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2018.08.28

唐招提寺・火焰型土器〜ニッポンの国宝100 FILE 91,92〜

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

火焔型土器

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、鑑真和上の御寺「唐招提寺」と、縄文の美「火焰型土器」です。

鑑真和上の御寺「唐招提寺」

火焔型土器

唐招提寺は、南都六宗(奈良の6つの仏教宗派)のひとつ、律宗(りっしゅう)の総本山として知られます。開基は、奈良時代に聖武天皇が中国・唐から招いた高僧の鑑真(がんじん)。当時、正式に仏門に入るには、修行の規範である戒律を師から授けてもらう「授戒(じゅかい)」が必要でしたが、日本には戒律の師がいませんでした。そこで中国・揚州(江蘇省)において授戒伝律の師として高名だった鑑真が招かれたのです。5度もの渡航失敗の末、天平勝宝5年(753)にようやく来日した鑑真は翌年、聖武太上天皇ら440余人に東大寺で授戒の儀式を行ないました。さらにその翌年、東大寺に授戒の場である戒壇院が造営され、鑑真が入寺します。
 
東大寺で5年間を過ごしたあと、鑑真は天武天皇の皇子・新田部親王の旧宅地を下賜され、天平宝字3年(759)、戒律を学ぶ修行道場として唐招提寺を開きました。
 
唐招提寺金堂は、鑑真の入滅(763年)後、弟子の如宝(にょほう)によって8世紀後半に完成したとされます。奈良時代の金堂建築として現存する唯一の建物です。巨大な円柱(修理時にもっとも太い部分が60㎝と確認された)は、中央部に膨らみのある美しい曲線を描き、大きな寄棟造(よせむねづくり)の屋根とともに、天平建築の息吹を今に伝えています。

金堂には、1000の化仏(けぶつ)をつけた光背をもつ本尊の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)と、その左右の千手観音立像・薬師如来立像の3軀の巨大な乾漆仏(かんしつぶつ)が並んでいます。堂内には梵天・帝釈天と四天王立像も安置。御影堂(みえいどう)安置の日本最古の肖像彫刻「鑑真和上(がんじんわじょう)坐像」(本誌第11号参照)を含め、これら6件10軀の奈良時代の仏像が、国宝に指定されています。
 
建築では、金堂のほかに講堂・経蔵・宝蔵が奈良時代の建築で、鎌倉時代の鼓楼(ころう)とともに5件が国宝。また、工芸品では、鑑真が将来した舎利(釈迦の遺骨)を納める舎利容器が国宝。以上計12件18点に及ぶ国宝には、鑑真在世中に近い時期の文化財が多く含まれており、天平文化の高い技術や大陸的で壮大な美を見ることができます。
 
唐招提寺は、1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。

国宝プロフィール

唐招提寺

律宗(りっしゅう)の総本山・唐招提寺は、奈良時代に中国・唐から来日した僧・鑑真(がんじん)が、新田部親王の旧宅地を賜って現在地に建立。創建は天平宝字3年(759)。金堂・講堂・経蔵・宝蔵は、奈良時代の建築。また、金堂に安置される乾漆造(かんしつづくり)の盧舎那仏(るしゃなぶつ)・千手観音・薬師如来像や、木造・乾漆併用の梵天・帝釈天像および四天王像など、奈良時代後期の貴重な仏像が多数伝来している。

唐招提寺

縄文人のセンス爆発「火焰型土器」

火焔型土器

紀元前1万1000年頃から前400年頃まで続いた縄文時代は、それまでの旧石器時代(先土器時代)に代わり、日本列島にはじめて土器が出現した時代です。明治10年(1877)に、アメリカの動物学者エドワード・モースが、東京の大森貝塚から発掘した土器を、その縄目文様から縄文土器と名付けたことから時代名となりました。
 
1万年以上続いた縄文時代には、時期や地域ごとにさまざまな器形や文様をもつ土器が現れました。その様式の数は約75といわれています。火焰型土器は、草創期から晩期までの6つの期間のうち、紀元前3000年頃から前2000年頃にあたる縄文時代中期に、信濃川中流域の豪雪地帯に出現した、特異な姿をもつ土器です。

火焰型土器の特徴は、口縁部とその下の頸部が胴部よりも大きく広がった深鉢形であること、また、縄文土器であるにもかかわらず、器面に縄文が施されておらず、渦巻きやS字状、逆U字状の文様が器面を覆い尽くしていることが挙げられます。最大の特徴は、口縁部につけられた鋸歯状の連続する突起と、大きく突き出した鶏頭のような突起です。この突起が燃え上がる炎のように見えることから、火焰型土器と呼ばれています。
 
1936年、新潟県長岡市の馬高遺跡から、こうした特徴をもつ土器が発掘され「火焰土器」と呼ばれました。その後、長岡市から十日町市を中心とする信濃川の流域で、類似した土器が多数出土し、「火焰型土器」と総称されるようになった経緯があります。
 
1982年、新潟県十日町市の笹山遺跡から、ほぼ完全な形の火焰型土器が1点発掘されました。これが、1999年に国宝に一括指定された「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」57点(附指定871点)の指定番号1にあたり、「縄文雪炎」の愛称をもつ逸品です。縄文時代の出土品で国宝に指定されているのは6件。そのうち5件は土偶で、縄文土器としてはこれが唯一の国宝。なかでも「縄文雪炎」は、人類最古級の土器文化が隆盛した日本の原始美術を代表する土器として、世界的にも高い評価を受けています。

国宝プロフィール

火焰型土器

新潟県十日町市にある笹山遺跡の出土品928点は、「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」として国宝に指定されている。そのうち国宝指定番号1は、高さ46.5cmの大型の深鉢形土器で、火焰を思わせる立体装飾を含め、ほぼ完全な形を保つ。縄文時代中期に信濃川中流域に現れた火焰型土器の代表作で、「縄文雪炎」の愛称がある。

十日町市博物館