爽やかな風が吹く秋の夕暮れ、早稲田大学国際文学館開館1周年を記念して、スペシャルイベント『村上春樹presents 白石加代子怪談ライブ「雨月物語」』が開催されました。
早稲田大学に国際文学館(村上春樹ライブラリー)が開館したのは2021年10月。作家・村上春樹さんの作品のこれまで刊行された書籍、海外で翻訳された書籍、インタビュー記事や書評などの関連資料や村上さんが蒐集したレコード・ CDが寄託・寄贈されています。
開館1年を記念して、村上春樹さんが企画したのが、女優・白石加代子さんの朗読劇「雨月物語」です。『雨月物語』は、江戸時代の読本作家である上田秋成の代表作。村上さんは、子どものころから上田秋成の作品が好きで、『海辺のカフカ』には『雨月物語』が、そして『騎士団長殺し』には『春雨物語』がエピソードに登場するのは、ファンならばご存じの方も多いはず。
女優の白石加代子さんは、1967年に早稲田小劇場(現 SCOT)の女優としてデビューし、以来、舞台、映画、テレビドラマなど第一線で活躍。1992年からは古今の奇譚・怪談などの“怖い”作品をテーマに、多くの役を一人で演じる朗読劇「百物語」をライフワークとして続けています。
村上春樹さんと一緒に、早稲田大学の演劇博物館前の屋外会場で、白石加代子さんの朗読劇『雨月物語』を楽しむという贅沢な時間。今回、和樂webが特別にルポさせていただきました。夜の闇が訪れる前の薄暮のまさに逢魔が時。演劇博物館のすぐ隣には、あまり知られていないけれども、ひっそりと小さな墓地があるのです。ときおり、そこから風がふわ〜りと吹いてきてーー。まずは、村上春樹さんのお話から、幕が開きました。
子どものころから上田秋成が好きだった村上春樹さん
村上さん(以下敬称略):こんばんは。村上春樹です。だんだんいい具合に空が暗くなってきました。今日は新月なのだそうです。僕の父親が何年か前に亡くなりまして、その葬儀が京都で行われたのですけれど、お経を読んでくださったお坊さんが、90歳くらいのかくしゃくとした方で、なぜか上田秋成の話になりました。そのお坊さんが、「そういえば、うちのお寺に上田秋成のお墓があるんですよ」とおっしゃられたのです。そこは、南禅寺近くの西福寺という浄土宗の小さな古いお寺なのですが、そこの中庭に上田秋成のお墓がある、と。秋成はまだ生きている68歳のときに自分のお墓を設営したんです。京都の市中を転々としていたのですが、最終的には南禅寺の参内に小さな庵を編んで、暮らしていた。そのときに西福寺の住職と親交があったようです。
後日、連絡をとり、西福寺にうかがったところ、住職に案内されて進むと、中庭の片隅に上田秋成のお墓がありました。そんなに大きくないお墓で、江戸時代にたてられたものですから、雨風にさらされて、石が少し丸くなっている。その下の方にカニらしい模様が彫ってあって、住職に尋ねると、上田秋成は自分のことをカニになぞらえていたというのです。自分は世を拗ねた、ひねくれた者だから、横歩きしかできないのだ、と。秋成という人は、私生児として生まれて、養子に出されます。5歳のときに大病を患って手の指の何本かが異常に短いのです。かなり屈折した人生を送った人なのです。
秋成のお墓は、いかにも江戸の文人らしい、簡素な飾りのない雰囲気のいいお墓でした。その日はよく晴れた日で、僕も死んだらこういうところで静かに小さなお墓の下で眠りたいものだな、と思うくらい素敵なお墓でした。
僕が作家のお墓参りをしたのは生涯二度しかありません。ひとつがこの上田秋成で、もうひとつは スコット・フィッツジェラルドです。フィッツジェラルドのお墓は、米国メリーランド州のハイウェイの横にある、あまり情緒のない墓地だったのですけれど、秋成のお墓は、静かなお寺の一角に、ひとつだけ、ポツッとあって、非常に心にしみるお墓参りでした。
僕は小学校の子供のころから上田秋成の『雨月物語』を口語訳で読んでいまして、「浅茅が宿」や「菊花の約」や「夢応の鯉魚」や、今日、白石さんに読んでいただく「吉備津の釜」とか本当に怖くて、読むと怖い夢を見てうなされました。でも、怖いものみたさというか、つい読んでしまうのです。読み止めることができない。
『雨月物語』というのは不思議な中毒性があります。中毒性というのは、作家としての僕が一貫して追い求めてきたものです。読者を中毒にさせてしまうような文章や物語を書きたいというのが、僕の一貫した望みでした。
大人になってからも僕の『雨月物語』好きはなかなかおさまらなくて、原典で読んで、白石さんの読まれた CD2枚組の『雨月物語』を何度も聞き返しました。白石さんの読む『雨月物語』というのは、冗談抜きで怖いんですよ。車を運転しながら CDを聞いていると、ハンドルをもつ手が震えたりしてね。
今日は、白石さんにお願いして「吉備津の釜」を読んでいただくことになりました。
みなさん、今夜はうなされてください。……というのは冗談ですけれど、怖い話をたっぷりと楽しんでいただければと思います。
白石加代子さんの変幻自在の声に圧倒、そして恐怖!
そうして、白石加代子さんが真っ白のドレスをまとって、ブルーの照明に照らされた舞台に登場。『雨月物語』の朗読劇が始まりました。現代では聞き慣れない言葉も多い原文が読まれていきます。しかし、なによりも圧倒されるのは、さまざまな登場人物の感情によって縦横無尽に変化する白石さんの声、声、声!
女癖の悪い正太郎。正太郎に尽くした妻・磯良。正太郎の愛人・袖。陰陽師。袖のいとこの彦六。愛した正太郎を恨む、磯良の情念がこもった恐ろしい声が会場に響き渡り、そこへ墓地からの涼しげな風が、観客の体を撫でていくように吹くのです!怖〜い!
力強くも静かに物語が閉じ、安堵感とともに、大きな拍手とともに白石さんの朗読劇が終わると、続いて、村上さんと白石さんのアフタートークの時間です。
村上春樹さん✖️白石加代子さん『雨月物語』スペシャル談義
村上さん(以下敬称略):臨場感がすごかったです。物語を堪能することができました。白石さんは怖い物語をたくさん読まれていますが、怖い物語がお好きなんですか?
白石さん(以下敬称略):うふふふふ。「百物語」というのをやっていますけれど、今日の「吉備津の釜」はとくに怖いですよね。こんなに怖いのはあまり読んだことがないです。私も、怖かったです。これまでこんなに怖いと思いませんでした。
村上:『雨月物語』は、原文で読むとリズムがきれいですよね。口語訳はわかりやすいですけれど、原文のほうが物語性が直に伝わってくるような気がします。
白石:よっぽどお勉強した方であれば、耳からすっと入るかもしれないけれど、私が一読したときは、なにがなんだかわからなかったです。きっと今日も、聞いている途中でお眠りになった方もいらっしゃると思いますよ(笑)。
村上:でも、原文って、わからないところがあっても伝わってくるんですよね。情念みたいなものが。
白石:情念…ねぇ(笑)。私が朗読したのを最初に聞いたときには、眠くなっちゃったんですよね。少し言葉が通じないところがあると、そこを境にふーっと眠りに落ちちゃうような。この、上田秋成という方、なんだか、ひねくれてません?
村上:ひねくれていますね。鬱屈したところがある人ですね。
白石:古典を読んで少しお勉強すれば流れていくことが多いのですが、この方の物語は、少しわかりにくくて、村上さんがおっしゃるようには、なかなか(笑)。
村上:しかし、この「吉備津の釜」という話は、男も男だけど、女も女ですね、男もどうしようもないやつだけど、女もやりすぎじゃないか、という感じは少しありますよね。
白石:ああ、それは、男の人の考え方ですねぇ。
村上:女の人はあれくらい当然ですか?
白石:男の人にあんなに尽くさなきゃいいですよね。あんなにしてあげたのに、と思うから恨んじゃう。男の人は、美しい妻には誠を尽くせずに、遊び女にはどうして死なれたらあんなに泣いちゃって、お墓にまで行って嘆くのかしら。
村上:結局、上田秋成が描きたかったのは、人の性というのはどうしようもない、ということなんですよね。なぜこんないい人がいるのに、別の人のところに行くのかと思うけれども、行っちゃうのは、もうどうしようもない。流れというのは変えられないのだ、という人間の性のあり方を彼は書きたかったんじゃないかな、と思いますね。女の人ももう抑え切れないんですよね。そこまでやらなくてもと思うんだけど、恨みが募っていく。本当の恐怖は、そういうところにあるんじゃないでしょうか。
白石:怖いお話はいろいろあるけれど、この『雨月物語』は理由もなく怖い出来事が起こるでしょう? そこが怖いですよね。理由があれば、がまんできるけれど。
村上:小説を書いていると、突然、論理なく飛んじゃうときがあるんですよね。小説ってそうした部分がないとおもしろくなくて。僕が上田秋成に引かれるのは、そういう論理とか理屈とかを超えてなにか人間の性が噴出してくるところです。また、ぜひ、怪談シリーズをお願いいたします。
白石:えっ、また怖い話(笑)? 今日は村上さんにお声がけいただいて、とってもうれしかったし、尊い経験でした。また、このような機会がありましたらぜひよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
終演のご挨拶では、早稲田大学特命教授・国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問のロバート・キャンベルさんが、「物語というものは、人の声によって再び生き返ります。白石さんの声で、さまざまな人生を超えて、空間を超えて、物語がつながった」とお話されて、秋の夜の夢のようなイベントは幕を閉じました。
イベントを終えて 白石加代子さんよりメッセージ
秋の夜の心地のよいお天気も味方をしてくれて、とても楽しい思いをしました。村上春樹さんが長く温められた企画ということでお声がけいただいたときは、本当にびっくりしました。まさか、私が朗読した『雨月物語』の CDも聞いてくださっていたとは。小さなころから『雨月物語』がお好きで、お読みになったとおっしゃっていましたものね。怖いものがお好きなのね(笑)。
原文ですし、すんなりとは理解しにくいお話なので、再び読むにあたって、ひと月くらいは首っ引きで読みました。ひたすら読みこむわけですけれど、口の中で小さな声で読むだけではなかなか思ったところに到達できなくて、きちんと声を出して、気持ちを乗せていくという作業を続けます。私は、女というものが好きなんです。だからついつい女の感情には思いが強くなります。
「百物語」では、そんなに怖い話はないのですが、村上春樹さんの短編の中からも「フリオ・イグレシアス」「トランプ」「もしょもしょ」という作品をやったことがあります。
怖い話を語っていても、その場があたたかくて、きらきらしているのが、「百物語」なんです。99話まで語り終えたけれど、今、またアンコールで公演を続けています。