貸本屋では本屋で購入するよりもはるかに安く本をレンタルでき、江戸時代の人々の旺盛な読書欲を満たしていたのである。
全国各地に存在した貸本屋の中でも特に有名なのは、尾張名古屋にあった「大惣(だいそう)」である。蔵書数日本一とされる貸本屋で、たいへん多くの顧客を持ち、うわさを聞いてはるばる江戸から訪れる著名人もいた。
だがその実態は本屋ほどには知られていないようだ。
本の流通拠点として出版文化の発展に大きく貢献した貸本屋の真相に迫る。
(アイキャッチ画像は、山田秋衛「大惣貸本店図」名古屋市博物館蔵)
曲亭馬琴も訪れた貸本屋「大惣」
馬琴が書いた「大惣」のセールスコピー
貸本屋「大惣(大野屋惣八:おおのやそうはちの略称)」の創業は明和4(1767)年。初代は愛知県知多郡の出身で、元禄時代に名古屋に出て酒屋を開業した。初代、2代目と無類の本好きで知られ、薬屋を兼業しながら好事家(こうずか)たちの文化サロン的役割を担っていた。貸本屋を開業したのは3代目である。とにかく、本が好きで好きでたまらない家系だったらしい。
「大惣」を訪れた客で最も知られているのは、『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴だろう。
馬琴が名古屋を訪れたのは享和2(1802)年で当時36歳。生涯で唯一の京・大坂への旅の途上だった。この時のことは馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』という旅行エッセイに書かれ、「名古屋の評判」の中で「書肆は風月堂、永楽屋、貸本屋は胡月堂(こげつどう)」と激賞しているくだりがある。湖月堂とは貸本屋「大惣」の屋号であった。
馬琴が名古屋を訪れた時、初代・惣八は存命だった。門人であった神谷剛甫(ごうほ)と共に「大惣」を訪れた馬琴は、頼まれて「伏稟(ふくひん)」と呼ばれる店のセールスコピーを書いている。よほど感じ入るところがあったのだろう。馬琴がセールスコピーを書いた書額は明治まで店に掛けてあったそうである。
伏稟
古人、琴書酒の三を以(もって)、友とす。しかれとも酒は下戸にめいわくさせ、琴はゆるしに黄金をしてやらる。只(ただ)、書のミ貴賤(きせん)となく、友とするに堪たりといへとも、又、書籍にも往々得かたきありて。高價(こうか)に苦しむものあり。夫(それ)、一月雇の女房、後はらをやます。十日切のかし本、紙魚(しみ)のわつらひなし。尤かりて損のゆかさるもの、ゆふ立の疵(ひさし)、雨の日のかし本。
代書肆 湖月堂主人
江戸 曲亭馬琴識
貸本を琴・書・酒と対比させ、書は琴や酒にくらべれば最も友とするに値するが、高価な本はなかなか手に入らない。しかし、貸本は夕立の時の庇同様、借りて損はないと述べている。
当時の馬琴は超売れっ子作家というわけではなかった。しかし流行作家・山東京伝の愛弟子で絶賛売り出し中。「大惣」では馬琴に蔵書を見せ、彼が探している古書を探してやったりもしたようだ。後に『南総里見八犬伝』を書き、超ベストセラー作家となった馬琴の足跡は、名古屋にも遺っているのである。

貸本屋の店先は文化サロン
「大惣」には名古屋や近郷近在の文化人たちが数多く出入りし、店先はまさに文化サロンの様相を呈していたらしい。客から自筆の著書を購入することもあったようだ。また馬琴だけでなく、十返舎一九、為永春水、大田蜀山人(おおた しょくさんじん)なども訪れたという。彼らは東海道を往来する途中で「大惣」に立ち寄ったらしい。
「大惣」の見料(本のレンタル料金)は10日間を1単位として、草紙や紙類は10冊で5∼8分(ぶ)程度だった。『貸本屋大惣の研究』(安藤直太朗著)によれば、創業当初、大惣は決まった見料を取っておらず、無料か志程度、あるいは物々交換だったという。見料をお金でもらうようになったのは弘化2(1845)年からだった。もともと趣味で始めた貸本屋で、薬屋と酒屋を兼業していたこともあり、そちらで店の経営は成り立っていたのだろう。

「『大惣』は私のお師匠様」と書いた坪内逍遥
明治以降、「大惣」に出入りしていた文化人の中で、特筆すべき人物がいる。後に日本の近代文学や演劇などに大きな影響を与えた坪内逍遥(つぼうち しょうよう 本名は坪内雄蔵)だ。
逍遥は岐阜県美濃加茂市に生まれたが、明治維新と共に尾張藩士であった父について一家で実家のあった名古屋に移った。芝居好きだった母の影響を受けて11歳の頃から「大惣」に足繁く通ったそうである。主人には書庫への直接出入りを許されていたらしい。
大惣は、先方は無意識であり、不言不説であつたのだが、私に取つては、多少お師匠様格の働きをしてゐたといつてよい。私の甚だ粗末な文学的素養は、あの店の雑著から得たのであつて、誰れに教はつたのでもなく、指導されたのでもないのだから、大惣は私の芸術的心作用の唯一の本地即ち『心の故郷』であつたといへる。
(坪内逍遥『少年時に観た歌舞伎の追憶』より)


「大惣」が蔵書数日本一といわれるまでになった理由
江戸時代から続く多くの本屋や貸本屋が明治維新以降に閉業を余儀なくされるなか、「大惣」は明治末年まで続いた。
ところで、なぜ「大惣」は蔵書数日本一とまでいわれる貸本屋になれたのだろうか。
実は「大惣」には「一度手に入れた本は絶対に売らない」という初代から続く家憲(一家の掟)があった。蔵書は小説や演劇関係から人文書に至るまで多岐に渡り、明治31(1898)年ごろに整理が行われた際には、その数2万冊を超えていたという。
また「大惣」は貸本だけでなく、出版も行っていた。『琉球人行列図』や『琉球人来朝行列官職姓名録』などが知られている。これらは江戸時代に琉球(現在の沖縄)から江戸に派遣された使節団の行列の様子を描いたもので、一種のガイドブックのようなものであった。
貸本屋が果たした役割とは?
行商スタイルでマーケティング
文化5(1808)年、尾張には62軒、江戸には656人、大坂には約300人の貸本屋がいたという。これは同時代の本屋の数に比べればはるかに多い数字だ。しかも貸本屋1軒につき、170軒前後の得意先を持っていたと考えられることから、貸本のニーズがいかに高かったかがよくわかる。一般庶民にとって貸本屋は本屋よりもはるかに利用率が高く、卑近な存在だった。
彼らは店にいて客が来るのを待っているのではない。貸本屋の営業スタイルは行商であった。本の入った大きな風呂敷包みを背負い、得意先を周るのである。本を届けるついでに世間話などをしながら客の好みや新たな注文を聞き出す。現代でいうならマーケティングである。洋書と違って和紙でできた和書は軽くて持ち運びにも便利だった。
山東京伝の「雙蝶記」に見る板元と読者、貸本屋の関係
貸本屋の得意先は一般の町家から遊女屋、果ては武家屋敷まで多岐に渡っていた。江戸時代の貸本屋は、庶民にとって有料図書館のようなものだった。
貸本屋がこれほどまでに幅をきかせていたのでは、本屋はおもしろくなかったのではないだろうか。
ところがそうでもなかったようだ。
貸本屋を必要としたのは読者層だけではない。板元や書き手も貸本屋の評判を気にしていた。何と言っても貸本屋は読者の好みをガッツリ把握している。貸本屋に人気のある本は読者にも人気がある。しかし、人気のない本は読者にも人気がない。すなわち売れない本ということになる。当時の本屋は本を販売するだけでなく板元でもあったので、貸本屋の動向を商売の参考にしていたのである。作家にとっても貸本屋はとても大事な存在であった。「〇〇が書く本おもしろいじゃん」といった調子で貸本屋の間で評価が高く、本格的に作家デビューした人間もいた。
当時の貸本屋は本の流通拠点であり、版元と読者を結びつける大切な役割を担っていたのである。※参考 『江戸時代のTSUTAYA? 「貸本屋」のレンタルシステムがすごかった!』
山東京伝は文化10(1813)年に発刊された『雙蝶記(そうちょうき)』という本の自序の中で、板元と読者、貸本屋の関係について次のように述べている。
板元(はんもと)は親里(おやざと)なり、讀(よん)で下(くだ)さる御方様(おんかたさま)は婿君(むこぎみ)なり、貸本屋様(かしほんやさま)はお媒人(なこうど)なり。
すなわち本は花嫁であり、少々欠点はあってもなこうどである貸本屋のとりなしによって良い花婿(読者)にめぐりあうことができると述べており、板元にとっても貸本屋がいかに重要な存在であるかということを、おもしろおかしく述べている。当時の出版業界を的確に言い表していてとても興味深い。

幕府の厳しい出版統制の強化に裏で対抗した貸本屋
貸本屋では印刷された本ばかりでなく、書本(かきほん)と呼ばれる筆写された本を大量に抱えて貸し出していた。書本の中には発禁処分となった禁書や秘書と呼ばれる本も含まれていた。禁書の中には幕府に対する政治批判や百姓一揆など、政治の実態を明らかにした文献なども多かった。
『金氏苛政録(きんしかせいろく)』という本がある。これは美濃郡上藩の藩主であった金森氏の圧政に耐えかねた百姓たちが、宝暦年間に起こした郡上一揆の顛末を記したものだ。藩主は改易、幕府の高官も処罰され、百姓側でも多大な犠牲者を出した郡上一揆は、岐阜市出身の神山征二郎(こうやま せいじろう)によって映画化され、2000年に公開されている。
ところでこの『金氏苛政録』に書かれた郡上一揆がまだ決着を見ないうちに、事件の内容を講談にして密かに語っていた江戸の講談師がいた。名を馬場文耕(ばば ぶんこう)という。『金氏苛政録』には一揆の顛末だけでなく、幕府関係者の一揆に対する処理のまずさについても書かれていた。幕府としてはこんなものを表に出されてはたまらない。文耕は捕らえられて死罪になった。この時、9名の貸本屋も処罰を受け、所払い(居住地から追放されること)になっている。文耕は自分で講談の本を書き、それを書き写して貸本屋に売っていたのである。貸本屋はこうしたご禁制の本をこっそりと裏で人々に貸し出していたのであった。「読むな」といわれれば読みたくなるのが人情である。ちなみに『金氏苛政録』の書本は「大惣」が所持していた本の中にもあったそうだ。
以後、幕府の厳しい言論統制が行われる中、貸本屋の活動はますます活発になった。本屋で売ることができない本も、貸本屋はこっそりと貸し出すことで幕府の厳しい監視の目を逃れていたのである。
「大惣」の終焉と新たな本のまちづくりへ
さて、話を「大惣」に戻そう。
隆盛を誇っていた貸本屋「大惣」が、2万冊を超える蔵書の売却を決めたのは、明治32(1899)年のことである。この年から大正6(1917)年までかかって、大惣の蔵書は帝国国会図書館(国立国会図書館の源流の一つ)、京都帝国大学図書館(現京都大学図書館)、東京帝国大学図書館(現東京大学図書館)にそれぞれ売却された。しかし、東大図書館の蔵書は大正12(1923)年の関東大震災によって焼失し、記録が残っていないそうである。残念というほかはない。
「大惣」が廃業を余儀なくされた背景には、明治維新以後の社会構造的変革がある。まず、木版印刷が活版印刷になり、和綴じ製本から洋風製本へと変更された。これによって本一冊の重量が増え、行商スタイルでの貸本業が不可能になった。さらに西洋の図書館概念の導入により、各地で公立図書館が建設されるようになったため、貸本屋のニーズが激減したのである。江戸時代の貸本屋は有料図書館のような役割を果たしていた。公立図書館も最初は有料だったが、太平洋戦争終結後に無料で市民に開放されるようになった。
「大惣」があったのは、現在の名古屋市錦2丁目あたりだったらしい。実は明治時代には後に推理小説作家として有名になった江戸川乱歩も名古屋に住んでいた。三重県名張市に生まれた乱歩(本名は平井太郎)は幼少期に父の転勤で名古屋に移住し、以後旧制中学を卒業するまで名古屋で暮らしていた。現在は怪人二十面相のシルクハットを模した旧居跡記念碑が建てられているそうだが、やはり大変な本好きであったという。ひょっとすると「大惣」にも通っていたのだろうか。
現在名古屋では円頓寺(えんどうじ)商店街などを中心として、「本のさんぽみち実行委員会」によるフリマ形式のブックマーケットが開催されている。「大惣」などによって培われてきた本の文化はデジタルの世の中になっても健在である。

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【参考文献など】
『名古屋の出版-江戸時代の本屋さん-』名古屋市博物館
『江戸の本屋さん』今田洋三 NHKブックス
『江戸尾張文人交流録』青木健著 ゆまに書房

