「吉原の気っ風、島原の器量、丸山の衣装」
これは、江戸時代の色街を表した言葉だ。
下川耿史著『遊郭をみる』によれば、「吉原の遊女は江戸っ子の気っ風を持ち、島原の遊女は客のどんな難題も丸く収める知恵者、これに対して丸山の遊女は贅沢な衣装持ち」という意味なのだとか。
なんとなくだが、言いたいコトは分かる。
「江戸っ子の気風」とは、物事にこだわらずさっぱりとして歯切れがよい。ただ、少々短気で喧嘩っ早いというイメージだろうか。吉原の遊女は、いわゆる「オトコマエ」な振る舞いが自然とできるタイプ。
一方、「どんな難題も丸く収める知恵者」とは、時に皮肉、時に婉曲な物言いでやんわりと客をコントロールするという印象だ。京の島原の遊女は、優雅に客をあしらいつつ問題を起こさないタイプ。
はて。
江戸の吉原、京都の島原。ここまでは分かる。
だが、一般的に「三大遊郭」といわれるのは、大坂の新町ではなかったか。
最後の「丸山」とは、一体、どこの遊郭なのか。
じつに江戸時代、「吉原」や「島原」と肩を並べるほど繁盛した遊郭があった。
遠く離れた西の端にあるせいか、名はあまり知られていない。
はて。西の端?
そんな行きづらい場所に……というネガティブな予想は大外れ。西の端とは、鎖国政策を打ち出した江戸時代に唯一、異国と接触することができた場所。つまり、貿易港として栄えた「長崎」の地である。その一角にあって、異国人のハートを鷲掴みにしたのが件の「丸山遊郭」なのだ。
今回は、この知られざる「丸山遊郭」を取り上げる。
いかにして丸山遊郭は形成され、発展することができたのか。今なお長崎市内に残る遊郭の面影を辿りながら、驚くべき丸山遊郭の実態をご紹介しよう。ちなみに、丸山の遊女たちがなぜ贅沢な衣装持ちと言われたのか、その理由も自ずと見えてくるはずだ。
さあ、あなたの知らない「丸山遊郭」の世界へ。
さすがに、いきなりディープな世界へと引きずり込むのは御法度。まずはソフトな入門編と思って、安心して読んで頂きたい。
長崎の丸山遊郭の全貌
元禄元(1688)年に刊行された井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』には、こんな一節がある。
「『長崎に丸山という所なくば、上がたの金銀、無事に帰宅すべし。爰(ここ)通いの商ひ、海上の気遣ひの外、何時をしらぬ戀風(こいかぜ)おそろし』
長崎に丸山という遊郭がなければ上方の金銀は無事に上方に帰ってくるだろう。長崎通いの商売は道中の波風ばかりでなく、いつ吹くともわからない恋の風がおそろしいという意味だが……」
(白石広子著「長崎出島の遊女 近代への窓を開いた女たち」より一部抜粋)
なるほど。
なんとも「丸山」とは恐ろしいところなのだろう。せっかく儲けた金銀があっという間に霧消する。これは狐や狸に化かされたという話ではない。飽くなき人間の欲望が金銀を消費させてしまうのだ。
上方の商人や異国の人たちを足止めし、気付けば散財してしまうという噂の「丸山遊郭」。
そんな「丸山」は、一体、どのようにして始まったのだろうか。
そもそも「遊郭」とは、幕府公認の遊女屋である。
逆をいえば、当時、無許可の売春行為である「隠売(いんばい)」は厳しく罰せられた。江戸時代の三大御法度とは「博打(ばくち)」「隠売」「切支丹(キリシタン)」。つまり、売春行為すべてが許されてはいなかったのである。
だからこそ、遊郭には外見から「幕府公認」と分かる明確な区別が必要であった。遊郭の「郭(かく)」という字は「くるわ」とも読むが、意味は「かこい、もしくはかこいを設けた一定の場所」を指す。幕府は一定区域を塀で囲むなどして、誰もが明らかに分かる「売春行為のできる場所」を設置した。遊郭は、公許の遊女町として限定された場所なのである。
だが、何もない「無」から、いきなり幕府の主導で遊郭を造るワケでもない。
最初は人が集まるところにポツンと遊女屋ができる。いわば自然発生的なものだ。これが磁石のように人々を引き寄せ、いつしか遊女屋が何軒も建ち並び、規模が大きくなっていく。さらにその場所めがけて多くの人が集まってくる。こうなると幕府の出番である。点在している遊女屋を一ヵ所に集めたり、人の流れをコントロールできるよう場所を移したりと、そこら一帯を整備するのである。あとは塀を築いて他の場所とは一線を画すと、特殊地区「遊郭」の出来上がりとなる。
丸山遊郭も、やはり他の遊郭と同様の流れで形成された。
元亀2(1571)年、ポルトガル船の入港により「長崎」は開港。ポルトガル商館や教会が造られ、その周辺に町が出来上がっていく。長崎に遊女を連れてきたとされる博多商人が「博多町」を開いたのもその頃だ。漁村だった町は次第に貿易都市へと姿を変え、その過程で遊女屋も1つまた1つと増えていく。
しばらくすると、港の周辺のみならず街道、さらには少し離れた地域にも遊女屋が出現。遊女屋を集めては場所を移すという整備がなされてきたが、寛永19(1642)年、いよいよ「吉原」や「島原」のような特殊地区を創設。1年前の火事で焼失した遊女屋の跡地に、市中の遊女屋を集めたのである。その一角を塀で囲み、範囲を明確にした。これが「丸山遊郭」の始まりとなった。
現在も生き続ける「丸山遊郭」の名残り
長崎市内には、今なお遊郭の面影が残る町並みがあるという。ここからは、赤瀬浩著『長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド』を参考に、実際に歩きながら当時の丸山遊郭の実態に話を進めよう。
向かった先はJR長崎駅から路面電車で10分ほど。降りた駅は「思案橋(しあんばし)」である。コチラの名前は駅だけでなく、通り名にも使われている。
周囲をきょろきょろと見渡したが、橋は見当たらない。それもそのはず。丸山遊郭のあった当時は「思案橋」という橋が架かっていたが、今はないという。ちなみに、橋の名前にまでなっているのだから、著名人が歴史的決断を思案したのだろうと思いきや、まさかの一般人のお悩み。それも「丸山遊郭に行こか戻ろか」と思案して橋をうろうろ。その様子から名前が付けられたというではないか。肩透かしにも程がある。
ただ、全国的にみれば、他のエリアの遊郭近くにも「思案橋」という地名が幾つか存在しているとか。遊郭へ行く決心がつかない男性諸君は、どうやら丸山だけではなかったようだ。逆に、この丸山遊郭の思案橋に限っては、シャム船を解体して橋を造成したため「シャム橋」という名が「思案橋」に転化したとの説もあるようだ。
ちなみに、橋はこれだけではない。
当時は丸山遊郭へと続く道に2つ橋が架かっていた。先ほどの「思案橋」の次に続く橋の名は「思切り橋」。思案したのち、ようやく遊郭へと行く決心ができたのだろう。お悩みは無事解決、鼻息荒く橋を渡る姿が容易に想像できる。
一方で、帰り道はというと、もちろん未練たらたら。帰り際に遊女との別れを惜しんで振り返ったという「見返り柳」もあったとか。ニュアンス的に儚い夢を見た男の悲哀がひしひしと伝わってくる。なお、某老舗カステラ屋の近くにある「見返り柳」は、明治時代に植えられたといわれている。
さて、「思案橋」と「思切り橋」を抜けると、ようやく丸山遊郭のお目見えだ。
丸山遊郭は「丸山町」と「寄合町」の2つの町からなる。市中に点在していた遊女屋を集めた際に、店の規模や格式などで遊女屋を2つの町に振り分けたようだ。ただ、外からみれば、両町あわせて周囲をぐるりと塀で囲まれ、1つの遊郭という体をなしていた。
とかく長崎は坂が多いが、丸山遊郭も斜面を切り崩して造られている。周囲には崖があって、遊郭自体は少し窪んだところに建っていたようだ。出入口には大門(二重門)があり、地元長崎では丸山の入口という意味から「山之口(やまのくち)」と呼ばれていたという。
実際に「山之口」と呼ばれた場所に立ってみる。
どれほどの男たちが恋焦がれ、この地を通ったことだろう。それにしても、今はなんと真正面に交番が見えるという驚くべき構図。ある意味ブラックジョークのようで面白い。左右上部には「丸山町」と「寄合町」の提灯が吊り下げられ、二重門はなくとも、当時の丸山遊郭の情景が目に浮かんでくる。
当時の敷地面積は丸山町が約4,500坪、寄合町が約5,100坪と、併せて約1万坪弱という広さだったとか。「吉原」が約2万767坪、「島原」が1万2,852坪だというから、ある意味コンパクトな遊郭のイメージだ。
ただ、「長崎」という都市全体からすると占有率は高いといえるだろう。というのも、当時の「長崎」の市中の広さは現在の公立小学校の校区1つ分。強烈に狭い。そこに最大6万人の人口を擁していたというから、半端ない過密ぶりである。
同じく「丸山遊郭」も最盛期には多くの遊女を抱えていた。具体的には、延宝年間(1673~1681)に丸山町の遊女屋は30軒、遊女は335人。寄合町の遊女屋は44軒、遊女は431人という数字が確認できる。それが、元禄5(1692)年の両町併せた遊女は1,443人と、10年余りの間に遊女の人数は倍増。1万坪足らずの敷地内に遊女たちがひしめき合っていたことになる。
どれほどの需要があったのか、その欲望は計り知れず。
そりゃ上方の金銀も一気に吹き飛ぶわなと納得したのは言うまでもない。
迷路のような丸山遊郭跡地
それでは丸山遊郭の跡地へ。
2つの提灯を見上げつつ、あっさりと「山之口」を通過。当時であれば感慨深いのかもしれないが、時代が違う。ベンチに腰掛ける人がちらほら見える平和な丸山公園を横目に、寄合町通りを進む。暫くすると玉泉神社が見えたので、まずは左に折れて「中の茶屋」を目指すことにした。
実際に丸山遊郭の跡地を歩くとその狭さに驚愕する。
目で見るだけの情報では、こうも実感できない。まさに遊女らは周囲を塀に囲まれ、囚われの身のような状態だったのだろう。出入口の厳しいチェックのせいで、遊郭外へ出かけることすら叶わない。ましてや、実家に一時帰宅など言語道断。がんじがらめの窮屈な生き方に、そして手狭な遊郭で大勢の遊女が暮らしていたコトに、思わずため息が……。おっと。すっかり書き損じてしまった。それは、あくまで「吉原」や「島原」での話。
じつはこの「丸山」、少し事情が違う。
丸山遊郭内を管理していたのは奉行所支配下の町役人。治安の維持以外は比較的緩かったとか。見物人の遊郭への出入りも、遊女が遊郭外へ出かけることも問題なし。普通に行き来ができたという。
これは「丸山遊郭」の本質が他の遊郭と違うからだろう。
鎖国時代、「長崎」は唯一の貿易港だった。だが、実態は「窓口」としての役割であり、貿易の場所を提供しているだけ。何もしなければ、貿易の利益である金銀は長崎を素通りしてしまう。いかに金銀を引き留め「長崎」の地に落とさせるか。いかに異国の商人から珍しい品々を譲り渡されるか。その白羽の矢が立ったのが「遊郭」であり「遊女」だった。彼女らは「長崎」の大事な商売道具の1つだったのである。
時代にもよるが、丸山遊郭の遊女は地元近郊の娘が多い。遊女屋と遊女奉公契約を結んでも「吉原」のように親元から完全に切り離されず、実家との行き来も可能。なんなら、手続きを踏めば客からの貰い物を実家に持って帰ることもできたとか。遊女のバックには親や近所などの「地元」がつく場合も見受けられ、年季が終われば実家に戻って結婚し、通常の生活を送る遊女もいた。そういう意味で、丸山遊郭は特異な環境だったといえるだろう。
さて、そろそろ「中の茶屋」が見えてきそうだ。
すれ違うのもやっとという細い道幅に不安を覚えつつ、ゆっくりと歩を進める。途中で何匹もの猫に遭遇しながら、ようやく「中の茶屋」らしき壁を発見。どうやら裏側に出てしまったようだ。蔦に覆われた壁に沿って正面まで歩く。細くて急カーブな道はまるで迷路のようである。これまた当時の丸山遊郭を彷彿とさせる佇まいなのだろう。
「中の茶屋」の入口は少し奥まったところにある。長崎市指定史跡の「中の茶屋」は、遊女屋の筑後屋が設けた待合茶屋だ。長崎奉行が市中を巡検する際には、休憩所として使用されることもあったとか。建物は復元されたものだが、江戸時代中期に築かれた庭園は残っている。
「中の茶屋」の庭園から隣を覗くと、下に鳥居が見えた。コチラが丸山町の氏神様「梅園身代り天満宮」である。町役人が男に襲われたものの傷はなく、代わりに家に祀っていた天神像が血を流して倒れていたとか。その後、菅原道真公が枕元に立ち天満宮を祀るように告げたとの言い伝えがある神社である。
梅園身代り天満宮の11月の例大祭「ながさき丸山華まつり」は、女性が主役の祭りとしても有名だ。ただ、華やかな「花魁道中(おいらんどうちゅう)」は昨年で最後となった。なんとも惜しい限りである。
当時、多くの遊女らに慕われたであろう天満宮の前を通り過ぎ、坂道を下る。突き当たりは丸山本通り。ちょうど「長崎検番」の横に出た。コチラはかつて遊郭だったという建物で、現在は、芸者さんたちの稽古やお座敷への手配など、諸々の付随業務を一手に引き受ける「検番」となっている。芸者さんの名が書かれた赤ちょうちんが吊るされ、タイミングが良ければ三味線などの音色も聞こえてくるとか。なお、九州各地に存在した「検番」も、今では福岡の博多検番と長崎検番だけ。ここにも時代の流れが押し寄せているというコトなのだろう。
今度は丸山本通りを丸山公園に向かって歩く。見えてきたのは史跡料亭の「花月」である。もとは「茶屋」で、丸山遊郭の老舗「引田屋(ひけたや)」の庭園に造られたのが始まりだ。もっとも、大正末年に本業の引田屋は廃業。それでも、引田屋の庭園と建物は残され、何より「花月」の名称も後世へと引き継がれた。
昭和35(1960)年に、長崎県の史跡に指定され、現在は史跡料亭として愛されている。
昼間に歩いたせいか、かつて丸山遊郭があったという特別な印象は薄い。
それよりも猫の多さに驚いた。歩く途中で7匹ほど見かけただろうか。そののんびりした姿が、余計に「遊郭」の跡地だということを忘れさせてくれる。
落ち着いた雰囲気が漂う町並みだが、夜になれば提灯が灯り、また違った景色が見えるのかもしれない。
ただ、そうだとしても。
当時の不夜城のような煌びやかさはないだろう。
「丸山遊郭」は歴史の上では確実に存在するが、今となっては「幻」のようなもの。
人間の欲望渦巻くエネルギッシュな空間は別格なのである。
現代人も唸る「延宝版長崎土産」の「ものはづけ」
今となっては幻の……とはいったもののである。
歴史的資料や書籍があれば、少しはその実態に近付くことができる。もちろん「吉原」などに比べると、「丸山遊郭」をメインで書いた本は少ない。ただ、あることはある。中でもおススメしたいのが「延宝版長崎土産」という変わったタイトルの本だ。
コチラの「延宝版長崎土産」の筆者の素性は不明。
というか、言い方は悪いが中二病のようなペンネームはある。「前悪性大臣嶋原金捨」。正直、正しい読み方さえ分からない。
本の中で、筆者は京都の生まれとなっている。幼少期に両親と死に別れ、この時代にまさかの兄弟もいないという天涯孤独の身。独身で嫁もおらず、遺産だけは使い切れないほど十二分にあるという設定だ。異世界転生のようなチート感丸出しである。まあ、だからこそ贅沢三昧の暮らしを続けることができ、各地の遊郭を片っ端から制覇することもできたのだろう。そんな遊郭制覇も、残すは西の端、長崎の丸山遊郭とあいなったようだ。
延宝7(1679)年、筆者は初めて「長崎」の地を踏んだという。その狭さ、その匂いに大いに驚きつつ、目的地の丸山遊郭へ直行した。彼の視点からすると、丸山遊郭は「博多」の遊女屋を手本としており、「吉原」「島原」とは勝手が違うなどと記している。やはり数々の遊郭を体験している猛者は違う。
ただ、この「延宝版長崎土産」の面白さは別にある。単なる筆者の感想で終わらず、とある人物との問答が展開されているのだ。問答のお相手は、長崎の清水寺の本堂脇にある、小さな稲荷社に籠っていた2人の老女(老尼とも)。80歳(70~80とも)近くで、素性はというと、なんと丸山遊郭の元遊女と、元遣り手(やりて)。ちなみに遣り手とは、遊女や遊女候補である「禿(かむろ)」らの世話、監督をする女性のことをいう。
いいねえ。年齢もそして経歴も申し分ない。
酸いも甘いも嚙み分けた彼女らとの問答には期待しかないのだが、いかんせん記事が長くなり過ぎる。ここは、ほんの触り程度をご紹介するにとどめよう。
どれもこれも秀逸だが、1つ選ぶとするなら。
「ものはづけ」だろう。
「ものはづけ」とは、今でいうならば「大喜利」のようなもの。「……のものは」という題に対して付句をする。寛保年間(1741~1744)頃から流行った遊戯的な俳諧だ。
それでは早速、ダイソンイチ押しの「ものはづけ」から。
「案に相違のもの」は……。
「案に相違のもの
一、いせ屋のよし川か身うけしたる
一、すい成男の心
一、貨物に成て猶唐人阿蘭陀舟多く来る事」
(高宮栄斎、丹羽漢吉共著「長崎文献叢書 第2集 第4巻」より一部抜粋)
「案に相違のもの」
あらま、ちょっと違うじゃない……「予想に反しての出来事」とでも言おうか。
最初に挙がっているのが、いせ屋の「よし川」の身請け。遊女の名前だろう。恐らく売れっ子ではなかったため、身請けされたことに驚いているようだ。失礼な話だが、個人的には下馬評を覆した「よし川」に拍手を送りたい。
次に、うんうんと頷きたくなるのが「すいな男の心」。「すい」とは「粋」と書く。この「粋」が正直、曲者だ。「粋」だからこそ、予測不可能。通常とは真逆のありえないオチも、粋な男ならではの論理で「確かに確かに」と頷かざるを得ない。百戦錬磨の老女でもやはり粋な男の心を操縦するのは難しかったようだ。
そして、最後に挙げられたのが、多くの唐船やオランダ船の来航。これは時代背景の理解が必要だ。じつは、延宝年間の直前の寛文12(1672)年、「貨物市法(市法貨物仕法とも)」が制定された。それまでは双方の相談で価格を決める自由貿易であったが、そのルールを変更。日本の金銀銅の海外流出を防ぐため、輸入品価格の決定権を日本側にしたのである。だが、その影響もなく、意外に多く唐やオランダの船が来航しているとの意味合いだろう。
さらにもう1つ。
「聞てわろきもの」は……。
「聞てわろきもの
一、我所に来る女の道寄りしたると云
一、つゝけて逢たる女の子のとまりたると云たる
一、おもふさま買物したる後入船の沙汰
一、ぴりゝと云くすりの名」
(高宮栄斎、丹羽漢吉共著「長崎文献叢書 第2集 第4巻」より一部抜粋)
その事実を聞けば、イヤな気持ちになるというもの。
ここは、簡単なコメントをサラッと一言だけ。
一、自分のところに来る前に、他所の女のところへ寄り道してたとは、そりゃイヤな気持ちになる。というか、そもそも精力絶倫過ぎるだろう。
一、「子のとまりたる」とは懐妊という意味。通い続けた遊女に告げられた時の男の気持ちといったら……今は時代が時代なので、ノーコメントで。
一、思う存分買い物したあとに、貿易船の来航を知った時の気持ち。いいモノがあるとは限らないのに、どうして損した気分になるのだろうか。行動経済学の分野なのかもしれない。
一、「びりり」ってどうなんだ。薬のネーミングセンスが秀逸で、ただただ吹いてしまった。
最後は駆け足となってしまった「延宝版長崎土産」。
「ものはづけ」の続きはもちろん「遊女ランキング」など、興味深い内容はさらに続く。
次の機会があれば、さらなるディープな丸山遊郭の世界として、是非ともご紹介したい。
最後に。
冒頭の「丸山の遊女は贅沢な衣装持ち」に戻ろう。
なぜ丸山遊郭の遊女らは贅沢な衣装を持っていたのか。
これも、他の遊郭とは異なる特徴であろう。丸山遊郭の客には、土地柄、異国の商人らが多く含まれていた。彼らはお気に入りの遊女に異国の品々、例えば豪華な衣装などを贈ったという。必然的に丸山の遊女は「贅沢な衣装持ち」となるというワケだ。
ただ、この丸山遊郭の盛況ぶりも、他の港が開かれるまで。
神戸や横浜などの開港で、長崎は対外貿易の旨味を独占することはできなくなった。それと共に、丸山遊郭も衰退の一途を辿る。
だが、これも少し先の話。
丸山遊郭の話は、まだまだ尽きないのである。
参考文献
高宮栄斎、丹羽漢吉共著「長崎文献叢書 第2集 第4巻」 長崎文献社 1976年11月
丹羽漢吉著 「長崎おもしろ草 第2巻 史談切り抜き帳」 長崎文献社 1977年4月
白石広子著 「長崎出島の遊女 近代への窓を開いた女たち」勉誠出版 2005年4月
唐権著 「海を越えた艶ごと 日中文化交流秘史」 新曜社 2005年4月
下川耿史著 「遊郭をみる」 筑摩書房 2010年3月
章潔著 「長崎の祭りとまちづくり」 長崎文献社 2014年4月
永井義男著 「吉原の舞台裏のウラ 遊女たちの私生活は実は〇〇だった?」 朝日新聞出版 2020年8月
高木まどか著 「近世の遊郭と客 遊女評判記にみる作法と慣習」 吉川弘文館 2021年1月
赤瀬浩著 「長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド」 株式会社講談社 2021年8月