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「美装のNippon」第1~9回
漢詩の才に満ちた女官が抱いた「怨み」
「団扇」と書いて、皆さんはなんとお読みになるだろう。ほとんどの方は、「うちわ」と即答なさると思う。だが、この二文字を虚心にご覧いただきたい。「団扇」という漢字のどこに、「うちわ」と読める要素があるのだろうか?
実はこの言葉はそもそも、「団扇」という、その名の通り丸い形をして風を起こす古代中国の道具を指す。それが日本に伝わった後、一節には鳥の羽を用いて団扇を作ったことから、「打ち羽」と呼ばれるようになり、やがて団扇=うちわという言葉が定着したという。
紀元前一世紀頃、中国前漢に生きた班婕妤(はんしょうよ)は、漢詩の才に満ちた女官だった。一時期、皇帝・成帝の寵愛を受けるもやがて忘れ去られた彼女は、秋になって捨てられる団扇に我が身を重ね合わせた「怨歌行」という詩を詠んだとされている。
この「怨歌行」はその後の中国漢詩の世界でも愛好され、班婕妤そのものが詩のモチーフとして用いられるようになるが、同様の傾向は大陸の詩文に多くを学んだ日本でも同様だった。
たとえば平安京を作った桓武天皇の皇子、平安時代初期の天皇である嵯峨天皇は、「婕妤怨」という詩を作り、「団扇、愁を含みて詠ふ」と記している。また死後、怨霊を経て天神さまと化したと言われる学者貴族・菅原道真は、「扇」と題された詩の中で、「丸く、布で作られた扇」「秋が訪れることを恨んで、炎暑の季節が続いてくれるよう願う」と詠むなど、明らかに班婕妤の逸話を下敷きにしている。
ただ、ここで気を付けねばならないことは、彼らが班婕妤の扇を「団扇」と明確に限定している事実だ。一方でわれわれが現在、「扇」と認識する開閉自在な扇は、すでに奈良時代には日本で発明されていたらしく、平城京跡からその断片が見つかっている。平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』でも、「扇」と「団扇」はそれぞれ別々に項目が立てられているので、平安人にとってこの二つは大きく異なるものとされていたのだろう。
さまざまな役割を果たした平安の扇
だが、それも当然だ。今日のわれわれからすれば、扇と団扇はどちらもただ風を起こす道具でしかないが、平安時代の人々にとって扇はさまざまな役割を果たす万能の道具だった。
日本古来の扇の一種である檜扇(ひおうぎ)は、檜や杉などで作られた薄板を要と糸で連ねた道具。一説にこの扇は、公卿が威儀を正す際に手にする笏の代用として生まれたとも言われ、ファッション小道具の一つとして持つ男女も多かった。
その他、顔を隠す道具とされたり、何かを差し招く際にも用いられていたが、その持ち主は身分の高い貴族階級の者が多かったらしい。広島県・厳島神社には現在、平安後期に作られた檜扇が現存している。三十四枚の檜の薄板を鳥の形をした銀金具で止め、胡粉(ごふん)塗の表面に岩絵の具で公卿や女房、はたまた紅梅の木などを描いた豪華な品だ。
一方、檜扇にも増して多様な使い方をされたのが、檜扇の骨部分を細く作り、片面に紙を貼った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)だ。今日われわれが一般に呼ぶ扇子に、もっとも近い扇と言ってもいい。こちらの扇は檜扇よりも廉価だったためか、さして身分の高くない人々たちも手にすることがあったらしい。
平安時代末期作成の「伴大納言絵巻」は、貞観八年(866)に発生した応天門の変と呼ばれる政変を描いた絵巻物。その中のワンシーン、町中で起きたとある喧嘩を描いた場面では、どこかの勤め人と思しき水干姿の男と、袈裟をかけぬ気楽な服装をした僧侶が、それぞれ蝙蝠扇を手にしている。
内面までが推し量られていた
また「伴大納言絵巻」より百年ほど前に作られたと考えられている「鳥獣戯画」は、ウサギやカエル、はたまたサルといった動物たちの愛らしい描かれ方から、今日でも大人気の絵巻。ただ実はこの絵巻を丁寧に見れば、彼らは実にさまざまな場面で蝙蝠扇に手にしている。
宴会用の食料を運ぶ仲間たちを、蝙蝠扇で招くウサギがいる。片手にびんさららと呼ばれる楽器を、残る片手に蝙蝠扇を持って踊るカエルがいる。よしありげに口元を隠すネコがいる。扇の骨の間から様子をうかがうサルがいる……。「鳥獣戯画」に描かれる動物たちが大変庶民的な行動を取っているところから推すに、彼らの扇の使い方は平安時代中期の庶民のそれと共通していると言ってもいいだろう。そう、つまりこの時代、檜扇・蝙蝠扇を問わず、扇は今日のわれわれには想像もつかぬほど身近な道具だったのだ。
このため扇は、その持ち主の気性を如実に物語るものと見なされていたらしい。『源氏物語』紅葉賀巻には、源典侍(げんのないしのすけ)といういささか個性的な女官が登場する。彼女の手にした「蝙蝠のえならず描きたる(何ともひどく派手な絵が描かれた蝙蝠扇)」を受け取った源氏は内心、地紙が赤く、金泥で森が描かれたそれを見て「似つかわしからぬ扇のさま(似合わぬ扇だ)」とあきれる。というのも源典侍はこの時、すでに五十代半ば。四十代で高齢とされる当時にあってはもはや老婆と言ってもよく、そんな彼女に真っ赤な扇は持ち主のセンスを疑う品と映ったのだろう。年甲斐もなく、というのが光源氏の正直な感想だったのに違いない。
また同じく『源氏物語』東屋巻では、片思いのまま亡くなってしまった女性に生き写しのその異母妹・浮舟を手に入れた源氏の息子・薫が、「白い扇をまさぐりつつ添い臥」す恋人に対し、複雑な思いを抱く。なぜなら彼にとって、真っ白な扇とは前述の班婕妤のエピソードを思わせて不吉なものであり、浮舟もまた当然、その逸話を知っていてしかるべきだと考えていたためだ。
扇が幅広い用途と意味を持っていた当時、どんな扇を手にしているかで、その人の内面までが推し量られていたことが推測できて興味深い。
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