であることの重みを強烈に実感した。こちら側に立ち、こうして皆さんに歓迎して頂けるにふさわしい人間にならなければいけないと思った。皇族として、どうあるべきか、何をすべきかということが、頭の中を駆け巡った。帰宅して、居間に駆け込み、ソファに座っておられる父に興奮気味に話すと、何も言わずに「ニヤッ」と笑われた。私が出した答えはきっと父の満足のいくものだったのだろう。父は、手取り足取り何かを教えてくださるタイプではない。いつの間にか、問いなのかもわからないような問いを投げかけ、私が「自分の」答えに行きつくことを待っておられたような気がするのである。

父は、『ひげの殿下日記』の「友情」の章で、

特に素敵なのは、三十六〜三十八歳も年齢差のある二人の娘が、父親の仕事を理解して、極く当たり前の顔をして永年に亘って協力を惜しまない事です。

親子の場合、通常、「友情」とは言いませんが、我々親子の場合、ほとんど、「友情」の範疇と言っていいのではないかと思います。

と書いておられる。「友人」と思ったことはないけれど、人生の「先輩」として、惜しみない愛情、友情、そしてたくさんの言葉を注いで育ててくださった父に、この10年という節目にわいてくる思いはやはり「感謝」しかない。

柏さま、「多謝」。雪より。

『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』


出版社:小学館
著者:寬仁親王殿下
監修者:彬子女王殿下
発売日:2022年6月1日発売
価格:4000円+税
ページ数:608ページ

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。