CATEGORY

最新号紹介

10,11月号2024.08.30発売

大人だけが知っている!「静寂の京都」

閉じる
ROCK 和樂web
2024.10.29

厩図屛風を見てみると…馬のお腹の下に謎の綱? 日本の馬文化がおもしろい!

この記事を書いた人

うーーーん、と唸って猫背で固まってしまった。
2024年3月に発表された重要文化財新指定品「紙本著色厩図(しほんちゃくしょくうまやず)」六曲屏風(文化庁保管、皇居三の丸尚蔵館収蔵)。の、画像を文化庁のサイトで見ていたのだが、この厩舎の絵が猫化の原因だ。どうして前面が完全に開いているのだろう。そして何より、どうして馬のお腹の下に綱が!? ――要は、「テレビなどでよく見るスタイルの厩舎じゃない」のである。

気になる。気になって仕方がない。これは調べてみるより他あるまい。

序章から蛇足

自他ともに認める馬好き歴35年超、メジロマックイーンやトウカイテイオーをリアルタイムで見ていた世代である。絵本『スーホの白い馬』で馬に興味を持ったものの、夏の乗馬キャンプは小学生以上対象だと知って落ち込んだ幼稚園時代、壁に好きな馬の新聞切り抜きをベタベタ貼っていた小学生時代、やまさき拓味先生の競馬漫画『優駿の門』で号泣した中学時代、なぜか兄からの誕生日プレゼントが毎年スターホースぬいぐるみになったのは……ってやめよう、完全に年がバレる。ともかく、馬に噛まれたり踏まれたり落とされたり暴走されたりナメられたりしながらも、馬という存在をずっと愛し続けているのである。

重要文化財 『厩図屏風』室町時代・16世紀 東京国立博物館蔵 ※新指定品とは別作品 出典:ColBaseより加工使用(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10139?locale=ja)

同・拡大図

しかし、だ。日本古来の厩舎や馬具、馬術のことをさほど、いや、ほとんど知らないではないか。たしか少し調べたことはあったように思う。が、ニワトリと比べるのがおこがましくなるほどの記憶力を誇る私が、はるか昔のことを覚えていられるはずもない。
なぜだ、なぜなんだ、馬のお腹の下に綱を張ることにどんな意味があるんだ……そんな疑問が渦を巻いて、我が心の中で鳴門の渦潮にまで発達してきてしまった。

そこで、日本の馬文化について、馬の博物館学芸員の金澤 真嗣(かなざわ まさつぐ)さんに根掘り葉掘りお聞きし、ここにきちんと文章として残しておくことにした。しばしお付き合い願えたらと思う。

いや、そんなニワトリ以下に付き合っていられるか、というかたは以下の記事でもお読みいただけたらと思う。
戦国武将はポニーに乗っていた!? 小さくてもパワフルなずんぐり馬たちがかわいい!

日本の厩舎とは

―― 屏風や絵巻物などに描かれる日本古来の厩舎は、現在競馬場や牧場・乗馬クラブなどで目にする西洋式厩舎とはまったく異なる構造をしているように思います。日本における厩舎・馬房とはどんなものだったのでしょうか?

金澤 真嗣さん(以下、金澤):日本の厩舎すべてが同じ構造だったわけではなく、武家と農家とでも違いがありました。武家の馬屋については、江戸時代は板張りが多かったようです。また、「厩図屏風」にあるように、緒で銜(はみ・馬にくわえさせる金属製の棒)や頭絡(とうらく・馬の頭に装着するひも状のもの)と馬屋の柱とを繋ぎ、馬を管理する場合もありました。農家の馬屋については、藁などを敷いていた地域が数多くありました。馬の糞尿が混ざった藁を馬自身に踏ませることにより、厩肥(きゅうひ)と呼ばれる肥料を生産するためです。

重要文化財 彦根城馬屋(出典:文化庁文化財デジタルコンテンツ)

―― なるほど、一括りにして考えてはいけないのですね。武家の馬屋は「繋いでおく」ことが前提だから、四方を囲っておく必要がなかったのですね。馬のお腹の下を通っている綱のようなものは、一体何でしょう? 厩図を見ると、馬によってあったりなかったりしますが。

金澤:これは「胴縄(どうなわ)」といって、馬が横たわらないようにするためのものと考えられます。

―― なるほど、馬はもともと横になって休まない動物だと聞いたことがあります。外敵に襲われる心配のない安全な場所にいるからと、馬の「やる気スイッチ」が完全に切れてしまうのを防ぐためだったのでしょうか。たしかにこの縄があると、横たわれないですね。

重要文化財 『厩図屏風』部分 室町時代・16世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBaseより加工使用(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10139?locale=ja)

―― 人と馬が同じ建物で暮らす「南部曲屋(なんぶまがりや)」というのを耳にしたことがあります。これはどういったものなのでしょうか?

金澤:18世紀前半から中頃に成立したと言われる、母屋と馬屋を土間で直角に繋いだ「L字型」が特徴の岩手県・南部地方の建造物です。普及した理由としては、馬を監視しやすく飼育に便利、台所の炉や釜の火気により馬屋を保温できるなどがありますが、所説あり定説はありません。

日本の馬具・馬術

日本の馬具にも、独特の文化があるようだ。日本の馬具や馬術についてもお聞きしてみた。

鈴木其一『Young Nobleman Crouching beside His Horse』メトロポリタン美術館より

和式馬具とは?

―― 日本の馬具について、また日本の馬具の歴史についてお教えいただけますでしょうか?

金澤:馬が日本列島に渡来してきた古墳時代に馬具の生産も始まり、製造技術は渡来人から習得しました。私たちが「和鞍(わぐら)」「和鐙(わあぶみ)」と聞いて一般にイメージする型式の馬具が成立したのは平安時代で、例えば、スリッパのような形をした「舌長鐙(したながあぶみ)」が登場したのはこの時代です。

和鞍
鞍は、馬の背に乗せて固定し、人や物を乗せやすくするもの。
日本では唐鞍(からくら)、水干鞍(すいかんぐら)、大和鞍(やまとぐら)など、数種が存在した。

重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-3753?locale=ja)
和鐙
鐙は、鞍に付属していて馬の体の左右に垂らし、騎乗時や乗る時に人の足を支えるもの。
日本では輪状の輪鐙(わあぶみ)、爪先がすっぽり覆われる壺鐙 (つぼあぶみ)、スリッパ状の舌長鐙(したながあぶみ)が用いられた。

海賦文様金銀象嵌鐙 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-3781?locale=ja)

―― 日本史の授業で、法隆寺金堂・釈迦三尊像の作者として「鞍作止利(くらつくりのとり)」の名前が出てきました。止利は飛鳥時代の渡来系仏師で、馬具をつくる技術者集団の長だったと教わりましたが、まさに彼らが日本に馬具作りの技術を伝える役割を担っていたのですね。

金澤:ただ、明治時代以降は西洋式馬具が使用されるようになり、和式馬具は作られなくなりました。

―― そうなのですか! では、現在和式馬具を作っている人はもういない、ということでしょうか?

金澤:古式馬術で使用する和鞍を製作しておられるかたはいらっしゃるようですが、江戸時代の馬具職人の系譜や技術を受け継いでいるかたはおられないと思われます。

和式馬術とは?

―― 和式馬術、というのを耳にしたことがあります。日本の馬術というのはどういった目的で成立したのでしょうか? イギリスなどでは狩り、アメリカでは牧畜を主目的として発達したとも聞くのですが。

金澤:日本史上、馬を持つ・馭(ぎょ)することは、戦闘目的のほかに、貴族や武士の身分・権威を表す威信財としての意味もありました。馬術流派がいつ成立したのかは明確にできませんが、大坪流の創始者である大坪慶秀(実在不明)を起点に多くの流派が生まれたとされています。

―― 和式馬術では、鞍にお尻をつけて座るのではなく、鐙の上に立って乗る、と聞きました。これはどんなものなのでしょう?

金澤:「立ち透かし」といって、お尻を鞍から浮かす騎乗法ですね。西洋馬術の「ツーポイント」も同じように鐙の上に立って乗るのですが、立ち透かしは馬上から攻撃(たとえば矢を射るなど)することを目的としているため、背中をまっすぐにした姿勢をとります。他方、ツーポイントは速さに対応することを目的としているため、前傾姿勢をとる、という違いがあります。

揚州周延『犬追物』メトロポリタン美術館より

―― なるほど、似ているように見えても目的が違うのですね。競馬のジョッキーなどは、腰から頭までが地面と平行になるような極端な前傾姿勢をとっていますが、どの乗り方も足腰がとても鍛えられそうです。

日本における馬とはどんな存在だったのか

―― 「天高く馬肥ゆる秋」や「馬が合う」「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」など、馬にまつわることわざもいろいろありますね。改めて、日本人にとって馬とはどんな存在だったのでしょうか?

金澤:馬は私たちの生活に不可欠なパートナーでした。約1500年前の古墳時代に軍事利用を目的として朝鮮半島から馬がやってきましたが、戦いのためだけではなく、車がない時代には人や物を背に乗せて運ばせ、トラックの代わりに馬に荷車をひかせるなどしていました。また、馬の糞は農家にとって大切な肥料となりました。しかし敗戦や自動車の普及などに伴い、馬の需要は減少し、現在では8万頭程度になってしまっています。

歌川広重『東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』メトロポリタン美術館より

―― 今では限られた場所でしか目にすることがなくなってしまった馬も、かつては日本人の生活と密接に繋がっていたのですね。

金澤:徳川綱吉の生類憐みの令は、「お犬様至上主義の悪法」などと言われることもありますが、実は馬の保護が中心に据えられていたとも考えられているんです。犬を捨てると流罪ですが、馬を捨てるとその人は死罪になったそうですから。

―― そうなのですか! 「何となく知っていた」歴史上の出来事のイメージが変わりました……。

日本で馬は「神の乗り物」

―― 「古来、馬は神の乗り物とされた」と文化庁のサイトに書いてあったのですが、具体例などお教えいただけますでしょうか。

金澤:葵祭の前に行われる下賀茂神社の御蔭祭(みかげまつり)が特に有名でしょうか。御蔭山から神霊を馬の背に乗せて、下賀茂神社まで巡行する神事です。神霊が馬に乗って降臨する古俗を示した行事と言われています。また、岩手県の「馬っこつなぎ」も、田の神様を乗せるため藁などで作った藁馬をお供えする行事として知られています。

北尾重政『白馬節会(あおうまのせちえ)』メトロポリタン美術館より

―― 神事でも馬が活躍しているのですね。神社で「神馬」が大切に飼われているのを今でも時々見かけます。絵馬も馬の代わりに奉納するものだったと聞きますし、神社と馬の繋がりの深さが窺えるようです。

日本在来馬について

日本で古くから飼育されてきた「日本在来馬」はモンゴルの在来馬をルーツに持つとされる。そのため、現在よく目にするサラブレッドなどとは体格や気質の面でも違いがある。
日本在来馬についても、お聞きしてみた。

―― 日本在来馬の気性について様々な説があるようですが、たとえばサラブレッドと比べるとどんな違いがあるのでしょうか?

金澤:神経質な傾向にあるサラブレッドと比較すると、在来馬は温和な気質と言われます。ただし、個体差はありますね。

―― なるほど。サラブレッドに接するときには「絶対に後ろから近づかない、急に動かない、近くで走らない、大声を出さない」と繰り返し念押しされましたが、在来馬の牧場では「気を付けてほしいけれど、そこまで神経質にならなくて大丈夫」と言われたことがあります。けれど一方で、たとえば鎌倉時代の名馬・生唼(いけずき・池月、生食とも)などは、誰にでも噛みついていく攻撃的な性格からその名が付けられたといいますから、「この種類だから絶対にこんな性格」と考えるより、個体差も考慮していく必要があるのですね。

―― 日本在来馬のおかれている現状について、お教えいただけますでしょうか?

金澤:2019年現在、日本で飼育されている馬は8万頭程度、そのうち日本在来馬は1500頭程度と、かなり危機的状況にあります。原因としては、日露戦争(1904~1905年)以降、軍用に適した体格の大きな馬を確保するため、在来種を改良し大型化=雑種化を推進していったことが挙げられます。加えて、アジア太平洋戦争と敗戦、昭和30年代以降のモータリゼーション化により馬の需要が急速に減少し、その結果、100万頭以上いた在来種は激減してしまったのです。現在、日本在来馬は8種いますが、中には50頭未満の品種もあり、種の保存が重要な課題となっています。

―― 50頭未満の品種もあるのですか。想像以上に深刻な状況ですね。

金澤:馬の保存には飼養管理コストがかかるため、用途の拡大を図り、保存と活用を両輪で進める必要があります。観光、乗馬、ホースセラピー、学校教育、祭礼やイベントを含めた馬事伝統行事など、様々な工夫がなされています。

―― 文化財保存と同じ課題が、日本在来馬にもあるのですね。まずは「知る」ことから始めていきたいと思います。日本の昔の厩舎を実際に見られるところはあるのでしょうか? また、在来馬や和式馬術の見学・体験などができるところがもしありましたらお教えいただければと思います。

金澤:神奈川県の川崎市立日本民家園に、曲家と同じ内厩形式の民家が複数展示されています。また、彦根城跡では馬屋が一般公開されています。和式馬術の実演見学・体験などについては、ネット検索をしていただくといくつかの施設がヒットしますので、そちらをご覧いただければよろしいかと思います。

―― ありがとうございます。日本の馬文化について、理解が深まりました。

アイキャッチ画像:
重要文化財 『厩図屏風』室町時代・16世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBaseより加工使用(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10139?locale=ja)

取材協力:馬の博物館学芸員 金澤 真嗣氏

参考文献:
・『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
・『世界大百科事典』平凡社
・『国史大辞典』吉川弘文館