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2023.10.05

世は秀吉から家康へ。栄枯盛衰を駆け抜けた寧々(高台院)の生涯を3分で解説

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財産も家柄も人脈もない夫を一国のリーダーにさせるのは、現代でも困難なことです。それを戦国時代にやってのけた女性がいました。豊臣秀吉の正室寧々(ねね、一説にはおねとも言われる)、後の高台院です。また彼女は、夫の上司である織田信長からも目をかけられ、豊臣家が崩壊した後も徳川家から恩遇を受けました。

現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」では和久井映見が、たおやかで愛情たっぷりの寧々を演じています。ムロツヨシ演じる立ち回りのうまいお調子者の秀吉に対しても、出過ぎず、状況を見極めながら、絶妙なタイミングでサポート。関白となった秀吉の元へ家康が上洛した折にも、重要な接待役を取り仕切り、家康や家臣たちのを心をすっかり掴んでしまいました。現代においてもスーパーウーマンとして語られる彼女の生涯を追ってみます。(以降、寧々で統一)

3分で読めるものと読めないものがある「3分で解説」シリーズ!前提崩壊というツッコミは右から左に受け流すぞ!

恋愛結婚? 13歳の寧々、25歳の秀吉と夫婦に

寧々は、天文18(1549)年に(異説あり)、尾張国春日井郡朝日村(現:清須市)に父・杉原定利(すぎはらさだとし)、母は朝日殿(あさひどの)の二女として生まれました。その後、母の妹が嫁いだ浅野長勝(あさのながかつ)の下へ養女として出されます。長勝が信長の弓衆を務めていたことから、秀吉(当時は木下藤吉郎)と知り合ったとされています。

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驚くべきは13歳で一回り上の秀吉と恋に落ち、何のためらいもなく嫁いだことです。足軽といえど、代々武士だった実家と、農民から足軽となった秀吉では家柄に差があり、実母・朝日殿は最後までこの結婚に大反対しました。少しでも良い家柄に嫁がせたいと思う親心だったのでしょう。祝言も、土間に藁と薄縁(うすへり)を敷いて行ったささやかなものだったといいます。

この夫婦の実質上の仲人となったのが前田利家(まえだとしいえ)とまつ夫妻でした。信長の元で家臣として働く二人はお互いを認め合う仲であり、近所の長屋に住んでいたことから、寧々は2歳年上のまつを慕い、姉妹のように仲がよかったようです。人に恵まれるのも人徳、秀吉・寧々の持っている運の強さだったのでしょう。

信長の家臣として力を発揮する秀吉を力強く支えた

秀吉は人たらしの性格と、頭の回転の早さ、そして有言実行と、そつのなさから信長に大変気に入られ、家臣の中でも中心的存在となっていきます。永禄10(1567)年、信長が稲葉山城の戦いで斎藤龍興(さいとうたつおき)を下し、美濃を平定すると、信長と共に秀吉と寧々は、小牧山城下から稲葉山城(岐阜城)下へと移ります。その後、秀吉は、明智光秀と共に、天下布武を掲げて邁進する信長の右腕へと成長していくのです。

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寧々の内助の功の甲斐もあり、秀吉、ついに一国一城の主に

信長に戦の才覚を認められた秀吉は、出陣を繰り返し、次々と敵の拠点を攻め落としていきます。そして、天正元(1573)年、浅井家の小谷城攻略で戦功を上げました。信長は浅井家の領地であった北近江を支配、秀吉は十八万石の長浜城主となります。この時、秀吉39歳。まさに脂ののった時期といえます。この頃から、秀吉の母なかの親戚であった福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)など、親類縁者が家臣団に加わります。信長や家康のように代々仕える家臣のいなかった秀吉にとって、力強い支えとなっていきました。また面倒見の良い寧々は、後に戦国大名となる優秀な人材を育て、内助の功で尽くします。

もしかしたら、寧々なくして秀吉の成功はなかったのかも!?

上司・信長もべた褒めする寧々の人望の強さ

しかし、秀吉は、そんな寧々の気持ちを知ってか知らずか、次々と側室を作り、女たらしの性分を発揮していきます。これに憤った寧々ですが、ここでも冷静に事を見極め、秀吉に逆キレするのではなく、さりげなく上司に愚痴をこぼします。上司とはもちろん信長。その寧々の申し出に対し、信長の寧々を労う言葉が素晴らしいのです。向かうところ敵なしの信長からこのような手紙をもらえるというのは、やはり寧々の存在感は大きかったのでしょう。
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秀吉と共に運命の波にのまれる

しかし、天正10(1582)年、本能寺の変で信長が自害。ここから秀吉と寧々の運命が、否応なく動き出します。翌年の清須会議では、古参の家臣を差し置いて、主導権を握ったのは秀吉でした。用意周到な処世術や機を逃さず動く様は、信長が一目置いていた秀吉の長所です。そして欲しいものは何としても手に入れるという欲望に突き進むようにもなっていきました。長年憧れていた信長の妹、お市が柴田勝家(しばたかついえ)の正室となったことが、秀吉の嫉妬に火をつけたのでしょうか。後にお市の娘、茶々を側室に迎えた秀吉の執念とは相当なものでした。

関白の正室のみに与えられる「北政所(きたのまんどころ)」の存在感

遂に天下統一を成し遂げた秀吉は、天正13(1585)年、武士として初めて関白となり、正室の寧々も関白の正室である『北政所』の称号を与えられます。後世、北政所といえば寧々を指すようになりました。それだけ寧々の存在感が歴史においても大きかったといえます。

北政所=寧々だと思ってました! 元々は個人を指すものではなかったのですね。

そして同年、大坂城へと移り住みました。この時が寧々にとっては、人生最高の夢のひと時だったのかもしれません。しかし、つかの間の幸せは、側室となっていた茶々(淀殿)が男児を授かったことで狂い始めます。最初の子、鶴松(つるまつ)は3歳で亡くなりますが、文禄2(1593)年に世継ぎとなる秀頼(ひでより)を生みます。秀頼を溺愛した秀吉は、人生の晩年を大坂城ではなく、茶々と嫡男・秀頼のいる伏見城で過ごすようになります。この時の寧々の気持ちを思うといたたまれません。糟糠の妻をおざなりにしたことで、天が見放したのか、病魔に襲われた秀吉は慶長3(1598)年、62歳でその波乱の人生を閉じました。

関ヶ原の戦いで豊臣家の終焉を覚悟

最後は病床で付きっきりで看病にあたったという寧々。長い時間を共有した二人には、夫婦という絆だけでなく、戦友としての思いもあったのかもしれません。慶長4(1599)年、秀吉の跡を継いだ秀頼と茶々に、寧々は大坂城を明け渡します。翌年の関ヶ原の戦いで徳川家に政治の主導権を奪われ、豊臣家は失速していきました。寧々に育てられた大名が関ヶ原の戦い前夜、寧々に指示を仰いだともいわれています。慶長8(1603)年、家康が江戸幕府を開くと、寧々はいよいよ豊臣の時代の終わりを覚悟します。信長、夫・秀吉、そして家康のすさまじい天下取りを見てきた寧々は、栄枯盛衰を肌で感じ取っていたのかもしれません。

静かな山中に建立した高台寺で、余生を過ごす

後陽成天皇(ごようぜいてんのう)により、高台院の院号を与えられた寧々は、その名にちなんで、慶長11(1606)年、京都東山に高台寺を建立します。これに惜しみない協力をしたのが徳川家康だといわれています。その後、立派な大名となった加藤清正や福島正則らが訪ねてくることもありました。第一線を退いた寧々は、高台院として、僧侶たちと厳しい修行にも臨んでいたそうです。戦友である夫の死、実母の死、兄弟、家臣たちの死を受け止めながら、走馬灯のように駆け抜ける自分自身の人生を振り返っていたのでしょう。寛永元(1624)年9月6日、寧々は静かにこの世を去りました。享年76歳、多くの戦国武将に慕われた人生を終えたのです。

参考文献:『北政所 秀吉歿後の波瀾の半生』 津田三郎著(中公新書)
『大政所と北政所 関白の母や妻の称号はなぜ二人の代名詞になったか』 河内将芳著(戒光祥出版)
アイキャッチ画像:葛飾北斎 シカゴ美術館デジタルアーカイブより

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旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。