調べてみると、僕の出身・在住の地である名古屋に、今も受け継がれている剣術流派があると知りました。その名は柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)。僕が今まで親しんできた創作物の中にも、しばしば登場した著名な流派です。そこで、今回は、驚きと高揚感を胸に抱きながら、柳生新陰流の第二十二世宗家・柳生耕一(やぎゅうこういち)さんにお話を伺ってきました。さらには稽古にも参加をさせていただくという、なんとも貴重でありがたい体験も! 耳で聞き、肌で感じたあれこれをたっぷりとお伝えします。
流派のはじまりは約450年前、徳川家康にその腕を認められる
柳生新陰流の歴史は元を辿ると、およそ450年前までさかのぼります。流祖は上州(現在の群馬県)に生まれ、さまざまな武術を修め、剣術にも精通していたといわれる上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)です。彼が、“愛洲陰流(あいすかげりゅう)”を学び、そこに工夫を凝らし、興したのが“新陰流”で、その新陰流を信綱から伝授され、印可状を授かり、のちに宗家となったのが大和国(現在の奈良県)出身の柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねとし)という人物でした。石舟斎が五男である柳生宗矩(むねのり)と共に、徳川家康に新陰流兵法を披露し、気に入られ、その後、関ヶ原の戦いにおいて、宗矩は徳川家に仕えることになります。そうしたことから、徳川家とのつながりが始まったのです。
九男の尾張藩主徳川義直の兵法師範となり、尾張名古屋へ
さらに、石舟斎の孫にあたる三世宗家の柳生利厳(やぎゅうとしとし)が、初代尾張藩主である徳川義直の兵法師範となり、尾張名古屋に移ってきたことで、今日まで名古屋に新陰流が継承されることになったのです。僕はこの深い歴史に改めて驚きました。
利厳以降も、尾張藩主への指南役を代々務めた柳生家。柳生新陰流の宗家は、今回お話を伺った耕一さん含め歴代22人なのですが、そのうち7人は尾張藩主。265年に渡る江戸年間は、柳生家の当主と時の殿様が交互に担当するような形で宗家のバトンが繋がれたのです。尾張徳川家と柳生家の関係の深さが見て取れますよね。
ちなみに、戦時中に空襲で焼けてしまったものの、現在の名古屋市営地下鉄・伏見駅から程近い所に、道場付きの柳生家のお屋敷があったそうです。現在はオフィスビルが立ち並ぶエリアですが、歴史を知った上で歩くとなんだか背筋が伸びそうな気がします。
臨機応変の剣術、柳生新陰流
柳生新陰流の特徴は様々あるのですが、僕の心にもっとも深く残ったのは、その根幹となる精神性でした。それらは時代を超えて、今を生きる我々もハッとさせられるようなものだと感じます。
そもそも流祖・信綱は、陰流を学んだ後、“転(まろばし)”という考えに思い至り、新陰流を拓(ひら)いたとされます。“転”とは何かというと、簡単に言えば『状況に応じて柔軟かつ的確に応じる』といったことです。そしてその“転”を使うために重要なのが、“無形の位(むけいのくらい)”という心身ともに特定の構えに固執していない状態のことだそうです。
「無形というのは形がない。つまり、まっさらの状態で相手に臨み、相手の力を利用して勝つこと。『絶対にこの技で倒すんだ』ということではないんです。先入観を持って斬り合いの場に臨むと、相手のことしか見えなくなりますが、相手に隙を与え、しめたと思わせ、斬ってくるところに対応する。それが“無形の位”なんです」と耕一さん。
臨機応変の刀法といったところでしょうか。自分なりにしっかりとしたプランを固めてしまうと、そこだけに執着してしまいがちなのは、現代でも同じように思います。一つのことにとらわれすぎると、臨機応変という概念からは程遠い精神状態になってしまうもので……。
僕もトークイベントなどに出演する際、本番前に「これを言ったら会場が盛り上がるぞ」などと思いついてしまうと、もうそれを言わずにはいられないような心持ちになってしまいます。しかし事前に想定したことをそのまま言っても、思いっきり空振りに終わってしまうケースも多いのです。実際には、お客さんの層やトークの展開、会場の温度感などを観ながらコメントを導き出す方が良いわけで……。これは刀を持たぬ我々にも、とにもかくにも役立つ考え方だなと感じました。
努力の仕方、成長の指針ここにあり!
もう一つ僕が感銘を受けたのが、前述の三世宗家・利厳が残したとされる“三磨の位(さんまのくらい)”という考え方です。
「先生がこうやるんだよ、と見せて、それを弟子は千回 一万回と稽古する。けれども、自分は先生と体が違う。自分が表すにはどうしたらいいかということを考え、そこで工夫しないといけない。そういう自分なりの工夫をしながら、繰り返す。一見遠回りに見えるけれど、これがスパイラル状に向上していく上達法です」と耕一さんが解説してくれました。
つまり習って、稽古をして、工夫をするという3つの要素を一体として、自らを高めていくということです。師の教えにはひたすら愚直に従うべし、ではなく、各個人の最適解を探すための工夫をしなさいということ。そういった柔軟さは、先述の“転”からも一貫する柳生新陰流らしさと言えるのかもしれません。安易に工夫するのではなく、その前提として、地道な稽古があるからこそ、確かな成長へとつながる“極意”なのだと感じました。いやはや、ためになります……!
こういった柳生新陰流の精神性についてのお話を深く頷きながら聞いていると、それらが長い年月に渡って、継承されてきたという事実の凄みに胸が熱くなりました。きっとそれは簡単なことではなく、守り受け継ぐという強い意志があってこそだと思うのです。
いざ稽古! 木刀でも竹刀でもない謎の剣
柳生新陰流の歴史と精神性を知り、いろいろと腑に落ちた後、いよいよ稽古がスタート! まず驚いたのは使用する道具です。木刀を使うものだと勝手に想像していたのですが、手渡されたのは初めて見る形の道具。袋竹刀と呼ばれるその剣は、竹を八つに割ったものを皮の袋に入れたものでした。これは流祖の信綱が考案したといわれています。
木刀に比べるとソフトな質感であるため、従来は危険ゆえにできなかった“相手に本気で打ち込む”稽古が可能になった画期的なものだそうです。実戦では当然、寸止めというわけにはいかなかったであろう戦国の世。しっかりと打ち込める稽古が非常に効果的だったことは想像に難くありません。とはいえ諸先輩方の激しい打ち込みの稽古を見ていたら、とてつもない音と共に、振動が伝わらんばかりの勢い。痛くないというわけでは、きっとないのだろうなと思いました。いや、むしろ結構痛いのではないでしょうか。諸先輩方のタフネスに戦慄が走りました……!
心を無にする……口で言うより遥かに難しい!
さて、そんな袋竹刀を握り、最初に教わるのが精神性の話でも登場した“無形の位”です。刀を持った手をだらりと下げて立つ。まさに構えなき「構え」というべきニュートラルポジション。そんな“無形の位”を起点として、“雷刀(らいとう)”と呼ばれる上段の構えをとり、刀の振り方を教わりますが、どうにもぎこちなかったり、余計な力みが入ってしまったりと大苦戦。教わったことを頭の中で反芻しながら、難しい顔で挑戦を繰り返していると、僕の指導を担当してくださったアメリカ人のジョシュさんからこんな言葉をかけていただきました。彼は剣術歴20年以上になるそうです。
「分からないことが多くて不安だったり、迷いがあったりするのは当然だけど、“無形の位”に入ったら、まず心も無にする。良し悪しは後からついてくるもので、その時に反省をすればいい」とジョシュさんにやさしく諭されました。
古の人々に思いを巡らせ、心身ともに磨き上げる剣術に思う
そもそも柳生新陰流は臨機応変の剣術。心身ともに“無形の位”であるからこそ、柔軟に立ち回れるという考え方が基本理念であり、あれこれ考えすぎて、頭を一杯にさせて振るう剣ではないのです。そんな大事なことを、刀の振り方に夢中になってすっかり忘れてしまっていた自分に、心の中で一喝。そこからは最大限自分なりに無を意識して刀を振るうこと90分。ずぶの素人である僕も、柳生新陰流の考え方と理想形がいかに洗練されたものであるかを、少しずつ肌で感じるようになってきました。
さらに当時は、真剣を使ってのまさに命をかけたやり取り。その状況下で、稽古を積んだとはいえ、真に“無形の位”でいられるだろうか、“転”を忘れずにいられるだろうかと、その道のりが遥か遠いものであることも稽古を通じて実感し、約450年の昔に思いを巡らせるきっかけにもなりました。それらを杞憂と呼べるほどに心身ともに磨き上げるのが剣術であり、武士道を修めるということなのかもしれません。すなわち、心身ともに“無形の位”から、“転”への考え方でもって、状況に応じた最適解を自然に出していくことができるなら……、それはとてつもない強さになるであろうということを、少しばかりですが実感できたのです。剣術はただ闘争の技術にあらずだなあ……などと想像を膨らませた僕なのでした。
本田さんの体験の様子を、動画でもぜひご覧ください!
取材を終えて
戦が絶えない時代に誕生した柳生新陰流。そこには時が流れ、平和な時代に生きる我々にとっても通じる金言となるような教えが、たくさん残されていました。それだけ普遍的であり、また当時としては革新的なアプローチであったとも言えるのかもしれません。実際に稽古に参加してみたからこそ、見えるものも多くありますが、その精神性や考え方について調べてみるだけでも、人生のヒントを得られる可能性は大いにあるのではないかと思います。
僕の今月のスローガンは、【いつも心に“転”と“無形の位”】!頑張ります……!
柳生耕一平厳信(やぎゅうこういちたいらのとしのぶ) プロフィール
柳生新陰流兵法の正伝および伝統文化の保存、継承を行う。尾張藩以来、名古屋市中区錦にあった屋敷内道場は戦災により屋敷と共に全焼失したが、昭和30年に第二十世宗家柳生厳長師範により柳生会を設立。当流の活動を本格的に名古屋地区を中心に再開。著書に『負けない奥義』、公演活動なども行う。
大阪・関西万博古武道大会 大阪・関西万博古武道大会にて、日本古武道振興会50流派の一つとして弊流も演武奉納。
日時:令和7年9月28日(日)9時30分~17時
場所:大阪・関西万博会場(夢洲)/フェスティバル・ステーション(12:17~12:24)イタリア館前広場(13:27~13:34)
柳生新陰流兵法公式サイト
Photo/松井なおみ
取材・構成/黒田直美
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