一条(いちじょう)天皇は王朝文化が花開いた平安時代中期の天皇。ちょうど紫式部が『源氏物語』を執筆した時代に、藤原道長(ふじわらのみちなが)とタッグを組んで国を治め、初恋の后を生涯愛し続けたスパダリ的ヒーローです。
わずか7歳で天皇になったプリンス
一条天皇は名を懐仁(やすひと)といい、円融(えんゆう)天皇と藤原兼家(かねいえ)の娘・詮子(せんし/あきこ)との間に天元3(980)年に生まれました。
日本の第66代天皇に即位したのは寛和2(986)年、数え年で7歳のときです。
このときすでに父の円融天皇は退位し、花山(かざん)天皇の御代でしたが、花山天皇が突然出家したため急遽、その後を継ぐことになりました。
7歳での天皇即位は当時としては最年少の記録。花山天皇退位の陰には、一条天皇の外戚(母方の親族)として権力を振るおうとした祖父、兼家の陰謀があったといわれています。
添臥の后・定子との出会い
一条天皇の元服(成人)の儀が行われたのは、11歳になった正暦元(990)年のこと。兼家は儀式で一条天皇に冠を授ける役目を担い、その後、半年ほどで亡くなっています。兼家が存命のうちに一条天皇の元服を急いだのは、長男である藤原道隆(みちたか)の娘で、15歳になる定子(ていし/さだこ)を後宮に入れるためでした。
皇族の男子が元服した夜に年上の女性が添い寝役をつとめ、そのまま后となることがあり、定子もこの「添臥(そいぶし)の后」だったと思われます。一条天皇は知的で明るい性格の定子を姉のように慕い、やがて二人の間にはゆっくりとあたたかな愛が育まれていきました。
笛の才能に優れ、漢詩を好んだ少年の素顔
一条天皇は横笛の名手で、元服の年に父・円融法皇の御前で笛を披露し、陽成天皇の遺愛品である名笛「赤笛」を譲り受けたというエピソードがあります。
また漢詩や漢文を好み、その趣味の良き相手となったのが当時の女性としては珍しく漢文の教養があった中宮(皇后の別称)定子と、定子の兄である藤原伊周(これちか)でした。定子の女房(貴族に仕える女性)だった清少納言は『枕草子』の中で、次のように書き残しています。
いつものように大納言殿(伊周)が参られて、漢詩について話すうちにもう夜も明けてしまいそうだ。
一条天皇は柱に寄りかかって、うつらうつらとしていらっしゃる。その姿を見て中宮が微笑まれている。…(中略)…
鶏の鳴き声に驚いて主上(天皇)が目を覚まされた。
大納言殿がその様子を見てすかさず(漢詩にちなんで)「声、明王の眠りを驚かす」と吟じられる。
「さすが、ぴったりのことを言う」と主上と中宮がおもしろがった。
(『枕草子』第293段より)
一条天皇は幼い頃から度々「病悩」に見舞われており、体はあまり丈夫ではなかったようです。陰陽師として朝廷に仕えていた安倍晴明(あべのせいめい/はれあきら)が祈祷をしたところ、たちまち回復したというエピソードも残されています。
▼安倍晴明についてはこちらの記事。
安倍晴明は平安時代のスーパー国家公務員だった?羽生結弦の心も掴んだミステリアスガイの謎に迫る
藤原伊周の失脚と藤原道長の台頭
長徳元(995)年、定子の父である関白・道隆が亡くなりました。道隆は生前、息子の伊周を政務の代理人としていましたが、一条天皇は道隆亡き後、伊周がそのまま関白となることは認めませんでした。また皇太后の詮子は、弟の藤原道長(みちなが)を関白に推していましたが、一条天皇はその進言のしつこさに辟易していたとも伝えられています。
摂関家の権力の行方が注目される中、自らの意志で行動しようとする16歳の若々しい天皇の姿が浮かびます。
翌年に起こった事件により失脚したのは、伊周でした。伊周と弟の隆家の従者が、花山法皇の従者と乱闘を起こしたのです。きっかけは、花山法皇が自分と同じ女性の元に通っているのではという、伊周の誤解だったといわれています。この不祥事は天皇家を侮るものだと大きく取り沙汰され、皇太后を呪詛したという疑いにまで発展し、伊周は左遷の処分になりました。
父を亡くし兄弟が失脚し、後ろ盾のない后となった定子は、第1子を妊娠中の身でありながら髪を切り落とし、出家の意志をあらわしています。しかし一条天皇は定子を変わらずに愛し続けて、手放しませんでした。
定子の出産、彰子の入内
長保元(999)年、道長は権力をより確かなものにしようと、12歳になった娘の彰子(しょうし/あきこ)を一条天皇の後宮に送ります。
一条天皇は20歳。定子が第2子となる待望の親王(男子)を出産したその日の夜に、彰子との初夜を過ごすという、運命のいたずらのような三角関係の始まりでした。
とはいえ、成人の儀である裳着(もぎ)を終えたばかりの彰子はまだ幼く、形式的に帳の中で過ごすだけの「雛(ひいな)遊びの后」と呼ばれる存在にすぎません。にもかかわらず、道長の後押しによって彰子は早々に中宮となり、定子は中宮から皇后へ。そもそも中宮とは皇后の別称でしたが、それを分けることで第1位の后が2人並ぶという、前例のない事態です。
定子が第3子の出産で命を落としたのは、それから間もなくのこと。
彰子は後に、後一条(ごいちじょう)天皇・後朱雀(ごすざく)天皇となる二人の親王を出産し、道長の栄華を盤石なものにしました。
道長を右腕とした「叡哲欽明」な天皇
一条天皇の在位は平安時代中期、摂政・関白が政治の実権を握ったといわれる時代です。しかし一条天皇は摂関家と協力して神事や政務を行い、また分け隔てなく優秀な人材を取り立てたことから、知力にすぐれ物事の道理を知るという意味の「叡哲欽明(えいてつきんめい)」な天皇であったと評価されています。
一条天皇にとって藤原道長は、政務を行う上では右腕のような存在でもありました。
道長の日記には干ばつに見舞われた寛弘元(1004)年の夏に、一条天皇が雨を祈る儀式を行ったことが次のように記されています。
7月10日
主上が庭でお祈りをされた。7月11日
主上のもとに参内したところ「酒を飲む夢を見た」とおっしゃる。
すぐさま「雨下るか」と申し上げる。
天気宜し。
昼過ぎから小雨が降りはじめる。雷鳴が聞こえる。
(『御堂関白記』より)
天皇に「雨下るか」とは乱暴な問いのようですが、一条天皇が漢文を好んだので、道長もあえて漢文調で問いかけたのかもしれません。
天気と天皇の機嫌の良さをかけて、雨を予感していたことがうかがえます。
ひとりの女性を心に、32歳で病没
一条天皇が亡くなったのは寛弘8(1011)年、32歳のときです。病に倒れて三条天皇に譲位するにあたり、定子との間に生まれた敦康(あつやす)親王を次の東宮(皇太子)にしたいと望みましたが、叶えることはできませんでした。
露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
-この世に君を置いていくことが悲しい-
(『権紀』より)
最後の力を振り絞ったと思われる句は、「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ(『御堂関白記』)」など、伝えられている文献によって文言が若干異なります。
一条天皇の最後に付き添った后は、彰子です。この世に置いていく「君」とは、彰子のことと考えるのが自然です。しかし天皇の側近であり、『権紀』の作者でもある藤原行成(ゆきなり)は、この句は定子に向けて詠んだものであると捉えました。
定子を愛するあまり、出家することを許さなかった一条天皇。その最後のときまで定子の魂は俗世にとどまり、そばに寄り添っていたのかもしれません。
*平安時代の人物の読み仮名は、正確には伝わっていないことが多く、敬意を込めて音読みにする習慣があります。
*年齢は生まれた年を1歳とする数え年で、現在の年齢の数え方とは異なります。
アイキャッチ:『田米知佳画集』紫式部日記並枕草子圖 (原色版) 山口縣 子爵吉川元光氏藏(国立国会図書館デジタルコレクションより)
参考書籍:
『一条天皇』著:倉本一宏(吉川弘文館)
『源氏物語の時代』著:山本淳子(朝日新聞社)
『天皇と摂政・関白』著:佐々木恵介(講談社)
『枕草子』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」』著:倉本一宏(講談社)