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2024.12.18

『逃げ上手の若君』に登場した極悪人!? 五大院宗繁の実像と謎に迫る

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アニメ『逃げ上手の若君』は最終回を迎えたが、2期制作が決定したので、解説も続けるぞ! 今回は五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)!

序盤にのみ登場したが、インパクトが強かったので印象に残っている者も多かろう! 漫画・アニメでは北条時行(ほうじょう ときゆき)の兄・邦時(くにとき)の伯父として登場し、邦時の味方のフリをして足利方に邦時を売った極悪人として登場。作中でも「クズ」だの「ゲス」だの「鬼畜」だの散々な言われようだった。

では実際の五大院宗繁とはどんな人物だったのだろうか?

太平記で描かれた五大院宗繁

宗繁は、鎌倉幕府滅亡~南北朝時代を描いた軍記物語『太平記(たいへいき)』に登場する人物だ。邦時の母の兄にあたる。ちなみに『太平記』では邦時と時行は同母兄弟となっているので、時行にとっても伯父である。

鎌倉が襲われた時、邦時・時行兄弟の父である北条高時(ほうじょう たかとき)は一族とともに自害したが、高時は嫡男の邦時を義兄である宗繁に「いかなる手段を使ってでも守り抜いてくれ」と託した。

そして高時の弟・泰家(やすいえ)は自害を勧められた時に、北条の再興を誓い生き延びる旨を語る。その際に「万寿(まんじゅ=邦時の幼名)のことは、五大院宗繁に託したので安心している」と言っている。

このことから北条家からかなり信頼されていた人物だったと言える。

しかし『逃げ上手の若君』でも描かれた通り、宗繁は褒賞目当てに邦時を敵に差し出してしまう。邦時はわずか9歳で処刑されてしまった。

その後、宗繁は『逃げ上手の若君』では時行によって討ち取られたが、『太平記』では人々に不忠者と後ろ指をさされ、鎌倉を襲った軍の大将である新田義貞(にった よしさだ)にも悪印象を持たれて処刑されそうになった。

そして逃亡を重ねるも誰からも助けを得られず、最期は風の噂で「餓死したらしい」と語られるのみだった。

五大院宗繁の罪

邦時を売ったことがここまでされるようなことか、と問われれば、まぁそうなるな……って感じだ。少なくとも現代の価値観でも当時の価値観でも「よくやった」と絶賛されることではないだろう。

鎌倉滅亡の約100年前の承久の乱を描いた軍記物語『承久記』でも、鎌倉方に投降した者が「いちど裏切ってこちら方についたのなら、また裏切って敵に寝返るかもしれない」としてそのまま処刑されたという話がある。

ましてや守るべきものを差し出した者がどう思われるかは、想像に難くなかろうというものだ。

『太平記』巻十一には、幕府滅亡後に北条氏残党の捜索が行われ、北条氏を捕らえた者は恩賞に預かり、北条氏を匿った者は誅殺されたとある。そしてこの状況を見た五大院は、「果報の尽き果てた人を助けて死ぬよりは、所領の一所でも安堵してもらった方が良い」と考えた。

物語の記述はアッサリではあるが、幼い甥っ子と自分の命を天秤にかける……想像しただけでストレスだな。自分の命は大事だが、かといって幼い甥っ子を平気で差し出せるかと言えば、そんなことはなかろう。

そして五大院も邦時を差し出せば、どんな誹りをうけるかを想像しなかったわけではあるまい。生き延びるためにワンチャン賭けたのかもしれない。

実在の五大院宗繁とは?

しかし、この五大院宗繁の顛末を語るのは『太平記』であるということがポイントだ。太平記は軍記物語。あくまで創作なのだ。現代でも大河ドラマなどで大胆なアレンジが加えられるのは、あるあるだな。

そして実は「五大院宗繁」という名前の人物は、『太平記』の中でしか見られない。

北条時行の祖父にあたる貞時(さだとき)の13回忌の様子を記した『北條貞時十三年忌供養記』には「高繁(たかしげ)」という名で残っている。

考えられるパターンは4つ。

1. 『太平記』の名前が間違っている

これは結構よくあることで、大昔の物語に編集者なんていないから、誤字脱字はそのままお出しされてしまう。しかも印刷技術なんてない時代なんて、手書きで模写なんだからその時点でまた誤字脱字が出てしまうのは、もはや仕方のないことだろう。

「宗繁」と「高繁」……ぼーっとしてると同じような字に見えなくもない。

それに人名だとよく似た名前の人物に引きずられて間違ってしまうパターンもよくあることだ。先ほど紹介した『承久記』でも、山田重忠(やまだ しげただ)という人物がいるのだが、山田重忠殿の祖父である重貞(しげさだ)という人物の方が京都で有名だったため、始終「山田重貞」と書かれていたりする。

2. 記録の方の名前が間違っている

これもわりとよくあるパターンで、他にも資料のある人物だったら、年代や官位などで「この人のことを言っているんだな」とおおよその事はわかる。

しかし唯一の記録がもし間違っていたら……間違った名前で歴史に名前が残ることになってしまう。ちょっと考えてみると恐ろしいな……。人の名前は間違えないようにしたい。

3. 宗繁と高繁は親族である

高繁は「五大院右衛門太郎高繁」と書かれているが、宗繁は「五大院右衛門尉宗繁」と書かれている。五大院で右衛門だから同一人物……とは限らない。

「五大院右衛門太郎高繁」は「五大院右衛門の太郎(長男)である高繁」と読めるので、素直に考えれば「五大院右衛門」と親子関係にある。

ただし、その「五大院右衛門」が本当に宗繁のことなのかはわからない。

「五大院右衛門太郎高繁」の他に「五大院七郎」、「五大院左衛門入道」という人物も『円覚寺文書(えんがくじもんじょ)』に記載があるが、宗繁はそれらの人物と兄弟なのか親子なのかただの親戚関係なのか……それすらも謎なのだ。

4. 五大院宗繁とは『太平記』のオリキャラである

これも否定はできないパターンだ。『平家物語』に登場する巴御前(ともえごぜん)も実在した可能性は低い人物だし、源義経(みなもとの よしつね)殿の従者として有名な弁慶(べんけい)だって、そのエピソードはまるっと創作だ。

もし「五大院宗繁」が架空の人物だとしたら、その意図は一体なんだったのだろうか。それは邦時が敵に捕まった悲劇をより強調したかったのかもしれない。

あるいは実在した人物が似たようなことをしたが、その醜聞が広がるのを憚ってあえて実在しない人物に仮託したのかもしれない。

そもそも、五大院氏が邦時の母の実家であること自体『太平記』にしか書かれていないことであるから、疑えばキリがない。だが無名の五大院氏のエピソードを物語として出すのだから、まぁ事実といえるのかもしれない。

五大院宗繁という人物

「かもしれない」「かもしれない」で申し訳ないが、実際の五大院宗繁とはどんな人物だった問われれば、「わからない」としか答えようがない。宗繁という名前の人物が実在したのかもわからないのだから。

もし『太平記』に書かれたことが事実だとして、幼い甥っ子を差し出す事を平気でできると思いたくはないのが人情というもの。本当に保身や利益のためだったのか、やむを得ない事情があったのか。

いずれにせよ、そこに葛藤があったことは想像に難くはない。資料が全くない人物こそ、いろんな角度から想像したいものである。

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参考文献:
鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)
『日本人名大辞典』講談社