「鶏」
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伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)風の鶏を描いた。ポイントは、なんといっても勢いよく伸びやかな尾羽だ。
筆に濃い墨をつける。墨をつけすぎると、和紙の上で滲んで広がってしまうので、ほどよい量を。
そして邪念を持たず、心を程よく空っぽにして、筆を動かす。動かすというより、動かされているような感じに近い。どこでどう筆を曲げようとか、こういう曲線にしようとか考えると上手くいかない。作為的になってしまうのだ。そうではなく、筆が行きたいところに、動かされるような感覚だ。
そうして一本の線ができる。
あとでまったく同じ形の線を引こうとしても、二度とできない。なぜなら、まったく同じ量の墨をつけ、同じ筆圧で、筆を動かす速さ、方向、角度も同じ…と、すべての要素を再現することは不可能だから。
油絵との決定的な違い
油絵は、絵の具を塗ったあとでも、それが乾けば、塗り重ねたり、剝ぎ取ったりできる。そうすれば、前に描いた線をいわば消すことができるのだ。日本画の岩絵具も、厚手の和紙に描いたあと、描き直すために洗い流すことができる。
でも水墨画は、それができない。一本一本の線が、取り返しのつかない一発勝負なのだ。それが、水墨画の歯がゆさだが、水墨画だけが生み出す美しさの源泉でもある。
そうした美しい線は、描く人の気持ちが整っていないと生まれない。
絵が放つ“気韻生動”
「気韻生動(きいんせいどう)」という言葉に、耳なじみのあるかたもいるかもしれない。
この言葉は、古代中国、南斉(479-502年)の謝赫(しゃかく)が記した、絵画表現において大切な6つの規範「画の六法」の一つだ。「気」とは、万物を成り立たせている根源的なエネルギーのことであり、「気韻生動」とは、絵にも「気」が生き生きと感じられねばならない、という教えである。
絵にはおのずと、画家が持つ「気」が表現されるのだ。高い精神性からは清らかな線が生まれ、自由な心境からはのびやかな線が生まれる。単に形を写し取るのではなく、そうした形を超えた表現こそが、水墨画の魅力である。

若冲の精神性を想像する
伊藤若冲は鶏の絵の名手だ。尾羽の勢いの鮮やかさは、一度見たら忘れがたい。あなたはどんな精神性を感じるだろうか。
若冲は禅宗に傾倒し、非常に信心深かった。ある時、雀が売られているのを見て、焼き鳥にされてはかわいそうだと、数十羽を買い取って家の庭に放したと伝わるほどだ。30幅におよぶ細密極まる花鳥画の連作「動植綵絵(どうしょくさいえ)」を約10年かけて描き、「釈迦三尊像」3幅とともに、京都の相国寺(しょうこくじ)に寄進した。
庭に数十羽の鶏を飼ってスケッチした話も有名だ。とはいえ描いた鶏は、単なる見た目の再現ではない。若冲の頭のなかには、鶏の姿や動きが完璧にインプットされていた。だからこそ、羽毛や色合い、迫力あるポーズなど自在に誇張し、自らの精神性を土台に、鶏の生命力を本質から捉えることができたのだろう。
さあ、まだ涼しい早朝に窓を開け、好きな音楽を聴きながら墨をすり、心を平らかに筆をとろう。

