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2022.10.31

鈴木梅太郎がノーベル賞を逃した理由は?ビタミンB1発見のきっかけは

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私たちが健康に生きるために必要な五大栄養素には、「炭水化物」「タンパク質」「脂質」「無機質(ミネラル)」「ビタミン」があります。その中の「ビタミン」を世界で最初に発見したのが、農芸化学者の鈴木梅太郎(すずきうめたろう:1874~1943年)。今回は、そんな彼の生涯をお伝えします。

ビタミンの世界初の発見者は日本人だった!?

農家の次男は、勉強のため単身上京

1874(明治7)年、静岡県榛原(はいばら)郡堀野新田町(現、牧之原市)に農家の次男として生まれた鈴木梅太郎。小学校高等科を卒業後は、私塾で学んでいました。東京に出て学びを深めたいと思いましたが、両親は猛反対。
そこで梅太郎は1888(明治21)年、14歳で家出同然で上京。しかし、理解のあった兄(長男)は、両親を説得して卒業まで支援してくれたのです。

努力の末に、大学を首席で卒業

兄の期待に応えることもあり、東京で必死に勉学に励む梅太郎。1889(明治22)年に、東京農林学校(現、東京大学農学部)に入学。農芸化学科(※1)で学び、1896(明治29)年に首席で卒業。さらに大学院まで進みます。

※1 農芸化学:生命・食料・環境の3つのキーワードに代表されるような、「化学と生物」に関連した事柄を基礎から応用まで幅広く研究する学問(公益社団法人日本農芸化学会webサイトより)

両親の猛反対を押し切っても自分の道を進んだ梅太郎、そして主席で卒業。お兄さんも梅太郎の才能を見抜いていたのかな。

桑の病気の原因を究明、養蚕業を守る

大学院では、当時養蚕業で問題になっていた桑の萎縮病について研究。蚕の餌である桑が枯れると、生糸が取れなくなり日本の輸出産業に大打撃となります。梅太郎は、4年かけて原因は栄養と栽培方法にあることを突き止め論文を発表。それが認められ、1901(明治34)年に27歳で農学博士の学位を授与されました。以下、梅太郎博士と記します。
同時期に結婚をして、公私ともに充実した日々でした。

運命を変えたヨーロッパ留学

1901(明治34)年、文部省留学生として渡欧した梅太郎博士。ドイツのベルリン大学では、タンパク質やアミノ酸について研究しました。帰国の際、指導教授に「ヨーロッパにはない、アジア特有のものを研究しなさい」とアドバイスを受けます。
留学中、梅太郎博士は日本人がヨーロッパ人と比べて体格が貧弱なことを疑問に思いました。それは、白米を中心とした食生活に原因があるのではと感じていたので、帰国後は日本人の食生活、特に主食である米の栄養価について研究を始めました。

それはそういうものだから、で終わらせなかった姿勢が、その後の様々な功績に繋がったのかもしれませんね!

米ぬかから、世界で最初に「ビタミン」を発見

1906(明治39)年、帰国した梅太郎博士は盛岡高等農林学校(現、岩手大学農学部)の教授に就任。
ちなみに、作家の宮沢賢治は1915(大正4)年にこの学校に入学しています。

鶏に、白米だけ、玄米だけ、白米に米ぬかを混ぜて食べさせるなどの、比較実験を行いました。すると、白米だけを与えた鶏がヨロヨロと歩くようになり、その後衰弱して全て死んでしまいました。これは、脚気(かっけ)の症状と同じではないかと思いました。

1907(明治40)年、東京帝国大学の教授に就任し、東京に転居(盛岡高等農林学校教授と兼務)。米の研究はまだまだ続きます。

結核と同じくらい恐れられていた、脚気

江戸時代中期以降、江戸や大坂などの都市部を中心に、手足のしびれやむくみなどを訴える人が増えました。当時「江戸患い」「大坂腫れ」などと呼ばれていましたが、歩行困難を伴うことから脚の病気「脚気」と言われるように。
明治時代に入ると、この病は全国的に増加。結核と並ぶ国民病として恐れられていました。
江戸時代は都市部では白米を食べていましたが、地方は玄米がメイン。それが明治時代に入ると、地方でも白米食が普及したことと関係あることが、わかってきました。
ということで、世間で脚気は「白米病」とも呼ばれて、胚芽米や麦飯を食べていると、かかりにくいことが知られていました。

うーん、白米おいしいですもんねー。わかる。

また、海軍軍医が1884(明治17)年、航海訓練で白米を減らし麦飯やパン食を増やす実験をしたところ、脚気患者が激減。この食事療法を実践した海軍では、日清日露戦争で兵士が脚気に悩むことが少なかったのです。
一方陸軍は海軍の食事療法を受け入れず、米食にこだわったため、2つの対戦で多くの兵士が脚気で亡くなりました。というのも当時の医学界は、脚気は感染症と言う考え方が主流で、陸軍はこれを信じていたのです。

脚気を巡る、栄養失調症説と感染症説が対立する中で、梅太郎博士は研究を続けました。

ビタミンB1が豊富な豚肉

ビタミンの祖、「オリザニン」の発見

研究を進めるにつれ梅太郎博士は、米や麦の胚芽には何か有効成分が含まれていて、脚気はその成分不足で起こる栄養失調症なのではと、仮説を立てました。
そして、米ぬか(米胚芽)の研究を進め、4年余り経った1910(明治43)年に抗脚気有効成分を取り出すことに成功。さらに、これが新しい栄養素であることもわかりました。
同年12月この有効成分を「オリザニン」(※2)と名付けて東京化学会(現、公益社団法人日本化学会)の例会で発表。

梅太郎博士は、米ぬかからオリザニンを抽出する方法を詳しく説明し、動物実験の結果を報告。病院や研究所などで臨床試験を行い、一日も早く脚気で苦しむ人を減らしていきましょう、と伝えました。
医師でない梅太郎博士は、臨床試験をすることはできません。だから医学薬学の研究者に、後をお願いしたいという気持ちがあったのでしょう。

また、栄養素についても見解を述べています。
当時、人間が生きていく上で必要な栄養素は、「炭水化物」「タンパク質」「脂質」「無機質(ミネラル)」の4つとされていました。
しかし梅太郎博士は研究を通じて、4つの栄養素だけでは生命を維持することはできない。オリザニンも摂取しなければならないと、説きました。

私たちに馴染みのある「五大栄養素」は、梅太郎博士が明治時代に唱えたものだったのです。

「五大栄養素」の考え方がすでに明治時代に……! 日々の食事でちゃんと摂らないとですね汗

※2 最初の名前は「アベリ酸」でしたが、ほどなく改称したので以下オリザニンと記します。ちなみに、米の学名「オリバ・サティバ」に由来。また、この時発見されたのはビタミンB1です。

ビタミンの発見者が2人?

梅太郎博士の発表はさぞかし注目を浴びて、と言いたいところですが、反応は薄いものでした。
例会という小さな場所での問題提起だったことも一因ではと、私は思います。
また前述のように、海軍軍医は脚気は白米の摂取過多による栄養失調症を唱えていました。しかし、医学界には感染症であるという説が根強くあったため、簡単には受け入れられませんでした。

対して、梅太郎博士は負けてはいません。1911(明治44)年1月、東京化学会誌に論文の投稿と、オリザニンの製造方法を特許庁に出願。同年10月には特許は下りました。1912(明治45)年、三共商店(現、第一三共株式会社)から、脚気の特効薬オリザニン液として販売を始めました。
1911年8月、ドイツの学術雑誌に、オリザニンの発見と米ぬかからの抽出方法の抄録(しょうろく:学術論文要点を抜き出して、内容をまとめたもの)が掲載されました。

しかし。同年12月、梅太郎博士と別個に同研究を続けていた、英国生まれのポーランドの生化学者フンクが同内容の論文を発表。彼は、発見した物質を「ビタミン」として英国の学術雑誌で大々的に紹介。これが大きな反響を呼び、「ビタミン」の名称が広まったのです。

1912(明治45)年7月、梅太郎博士のオリザニンについての論文が、ドイツの学術雑誌に掲載。しかし、フンク博士のセンセーショナルな発表から半年以上経っていたため、「猿真似」「二番煎じ」と言われてしまいました。

なんと! いろいろ不運が重なってしまったのですね……。

ノーベル賞級の発見なのに……

ビタミンの祖となるオリザニンを世界最初に発見したのは、梅太郎博士。でも、オリザニンを「新しい栄養素」と記さなかったり、英語で論文を書かなかったりと、発表方法に不手際があったと言われています。
また、重複しますが日本の当時の医学界が、受け入れなかったこともありました。
1912年には、ノーベル生理学・医学賞の候補になりますが、受賞はできませんでした。
ビタミンの名付け親はフンクですが、発見者は梅太郎博士であることは認められていたのです。

発見者として認められていたことは、ちょっと救いかな。

ちなみに1929(昭和4)年に、オランダの医師エイクマンと英国の化学者ホプキンズが、「ビタミンの発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

第一次世界大戦勃発、新たな研究へ

梅太郎博士はその後も、研究を続けます。といっても、オリザニンの研究は一時中断。1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発。そのため、輸入に頼っていた化学薬品の入手が困難になります。梅太郎博士の研究室では、薬品類の国産化に力を入れ始めました。
清酒の防腐剤サリチル酸(現在は使われていない)や、梅毒の特効薬サルバルサンの製造に成功し、三共商店から販売しました。

理化学研究所の設立、合成酒の研究・事業化

1917(大正6)年、理化学研究所が設立。梅太郎博士は、主任研究員になりました(東京帝国大学教授との兼務。盛岡高等農林学校教授は辞任)。
第一次世界大戦終結後は、オリザニンの研究を再開し(詳細は次項で)、合成酒の研究にも力を入れました。1918(大正7)年の米騒動をきっかけに、米以外のもので日本酒が作る方法が模索されたのです。
梅太郎博士は、清酒代用飲料製造法の特許を取得。「理研酒」として、いくつかの業者で製造販売され、事業として成功。
梅太郎博士には、研究者以外に事業家の素質もあったようです。

梅太郎博士のお兄さんも、数々の功績にきっと喜んだでしょうね!

オリザニンから「ビタミン」のさらなる研究へ

1920(大正9)年ごろから、梅太郎博士はオリザニン研究を再開。このころには、日本国内でも研究成果が認められるようになりました。1924(大正13)年には、帝国学士院賞を、1926(大正15)年には、帝国発明協会より恩師記念賞および大賞を受賞。
1930(昭和5)年、それまで純粋な形で取り出せなかったオリザニンの結晶化に成功しました。1937(昭和12)年には、パリの万国博覧会にオリザニン改めビタミンB1の結晶を出品し、名誉賞を受賞。世界でも梅太郎博士の研究が認められました。
ビタミンはB1以外にいろいろな種類がありますが、それらの発見につなげたのは梅太郎の博士の功績が大きいのです。

日本人の栄養・健康を考え続けた人生

農家出身の梅太郎博士は、食生活から日本人の栄養や健康を改善したいという想いが、常にありました。
乳幼児の栄養問題についても研究。粉ミルクは1917(大正6)年に発売されていましたが、それにビタミンB1などを加えて、より栄養的に優れたものに発展させました。現代の粉ミルクの原点です。

1943(昭和18)年4月に文化勲章を受章。同年9月に、69歳の生涯を閉じました。

先人たちの苦心の結果を、私も無駄にしちゃいけませんね……(献立考え直し中)

おわりに

子どものころ、日本の偉人伝で鈴木梅太郎博士のことを知った私。「梅」の名前が付く人が「ビタミン」を発明するなんて、こういうの「名は体を表す」というのかな、と思った記憶があります(梅はビタミンCとEが豊富)。
今回調べてみて、私たちが栄養素の大切さを知り、バランスの取れた食生活を意識するようになったのは、梅太郎博士の功績が大きいと感じました。
12月13日は、梅太郎博士は世界で初めてビタミンB1を発表した日として「ビタミンの日」と制定されています。この日は、常飲しているサプリメントを梅太郎博士に感謝しながら飲みたいと思います。

<参考資料>
・若林文高「鈴木梅太郎:農学と化学の融合」(『化学と教育』69巻2号、2021年)
・石原藤夫「ビタミンを世界で最初に発見し製造法を発明した鈴木梅太郎 第一回日本十大発明家の一人」(『発明特許の日本史』栄光出版社、2008年)
・上山明博「第2章 ビタミン剤 ビタミンを最初に見つけた日本人」(『発明立国ニッポンの肖像』文藝春秋、平成16年)
一般社団法人鈴木梅太郎博士顕彰会
公益社団法人日本農芸化学会

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。