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京都の人気ナンバーワンは、円山応挙
現在の日本美術界では、若冲が圧倒的な人気ナンバーワンの座を譲りませんが、江戸のリアルタイムにさかのぼると、若冲は常に応挙の後塵(こうじん)を拝していました。
その事実を伝えてくれるのが、約10年ごとに発行されていた、京都の市井(しせい)の紳士録で現在の美術年鑑のような役割を果たした『平安人物志(へいあんじんぶつし)』。35歳のころに2位で初登場した円山応挙(まるやまおうきょ)は、43歳で1位を奪取。同時代の絵師には、若冲とともに、奇想で知られる曾我蕭白(そがしょうはく)、南画(なんが)・文人画の池大雅(いけのたいが)と与謝蕪村(よさぶそん)らがいたのですが、人気1位の座を安定してキープ。
みずからが売れっ子として活躍するだけでなく、たくさんの弟子を育てて円山派を率いるなど、京都画壇を盛り上げたことも応挙の功績のひとつです。
日本美術のベースは写生
京都画壇第一の絵師・応挙の生まれは丹波(たんば)の農家。大飢饉の翌年に、次男であったことから食い扶持(ぶち)減べらしのために近くの金剛寺へ小僧として預けられるという境遇でした。
その後、京都に奉公(ほうこう)に出た際に狩野派の絵を学ぶ機会を得て、作画に熱中。ヨーロッパ伝来ののぞき眼鏡の制作に携わりながら、西洋絵画や中国絵画を独学で習得。さらに、写生をくり返しながら、写実性を重視した独自の作画法を編み出したのです。
日本美術において写生は欠かせないものですが、応挙の場合は、見たままの姿をわかりやすく描いた点で他の絵師と一線を画しており、写生に構図のバランスや自由闊達にモチーフを配するテクニックが重なり、押しも押されもしない人気を得たのです。
写実×写実=非現実
西洋画のように写生したものをそのまま本画にすることを、日本美術では行いません。写生は資料としてため込んでおき、作画の際に必要な部分を引っ張り出して構成するために写生をするのです。
写生は写実的表現に欠かせないものですが、応挙の作品は、それだけにとどまりません。画面構成や配色などを考慮して、虚構を駆使。非現実的な風景にもかかわらず、こんなことがあるかもしれないと思わせる現実味を帯びているようにかんじさせるところが、応挙のすごいところ。綿密な描写と、画面構成の面白さを応挙は両立させているのです。
カリスマ絵師07 円山応挙プロフィール
まるやま おうきょ
享保18(1733)年~寛政7(1795)年。丹波国の農家に生まれ、17歳のころ京都で狩野派の石田幽汀(ゆうてい)に絵の基本を学ぶ。以後は写生を中心にして、様々な画法を学び、京都画壇の最高峰に立ち、多くの友人門人に慕われて円山派を確立。晩年は目を患いながらも作画を続ける。
※本記事は雑誌『和樂(2018年4・5月号)』の転載です。