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三十六歌仙その2、最高の和歌の名人たち……その中でも名歌はどれ?
名歌の基準のひとつとして、三十六歌仙の歌がどのように後世に伝わったかが、ヒントになるといいます。
「藤原定家(ふじわらのていか)は百人一首のなかで、三十六歌仙から素性法師(そせいほうし)、藤原敦忠(ふじわらのあつただ)、藤原興風(ふじわらのおきかぜ)、藤原朝忠(ふじわらのあさただ)の4人の歌をそのまま採用しています。百人一首は、前(さき)の十五番歌合(うたあわせ)から約200年ほど後の選集ということになりますが、定家の時代になると、三十六歌仙の歌は少し古く感じられたのかもしれないですね」(馬場さん 以下同)
では、それとは別に、いったいどの歌が流布したのでしょう。
「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の〝ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに島がくれゆく舟をしぞおもふ〟と猿丸大夫(さるまるたいふ)の〝をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥(よぶこどり)かな〟の2首は、『新名歌辞典』によると浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎、能、幸若舞(こうわかまい)、狂言といったあらゆるところで、80回、60回以上の引用がなされました。しかし実は、これらは本人がつくったという確証がありません。伝承なんです。
現実に裏がとれるのは、藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の〝人の親のこころはやみにあらねども子を思ふ道にまよひぬるかな〟という歌。これは58 回も引用されています。〝子をもつ親の心は闇というわけではないが、子供のことになると道に迷ったようにうろたえてしまう〟といった内容ですね」
藤原兼輔は、どうしてこの歌をつくったのでしょう。
「裕福な兼輔は、賀茂川の堤に美邸をもち、堤中納言(つつみちゅうなごん)と呼ばれました。娘桑子(くわこ)は醍醐(だいご)天皇の更衣(こうい)でしたが、中宮(ちゅうぐう)、女御(にょうご)、御息所(みやすどころ)、更衣、御匣殿(みくしげどの)といったたくさんの女性を抱える天皇にお仕えする娘への寵愛(ちょうあい)を案じて、自分の娘はどうなるんだろうと心配だった。それで〝人の親の……〟の歌を詠んで帝に直接届けたのです」
醍醐天皇は、兼輔の親心にホロリとさせられます。
「そして天皇と同様に、庶民も感激したんです。定家が選ぶような歌とも違い、むしろ人情のある歌でしたから、あらゆる文芸にこの歌が採用されるようになりました。時代を超えて普遍的に愛された事実が、名歌という評価につながっているのではないでしょうか」
紫式部の曾祖父・藤原兼輔
六歌仙以降の和歌を支えた親子
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。
現在、映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)を上演中。
※本記事は雑誌『和樂(2019年10・11月号)』の転載です。構成/植田伊津子